第6話
1.
一二二七年六月。市へ入る隊商の遅れが三度つづくと、紙と墨の値が目に見えて跳ねた。
塩や穀の高下なら、港の者はもう驚かぬ。馬が痩せれば草料が上がり、戦が長引けば鉄も布も熱を持つ。そういうことには皆、すでに慣れている。
だが紙と墨である。
帳場の者どもは、最初は笑っていた。紙など、いくらでも代わりが利くとでも思ったのであろう。
ところが三日もすると、笑いは消えた。荷札の写しを取るにも紙が要る。売掛の控えにも要る。徴発の書付が回れば、そちらにも持って行かれる。墨が渋れば、筆の先まで細くなる。
私は書記として、そういう細り方にいちばん先に気づく立場にいた。
紙がなければ約定が曖昧になる。在庫も、徴発も曖昧になる。曖昧になった先で、結局いちばん得をするのは、声の大きい者と腕の強い者である。私はそういう場末を何度も見てきた。
帳面の薄いところから、人は平気で他人の分を食う。
その朝、帳場では紙の束を前に古参が顔をしかめていた。
「この値では、余計に仕入れるだけ損です」
「だが切らせもできぬ」
「今月は抱え込んだ方が
立つかもしれませんぞ」
皆、値の話をする。高く売れる、まだ上がる、ここで押さえれば利が立つ。そういう声ばかりである。
成安は、倉から運ばせた在庫目録を卓へ広げた。
いつものように、誰の顔も見ていない。紙束の厚み、墨の残り、先月からの消え方ばかり見ていた。
「余計に抱えるな」
そう言った。
「今月必要な分は残す。
だが、それ以上は止める」
番頭が鼻を鳴らした。
「若旦那、こういうときは
先に押さえた者が勝ちます」
「勝ちはしません」
成安はあっさり言った。
「記録が痩せるだけです」
場が少し静まった。
「紙墨は、売るためだけにあるのではない。
残すためにある」
それは、景気のよい席で口にするには、あまりに湿り気のない言い方だった。
2.
成安はその日のうちに、紙と墨の使い道を洗い直させた。
どれが恒常保存の控えか。どれが当座の手控えか。どれが写しを一部で足りる文書か。帳場の者どもは面白くなさそうな顔をしたが、福海大人は止めなかった。
止めぬどころか、私に言った。
「ヨハンナン、使う順を控えろ」
私は筆を取り、卓の端で書きつけた。成安は短く言い、私はそれを写した。
「正式の約定と在庫控えは紙を残せ」
「短期の手控えは木簡で足りる」
「西向きの通信は羊皮紙へ回せ」
「同じ文言の重ね書きは減らせ」
帳場の空気が、そこでじわりと冷えた。
誰も、そんな切り分けを好かぬのである。紙が高いなら、紙を押さえればよい。皆がそう考える。だが成安は、紙そのものではなく、文書の寿命と行先を見ていた。
「若旦那」
私は控えを書きながら、思わず顔を上げた。
「そこまで分けますか」
「分けねば保たぬ」
成安は言った。
「何でも紙へ乗せるから足りなくなる」
書記である私には、その理屈が痛いほど分かった。
木簡で済む控えはある。急ぎの覚えなら、むしろその方が早い。西へ向かう書状なら、羊皮紙の方が馴染む筋もある。紙だけが記録ではない。だが、皆が一度紙に慣れると、薄く軽く写せる方へ流れる。
流れた先で、紙だけが先に尽きる。
成安はそれを嫌っていた。高値そのものより、記録の手段を一つに偏らせたまま疑いを持たないことを嫌っていたのである。
福海大人はしばらく黙って、その控えを見ておられた。やがて、低く言った。
「……それで回るか」
「回します」
成安は答えた。
「余計な買い占めを止めれば、
帳は細りません」
福海大人は短くうなずいた。それで話は決まった。決まったが、帳場の者どもの顔色までは決まらぬ。若旦那がまた、人の利より先に秩序の方を勘定へ入れたのである。
3.
昼過ぎ、李家へ使いが来た。
衣の整った男で、歩き方に無駄がない。先ぶれもなく通されるあたり、ただの買い手ではなかった。私は湯を運び、名を聞いて、そこで少し息を呑んだ。
耶律楚材様筋の用人である。
紙と墨を求めている、とのことだった。
帳場の空気は、そこで目に見えて変わった。古参の一人など、もう返事の形を顔へ浮かべていた。列も値も飛ばして、まず渡すべき相手だと、皆がそう思ったのである。
用人は穏やかに言った。
「帝国の行政に要る。急ぎでね」
柔らかな声であった。だが、急ぎというより、断りにくさを先に置く声だった。
福海大人が口を開かれるより先に、成安が言った。
「列に並んでいただきます」
帳場が凍った。
私は思わず手を止めた。紙の端が指に貼りついた。
古参が半ば叫ぶように言った。
「……若旦那。耶律楚材様の
ご用人ですぞ」
成安は、そちらを見もしなかった。
「承知しています」
そう言って、用人へ向き直った。
「ただ、紙が足りぬのです。
急ぎなら、短期記録や手控えは
木簡へ回せます。
西向きの通信なら、
むしろ羊皮紙の方が馴染みましょう。
恒常保存すべき文書だけ紙を使えば、
当座は保ちます」
私は、背筋が少し寒くなるのを覚えた。
無礼なのではない。そこが恐ろしいのである。
若旦那は権威へ逆らっているのではなかった。目の前の男を、肩書でなく、紙墨需要の一つとして扱っているにすぎぬ。
しかも、木簡も羊皮紙も、言われた相手には分かる話である。遼の筋にいた者なら、なおさら分からぬはずがない。
用人は一瞬だけ黙った。
怒った顔はしなかった。むしろ、こちらを量るような目になった。
「……若いのに、よくご存じだ」
「足りぬものの話です」
成安は言った。
「知っておくべきことです」
その言い方が、また悪かった。利口さを見せるのでなく、当然のことのように言う。人を立てぬ代わりに、理屈も飾らぬ。
用人はやがて、かすかに口元を動かした。
「名は」
「李成安」
「成安、か」
それだけ言って、男は欲しい量を言い直した。先ほどより少なかった。私はその数字を聞きながら、腹の底でぞっとしていた。この男は分かったのだ。若旦那の無礼ではなく、切り分けの速さの方を見たのである。
4.
使いが去ったあとも、帳場の空気はすぐには戻らなかった。
古参の顔は青く、若い者は妙に黙っていた。福海大人だけが、湯の冷めた椀をじっと見ておられた。
「お前は……」
と、そこまで言って切った。
叱るのかと思ったが、そうではなかった。福海大人はしばらく黙り、それから低く言った。
「名を覚えられたな」
喜んでいる声でもなく、嫌がっている声でもない。商人が、利と不吉を一つの皿へ載せて眺めるときの声である。
長男様は静かに帳面を閉じた。何も仰らなかったが、あの方は黙るときに場を乱さぬ。弟の言葉が家の外で通じたと知っても、家の中の重みまでそこで動かさぬようにしておられるのが分かった。
成安だけは、もう次の紙束を見ていた。自分が何をしたかより、どれだけ残るかの方を先に見ている顔だった。
私はその横顔を見た。
祈りの本すら、紙がなければ残らぬ。言葉は声だけでは続かぬ。文字になり、控えとなり、倉の奥へ積まれて初めて、明日へ届く。
私は書記だから、それを知っている。
だから、倉の隅で紙束の減り方を見ている若旦那に、妙な敬意を抱いた。華やかな人ではない。勝ち戦の熱に酔う顔もしない。だが、華やかさが尽きたあとに何が残るかだけは、最初から気にしている。
紙墨の高騰など、世の大きな話に比べれば細事である。槍でも馬でもない。
だが帝国というものは、槍と馬だけで立っているのではない。命を下す紙、命を伝える墨、残った責を確かめる控え、そういう痩せたものの上にも立っている。
成安は、そこを見ていた。
用人が去り際にもう一度だけ振り返ったときの目を、私は忘れぬだろう。
役に立つ者は重宝される。
だが、置く場所を違えれば、疎まれもする。
その重みを、私は少し知っている。福海大人も、たぶん知っておられる。だから喜びと警戒が、あの短いひと言のうちに同居していたのだろう。
長男様はもう、家の空気を壊さずに人をまとめ始めている。
次男は、家の利に直に届くが、場の温みを奪う。
同じ家に、二つの才がある。どちらも要る。だが同じようには使えぬ。そのことを、六月の紙と墨がまた一つ、はっきりさせてしまった。
私はその夜、控えを書き終えてから、残り少ない墨を静かに擦った。黒はまだ出る。だが前のようには出ぬ。薄く、細く、すぐ尽きる。
帝国の背骨が軋むというのは、きっとこういう音なのだと思った。




