第5話
1.
一二二七年五月。港では、もう西夏は半ば潰れたような顔で話す者が増えていた。
まだ落ちてもおらぬ城の話を、皆もう済んだように扱う。勝ち戦というのは、実際に終わる前から、人の舌と帳面の上で先に終わるものらしい。
朝から帳場の空気は妙に熱かった。塩の匂いより、口の端へ浮いた利の匂いのほうが強い。
「来月には潮が引くぞ」
華北の隊商主が、まだ椀も置かぬうちからそう言った。
「いまのうちじゃ。鉄も穀も、
積めるだけ押し込め」
「西夏が保つうちは軍が吸う。
終われば終わったで、
戦後の立て直しに物が要る」
「今月の高値を逃したら、
次はもう皆が売りに出る」
私は通詞としてその勢いのよい声を拾い、言葉を変え、また別の者の煽りを訳した。
ソグドの商人も、ムスリムの商人も、言うことは大差ない。いま噛め、いま積め、いま売れ。違うのは神の名くらいで、利の匂いはどれも同じである。
福海大人は黙って聞いておられた。こういうときの旦那様は、機嫌がよいのか悪いのか、外からは分かりにくい。ただ声の大きい者を先には止めず、最後まで喋らせる。
成安も同じ卓にいた。だが誰の顔も見ていない。卓の上へ積まれた荷札と、先月からの売掛控えばかり見ていた。
「若旦那も何か言いなされ」
誰かが笑ってそう言った。冷や水ばかり差す若旦那を、景気の席へ引きずり出してみたかったのであろう。
成安は荷札から目を上げた。
「高く売れるでしょう」
皆がうなずいた。ほれ見ろ、若いのも分かっておる、という顔である。
だが成安は、そのまま続けた。
「ただ、払う方は別です」
そこで、卓のまわりが少しだけ止まった。
2.
「何だそれは」
隊商主が笑った。
「売れるなら結構ではないか」
「売れます」
成安はあっさり言った。
「ですが、勝っても負けても、
終わった話に払う銀は渋ります」
「終わった話?」
「戦です」
成安の声は低かった。
「いまは皆、勝ち戦の景気で気が大きい。
だが、いざ終われば、
その荷は『今すぐ要る物』ではなくなる。
済んだ戦の荷に払う銀は、
たいてい惜しみがつきます」
それを聞いて、あからさまに顔をしかめた者がいた。縁起でもない、と書いてあるような顔である。
「若旦那は、めでたい席で
嫌なことばかり仰る」
「めでたいかどうかは知りません」
成安はそう言った。
「私は帳面の話をしています」
「では帳面で何が見える」
「値が立つほど、
払わずに済ませたい者が増えます」
その言い方が、いつものように悪かった。正しいのだが、人を冷やす正しさである。熱に浮いた場へ、そのまま水の温度で手を入れる。
「高値で売ればよいだけでしょう」
「高値だからこそです」
成安は先月の控えを指で押さえた。
「高く買ったと言い出す者がいる。
道が荒れたと言い出す者がいる。
そうして、払いの口だけ細くなる。
勝ち戦の最中には、皆、買う口をします。
終われば、渋い顔をする」
私はそのやりとりを聞きながら、少しぞっとしていた。
皆が勝ったあとの利を舐めているときに、若様だけが払わぬあとの顔を見ている。
景気話になると、どの男も声が大きくなる。支払いの話になると、急に目を外し、言葉がぬるくなる。私はそういうときの顔を何度も見てきた。だから成安の言うことは、たぶん当たる。
当たるが、当たるほど場の熱を冷ます。
3.
福海大人はなお黙っておられた。黙って、誰が先に笑いを消すか見ているようだった。
やがて帳場の古参が口を開いた。
「では、何も売らぬのですか」
「そうは言っていません」
成安は荷札をめくった。
「鉄も穀も出すべきです。
ただし、売る先を絞る。
掛けが長い相手には深く入れない。
現銀の立つ先を先にする。
値を追って口を広げるより、
回収を狭く固めるべきです」
「利が薄くなるぞ」
「焦げるよりはましです」
そこで別の商人が身を乗り出した。
「潮が引く前に噛まねば、
何も残らぬぞ」
成安はその男を見た。
「熱が引いたあとに売掛だけ残る方が、
何も残りません」
その言葉は静かだったが、妙に場へ刺さった。皆、いま利を数えている。そこへ、来月の焦げ付きを先に置かれるのだから気分のよいはずがない。
私は横目で福海大人を見た。旦那様は息子を見てはおられなかった。卓の向こうにいる古参や商人たちの顔色を見ていた。
そこで私は、また妙な似ものを感じた。
この親子は、見ているものの根が少し似ている。二人とも、夢を追うより先に損の出る場所を見る。
ただし父は、人の顔を見てから数字を口にする。
子は数字を見てから、人の顔を忘れる。
違いはそこだった。
「……よかろう」
福海大人が、ようやく言った。
「鉄も穀も出す。だが口は広げん。
現銀の立つ先を先にする。
戦時の高値に浮かれて、
売掛ばかり抱える真似はせぬ」
誰もすぐには返事をしなかった。旦那様の裁きが出たときには、たいてい皆が先に腹の中で損得をし直す。
「札は洗い直せ」
福海大人は続けた。
「今月のうちに回る銀を先に拾え。
夢で倉は埋まらん」
そこでようやく、あちこちから低い返事が上がった。
成安は何も言わなかった。自分の案が通ったとき、この若旦那は嬉しそうな顔をせぬ。安心したようでもなく、得意げでもない。ただ、まだどこか納まっていない顔をする。
たぶん、正しいことが通ればそれで済む人間ではないのだろう。通ったあとに誰が冷え、どこが軋むかまで、もう半分見えてしまっているのかもしれぬ。
4.
寄り合いのあと、市場へ出ると、さっきまでと同じように景気のよい声が飛んでいた。
「西夏はもう保たん!」
「いまのうちだ、いまのうち!」
「来月には潮が引くぞ!」
皆、自分の言葉で自分を煽っている。熱とはそういうものである。火が強いのではない。火が消える前に手を突っ込みたくなるのだ。
私は通詞として二、三の売り込みを片づけ、戻り道の廊下で成安に追いついた。
「若様」
「何です」
「皆に嫌われますよ」
少し笑って言った。前にも似たことを言った気がする。
成安は足を止めなかった。
「好かれて焦げるよりはいい」
「今日は父上も採られました」
「採っただけです」
それきり、成安は黙った。
私は横顔を見た。喜んではいない。安堵しているようでもない。むしろ、何か別の冷えを嗅いでいる顔だった。
福海大人は褒めなかった。褒めれば、家の中で重みが変わるからである。だが指示は採った。採ったということは、もう役に立つと認めている。
認めているのに、選ばれてはいない。
その半端な承認の苦さくらい、私には分かる。私もまた、家族の真ん中ではなく、役に立つ脇の者として生きてきた。去勢された者など珍しくもないし、そういう者に与えられる役も珍しくない。
だが、役に立つことと愛されることは別である。
若様は、たぶんそれをまだ言葉にしては知らぬ。ただ、父上の短い裁きのうちに、その違いの匂いだけは嗅いだのだろう。
市場の向こうでは、まだ男たちが景気話を膨らませていた。来月には潮が引くぞ、いまのうちじゃ、と、勝手な声ばかり高くなる。
成安だけが、その熱の先を見ていた。
利に目が眩み、売る口と払う口の違いを皆が忘れる。その腐り方を、あの若旦那は妙に早く嗅ぎ取る。
福海大人もまた、別の高さから同じ熱を嫌っておられた。あの人は帳面より先に、熱に浮く人の顔を見る。家の順を崩す熱を嫌う。
だから私は、その日の帰り道、妙に気が重かった。
屋台骨を揺るがすのは、いつも大きな破綻だけではない。
勝ち戦の景気に浮いた声が、家の中の重みを少しずつ読み替え、誰が言い、誰が決め、誰が黙るかを変えてゆく。そういう熱のほうが、案外しつこく柱を傷める。
若様はその熱へ、冷たい水を差した。
差したのは正しい。だが正しい水は、人の顔色まで冷やす。
私はその冷えを、まだ誰にも言わなかった。言わずとも、こういう冷えはたいてい後で形になる。景気話の熱が引いたあとにも、家の中にだけ残る冷たさがあることを、その日の私は、もう半ば知っていた。




