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家譜 ~中書省員外郎 李成安の生涯  作者: 早瀬 構
第一部

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第8話

1.


 一二二七年八月。その月、港へ届くもののうち、いちばん重かったのは、ついに届かなかった報せであった。


 ふつう、大人物が死ねば、まず喪の言葉が来る。誰それが崩じた、誰それが哭した、何日、市を鎮めよ――そういう形で、遠い中心の死は地方へ降りてくる。


 だが、その月は違った。


 西から来るはずの絹荷が、二度つづけて半端な数で止まった。止まったといっても、賊に奪われたとか、舟が沈んだとか、そういう派手な話ではない。


 帳面の上では、ただ「追って送る」とだけある。追ってと言う者の九つまでは、追わぬ。


 馬具の注文も急に細った。先月まで、戦の詰めへ向かうからと強気で求めていた筋が、急に「今は少し様子を見たい」と言い出した。様子を見ると言うとき、人はたいてい、もう何かを嗅いでいる。


 穀の護送も遅れた。道が荒れたとも、橋が落ちたとも、誰もはっきり言わぬ。ただ、使いの口だけが重い。道中で会った者の名を言わず、宿駅の様子も濁し、こちらが問えば「まあ、そのうちに」と曖昧に笑う。


 私はそういう沈黙を、よく知っている。


 幼いころ、私が売られたときも、先に大人どもの口が重くなった。決まったことほど、人はぎりぎりまで言葉にしたがらぬ。言葉にした途端、もう戻らぬと知っているからだ。


 だから私は、その月、商人どもの顔つきが急に固くなったのを見て、胸の奥で何か大きいものが倒れたと察した。


 ただ、それを口へ出す前に、成安はもう別のことを言っていた。


「絹は後だ」


 帳場の隅で、荷札を見ながら、そう言った。


「先に穀を拾え。馬具もだ。

  塩は抱えすぎるな。

  動く口の分だけ残せ」


 番頭が顔をしかめた。


「若旦那、まだ正式には何も――」


「正式かどうかはどうでもいい」


 成安は荷札から目を上げなかった。


「大きなものが止まったときは、

  先に食と馬から痩せる」


 その言い方が、私は少し怖かった。


 死んだ、とは言わぬ。誰が、とも言わぬ。神罰とも、天命とも飾らぬ。ただ、止まったあとの減り方だけを言う。そのことが、私はぞっとした。


2.


 福海大人は、その場で細かくは問わなかった。


 帳面へ指を置いたまま、しばらく黙っていた。商人は黙るときにいちばん物を言う。


「穀はどこから拾う」


 やがて、そうだけ訊いた。


 成安はすぐ答えた。


「近場で現に動く口からです。

  遠くの大口は追わない。

  馬具は革紐と鞍先を先に押さえる。

  丸ごとの具足は後回しでよい」


「なぜだ」


「馬が先に減るからです。

  減ったあとで急ぐ者は、

  全部は揃えません。

  先に要るのは繕いです」


 番頭が鼻を鳴らした。


「若旦那は、何でも壊れた後の話を

  なさいますな」


「壊れぬようにする話です」


 成安はそこで初めて顔を上げた。


「丸ごと揃える夢より、

  保たせる方を先に見るべきです」


 その通りであった。しかも嫌なほど、その通りだった。


 港の者なら、ふつうは次の旗色へ利を見に行く。だが成安だけは違った。旗の色より先に、鍋の底と馬の腹を見る。


 福海大人は短くうなずいた。


「よかろう。穀は回収の立つ先から。

  馬具は修繕向きから拾え。

  絹の追加は止める」


 帳場の空気が、そこで少しだけ冷えた。


 絹を止めるとは、景気を止めるに等しい。遠くの死が本当に何であれ、港の者にはまだ利を見たい熱がある。そこへ先に冷水をかけるのだから、気分のよいはずがない。


 だが成安は、皆の顔を見ていなかった。穀の控えを引き寄せ、馬具の荷札を分け、どの口なら今月中に動くか、どの宿継ぎならまだ保つかを静かに洗っていた。


 私は横で控えを書きながら、その指先を見ていた。


 言葉を失う代わりに、手順だけが増えてゆく。


「若様」


 私が小さく呼ぶと、成安は手を止めぬまま言った。


「何です」


「何が止まったと、お考えです」


 成安は少し黙った。


 それから、帳面の余白へ指を置いて、低く言った。


「中心です」


 それだけだった。


 誰が死んだとも言わぬ。だが、それで十分だった。中心が止まれば、遠い港で最初に狂うのは、喪の言葉ではない。約定の順と、荷の流れである。


3.


 その日から三日ほどで、港の異変はもっと露骨になった。


 塩問屋の一つが、いつもなら朝いちで寄越す注文書を昼まで出さなかった。出したと思えば、量が半分になっている。理由を訊くと、「先方の都合で」としか言わぬ。先方とは誰だ、と聞き返しても、そこは濁す。


 北から来る馬商も、笑わなくなった。馬の値を吊り上げるときほど、あの連中は陽気な顔をするものだが、その月は違った。高くは言う。だが声が弾まぬ。高く売れる喜びより、どこで足が止まるかを気にしている顔だった。


 穀を積んだ小舟も、二艘ばかり着きが遅れた。船頭は道中の話をしたがらず、舟縁についた泥ばかり無言で削っていた。人は喋りたくないとき、手先だけやたら働かせる。


 そして、誰も正式な喪に触れなかった。だが皆、そこだけは避けて、塩の話をし、馬の話をし、護送の遅れを言い訳し、銀の渋りを先に語る。


 まるで、死そのものではなく、死後の手間だけが先にこの港へ着いたようだった。


 私はその夕刻、倉の裏で成安を見つけた。馬具の控えと穀の札を膝へ置き、指先で革紐の端を撫でていた。考え込むとき、あの人は人の顔より物の傷み方へ手をやる。


「若様」


「何です」


「皆、口が重うございます」


「そうでしょう」


「何が起きたのでしょうな」


 成安はすぐには答えなかった。革紐から指を離し、穀の札を二枚抜き、それから言った。


「大きい者が死ぬと、皆、まず黙ります」


「悼むからですか」


「違います」


 その声が、妙に静かだった。


「次に誰へ売ればいいか、

  まだ決まっていないからです」


 私はそこで言葉を失った。


 だが成安は、売る先の順しか言わぬ。


 冷たい、と思った。


 そう思ったのに、なぜかその横顔は、冷たいだけには見えなかった。穀の札を抜く指が一度だけ止まり、馬具の控えへ移るとき、ほんのわずかに遅れたのである。


 あの若旦那は、死そのものを怖れているのではない。


 死のあと、人と家がどの順で痩せるかばかり見てしまう者の目つきだった。


 私はそこで初めて、若様の冷たさの底に、別の寒さがあるのを見た。


4.


 四日目の朝、ようやく北筋の商人がひとり、声を潜めて言った。


「……西夏は、もう終わりだそうだ」


 終わりだそうだ、という言い方だった。勝ったとも、滅ぼしたとも、誰がどうしたとも言わぬ。そこだけを曖昧にして、終わった後の話だけ持ってくる。


 その昼には、別の筋から、もっと小さい声が流れた。


 カンが崩れたらしい、と。


 らしい、である。誰も責を負いたくないとき、人は必ずらしいで喋る。


 帳場は騒がなかった。皆、急に忙しいふりをした。札をめくる者、控えを数え直す者、倉へ走る者、湯を頼む者。手だけが慌ただしい。


 福海大人は、成安の前へ帳面をひとつ置いた。


「ここまでだな」


「はい」


「穀は保つか」


「今月分は」


「来月は」


「まだ薄いです」


 福海大人はうなずいた。


「馬具は」


「修繕向きなら足ります。

  ただ、革は締まります」


「絹は」


「いまは動きません」


 短い問答であった。だがその短さが、すでに喪より後始末へ入っていることを物語っていた。


 私は湯を置きながら、妙な気持ちになった。


 あれほど大きな死が出たかもしれぬのに、この家ではまず誰も哭かぬ。出るのは穀、馬具、革、来月分の薄さばかりだ。


 だが、だからこそ私は知っていた。これは不敬ではない。


 港に生きる者どもにとって、遠い権力者の死は、まず値を変え、順を変え、人の口を重くする。私自身、主人が替わるたび、売られる値も、使われる役も変わってきた。この世の冷たさには、もう驚かぬ。


 それでも成安の見方だけは、少し気味が悪かった。死者の名より、死後に痩せる順を先に数えるからだ。


 私はその日、帳場の隅で控えを重ねながら、ふと考えた。


 若様は、勝ち戦すらもう、英雄の話としては見ておられぬのではないか。


 国が止まったあと、誰の椀から先に薄くなるか。


 そういうところから世を見る人なのではないかと。


 そして、もしそうなら、この若旦那は、まだ若いくせに、あまりに老いた目をしている。私はそのことが、喪の報せそのものより、少し恐ろしかった。

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