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家譜 ~中書省員外郎 李成安の生涯  作者: 早瀬 構
第一部

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第9話

1.


 一二二七年九月。ようやく届いた報せは、届くまでに皆が半ば知ってしまっていた種類のものであった。


 西夏は滅び、カンは崩れた。


 そう書けば二行で済む。だが港へ降りてきたのは、二行で済む話ではない。誰が泣いた、誰が跡をまとめる、どこで弔いがある――そういう大きな話は、こちらへ着くころにはもう半分ぬるくなっていた。


 代わりに先に着くのは、倉の空き方である。


 軍へ回された穀の棚が、戻らぬまま空いている。塩俵を積む場所だけ妙に広い。広いのに、誰も安心した顔をせぬ。


 広い棚というものは、物が足りているときより、次に何が来なくなるか分からぬときの方が、よほど不吉に見える。


 その朝、成安は倉を一巡りして、何も言わぬまま赤筆を取った。


 荷札の控えではない。棚ごとの在り高へ、小さく注記を入れてゆく。


「来春、塩薄し」


「馬具修繕分、先に拾うこと」


「人足、秋のうちに休ませぬと春に保たず」


 番頭が顔をしかめた。


「若旦那、報せは届いたばかりで――」


「だからです」


 成安は棚から目を離さなかった。


「いま空いた分は、春に響く」


 私はその声を聞いて、妙に寒くなった。並みの若者なら、カンの死に顔を思う。西夏滅亡の大きさを思う。誰が次に座るのか、どこの軍がどう動くのか、そういう話へ頭を持って行かれる。


 だがこの若旦那だけは、空いた棚を見ていた。


 勝ち戦のあと、何が来なくなるか。遠い中心が止まったあと、どこの塩が細るか。そういうことばかり先に勘定へ入れていた。


2.


 昼になると、北筋の商人が何人か来た。皆、口ぶりだけは慎ましかった。喪の気配をまとっているつもりなのだろう。だが慎ましい顔をした者ほど、次に誰へ売ればよいかを早く知りたがる。


「今後はトルイ様が

  本拠を預かる形になりましょうな」


「しばらくは中央も

  忙しゅうございましょう」


「となると、

  徴発の筋も少し変わりますかな」


 誰も最初には値の話をせぬ。だが三言めには、もう徴発と輸送の順へ話が寄る。弔いの言葉は、たいてい売り先を探す口の前置きにすぎぬ。


 福海大人は黙って聞いておられた。長男様も、いつものように場を荒らさぬ声で応じていた。喪の話を喪のまま受け、誰の面子も削らぬ。家の顔として、あの方はもう充分に立っておられる。


 成安は、その席の端で塩の在庫控えを見ていた。


 私は横からその指先を見た。喪の報せの場で、若旦那は人の顔より札の切れ目を見ている。どこまで残り、どこから来春へ回せるか。春までに何が腐り、何が足りなくなるか。そういうことばかり先に見ている。


「若様」


 私は小さく呼んだ。


「何です」


「皆、中心の話をしております」


「しているでしょう」


「若様は棚をご覧になる」


 成安は、そこでようやく私を見た。


「中心が動くと、先に棚が空く」


 それだけ言って、また紙へ目を落とした。


 私は返す言葉を失った。遠い中心とは、若旦那にとって英雄の座ではないらしい。倉の空き棚に影を落とすもの、それだけであった。


 そして私は、その見え方を気味悪く思う一方で、だんだん怖くもなくなっていた。あまりに何度も当たるからである。


 紙、墨、鍋、馬腹、流民、穀、革紐――若旦那はいつでも、大きな話のあとで最初に痩せる場所を先に言い当ててきた。


 今度は、それが棚なのであった。


3.


 夕刻、私はまた別室へ呼ばれた。


 前と同じく、灯りは低かった。机の上に帳面はない。こういうときの福海大人は、商売より重い話をなさる。


 私は頭を下げて待った。しばらく何も言われなかった。旦那様の大きな手が机の上で止まっている。その止まり方で、前の夜を思い出した。


 あれは当たる、家の中であの当たり方をされると困る、成安を頼む――あのときはまだ、苦さと逡巡が同じ皿へ載っていた。


 だが今夜は違った。


「成安は外で使う」


 福海大人は、低く言った。


「お前も付くことになる」


 私はその二句を、すぐには飲み込めなかった。いや、意味は分かる。分かるが、腹へ落ちるまでに少しときが要った。


「……はい」


 それだけ返すと、旦那様はなお続けた。


「もう家はあれで回り始めている」


 長男様のことだと分かった。


「次のは、使える。だが置けば軋む」


 それきりであった。長くは語らぬ。重い話ほど短いのが、この人の癖である。


 私は頭を下げたまま、胸のあたりが妙に重くなるのを感じていた。見限ったのではない。むしろ逆である。使えると認めたから、外へ出す。家の内へ囲うのでなく、家の外で大きく使う。


 だが、その半端な承認の苦さを、私は知っている。


 私もまた、家の真ん中へ置かれる者ではなかった。使うには便利だが、血の順へは入らぬ。近くに置かれても、決して中心にはならぬ。


 そういう立場で生きてきたから、この旦那様の短い二句のうちにある冷たさが、よく分かった。


 認められぬのではない。認められたうえで、別の場所へ置かれるのである。


 そういう裁きは、あとで長く残る。


4.


 部屋を出ると、廊下の向こうで成安が倉番へ何事か言いつけていた。


 塩俵は風の通る方へ寄せろ、春まで持たせる分は印を変えろ、人足は今月のうちに二日ずつ休ませろ――喪の報せが入った日の顔ではなかった。


 私はその横顔をしばらく見た。


 この若旦那は、もう家の中には収まらぬ。帳場の隅で荷札を見るだけでは済まぬ。遠い中心の揺れが倉の棚へ落ちる、その途中のどこかへ立たされる顔をしていた。


 トルイという名も、成安にとってはまだ遠い。主君の名というより、止まった中心の続きを預かる者の名にすぎぬだろう。


 だが遠い中心は、もう空き棚となってここへ着いている。棚へ着いたものは、いずれ人へ着く。成安がその影の外で済むとは、私には思えなかった。


「若様」


 呼ぶと、成安は振り向いた。


「何です」


「お疲れでしょう」


「まだ合っていません」


 そう言って、若旦那は倉の奥を見た。


 私はもう、それ以上何も言わなかった。


 父上は腹を決めた。長男様はすでに家の重みを受けて立っている。次男は、認められた才として、家の外へ出される。


 遠い中心で大きな死があり、その死後をまとめる手が別に立つ。港ではその影が、空いた棚と、春の塩と、疲れた人足の脚へ落ちる。そしてこの家では、その影が一人の次男の行き先を決める。


 私はその夜、控えを書きながら、妙に筆が重かった。


 西夏は滅び、カンは崩れた。


 そう書けば二行で済む。だが二行のあとに続く余白へ、誰が何を書くかで、家の先は変わる。


 成安はもう、その余白へ朱記を始めていた。

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