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家譜 ~中書省員外郎 李成安の生涯  作者: 早瀬 構
第一部

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6/31

第5話

1.


 一二二七年五月。港では、もう西夏は半ば潰れたような顔で話す者が増えていた。


 まだ落ちてもおらぬ城の話を、皆もう済んだように扱う。勝ち戦というのは、実際に終わる前から、人の舌と帳面の上で先に終わるものらしい。


 朝から帳場の空気は妙に熱かった。塩の匂いより、口の端へ浮いた利の匂いのほうが強い。


「来月には潮が引くぞ」


 華北の隊商主が、まだ椀も置かぬうちからそう言った。


「いまのうちじゃ。鉄も穀も、

  積めるだけ押し込め」


「西夏が保つうちは軍が吸う。

  終われば終わったで、

  戦後の立て直しに物が要る」


「今月の高値を逃したら、

  次はもう皆が売りに出る」


 私は通詞としてその勢いのよい声を拾い、言葉を変え、また別の者の煽りを訳した。


 ソグドの商人も、ムスリムの商人も、言うことは大差ない。いま噛め、いま積め、いま売れ。違うのは神の名くらいで、利の匂いはどれも同じである。


 福海大人は黙って聞いておられた。こういうときの旦那様は、機嫌がよいのか悪いのか、外からは分かりにくい。ただ声の大きい者を先には止めず、最後まで喋らせる。


 成安も同じ卓にいた。だが誰の顔も見ていない。卓の上へ積まれた荷札と、先月からの売掛控えばかり見ていた。


「若旦那も何か言いなされ」


 誰かが笑ってそう言った。冷や水ばかり差す若旦那を、景気の席へ引きずり出してみたかったのであろう。


 成安は荷札から目を上げた。


「高く売れるでしょう」


 皆がうなずいた。ほれ見ろ、若いのも分かっておる、という顔である。


 だが成安は、そのまま続けた。


「ただ、払う方は別です」


 そこで、卓のまわりが少しだけ止まった。


2.


「何だそれは」


 隊商主が笑った。


「売れるなら結構ではないか」


「売れます」


 成安はあっさり言った。


「ですが、勝っても負けても、

  終わった話に払う銀は渋ります」


「終わった話?」


「戦です」


 成安の声は低かった。


「いまは皆、勝ち戦の景気で気が大きい。

  だが、いざ終われば、

  その荷は『今すぐ要る物』ではなくなる。


  済んだ戦の荷に払う銀は、

  たいてい惜しみがつきます」


 それを聞いて、あからさまに顔をしかめた者がいた。縁起でもない、と書いてあるような顔である。


「若旦那は、めでたい席で

  嫌なことばかり仰る」


「めでたいかどうかは知りません」


 成安はそう言った。


「私は帳面の話をしています」


「では帳面で何が見える」


「値が立つほど、

  払わずに済ませたい者が増えます」


 その言い方が、いつものように悪かった。正しいのだが、人を冷やす正しさである。熱に浮いた場へ、そのまま水の温度で手を入れる。


「高値で売ればよいだけでしょう」


「高値だからこそです」


 成安は先月の控えを指で押さえた。


「高く買ったと言い出す者がいる。

  道が荒れたと言い出す者がいる。

  そうして、払いの口だけ細くなる。


  勝ち戦の最中には、皆、買う口をします。

  終われば、渋い顔をする」


 私はそのやりとりを聞きながら、少しぞっとしていた。


 皆が勝ったあとの利を舐めているときに、若様だけが払わぬあとの顔を見ている。


 景気話になると、どの男も声が大きくなる。支払いの話になると、急に目を外し、言葉がぬるくなる。私はそういうときの顔を何度も見てきた。だから成安の言うことは、たぶん当たる。


 当たるが、当たるほど場の熱を冷ます。


3.


 福海大人はなお黙っておられた。黙って、誰が先に笑いを消すか見ているようだった。


 やがて帳場の古参が口を開いた。


「では、何も売らぬのですか」


「そうは言っていません」


 成安は荷札をめくった。


「鉄も穀も出すべきです。

  ただし、売る先を絞る。

  掛けが長い相手には深く入れない。


  現銀の立つ先を先にする。

  値を追って口を広げるより、

  回収を狭く固めるべきです」


「利が薄くなるぞ」


「焦げるよりはましです」


 そこで別の商人が身を乗り出した。


「潮が引く前に噛まねば、

  何も残らぬぞ」


 成安はその男を見た。


「熱が引いたあとに売掛だけ残る方が、

  何も残りません」


 その言葉は静かだったが、妙に場へ刺さった。皆、いま利を数えている。そこへ、来月の焦げ付きを先に置かれるのだから気分のよいはずがない。


 私は横目で福海大人を見た。旦那様は息子を見てはおられなかった。卓の向こうにいる古参や商人たちの顔色を見ていた。


 そこで私は、また妙な似ものを感じた。


 この親子は、見ているものの根が少し似ている。二人とも、夢を追うより先に損の出る場所を見る。


 ただし父は、人の顔を見てから数字を口にする。


 子は数字を見てから、人の顔を忘れる。


 違いはそこだった。


「……よかろう」


 福海大人が、ようやく言った。


「鉄も穀も出す。だが口は広げん。

  現銀の立つ先を先にする。

  戦時の高値に浮かれて、

  売掛ばかり抱える真似はせぬ」


 誰もすぐには返事をしなかった。旦那様の裁きが出たときには、たいてい皆が先に腹の中で損得をし直す。


「札は洗い直せ」


 福海大人は続けた。


「今月のうちに回る銀を先に拾え。

  夢で倉は埋まらん」


 そこでようやく、あちこちから低い返事が上がった。


 成安は何も言わなかった。自分の案が通ったとき、この若旦那は嬉しそうな顔をせぬ。安心したようでもなく、得意げでもない。ただ、まだどこか納まっていない顔をする。


 たぶん、正しいことが通ればそれで済む人間ではないのだろう。通ったあとに誰が冷え、どこが軋むかまで、もう半分見えてしまっているのかもしれぬ。


4.


 寄り合いのあと、市場へ出ると、さっきまでと同じように景気のよい声が飛んでいた。


「西夏はもう保たん!」


「いまのうちだ、いまのうち!」


「来月には潮が引くぞ!」


 皆、自分の言葉で自分を煽っている。熱とはそういうものである。火が強いのではない。火が消える前に手を突っ込みたくなるのだ。


 私は通詞として二、三の売り込みを片づけ、戻り道の廊下で成安に追いついた。


「若様」


「何です」


「皆に嫌われますよ」


 少し笑って言った。前にも似たことを言った気がする。


 成安は足を止めなかった。


「好かれて焦げるよりはいい」


「今日は父上も採られました」


「採っただけです」


 それきり、成安は黙った。


 私は横顔を見た。喜んではいない。安堵しているようでもない。むしろ、何か別の冷えを嗅いでいる顔だった。


 福海大人は褒めなかった。褒めれば、家の中で重みが変わるからである。だが指示は採った。採ったということは、もう役に立つと認めている。


 認めているのに、選ばれてはいない。


 その半端な承認の苦さくらい、私には分かる。私もまた、家族の真ん中ではなく、役に立つ脇の者として生きてきた。去勢された者など珍しくもないし、そういう者に与えられる役も珍しくない。


 だが、役に立つことと愛されることは別である。


 若様は、たぶんそれをまだ言葉にしては知らぬ。ただ、父上の短い裁きのうちに、その違いの匂いだけは嗅いだのだろう。


 市場の向こうでは、まだ男たちが景気話を膨らませていた。来月には潮が引くぞ、いまのうちじゃ、と、勝手な声ばかり高くなる。


 成安だけが、その熱の先を見ていた。


 利に目が眩み、売る口と払う口の違いを皆が忘れる。その腐り方を、あの若旦那は妙に早く嗅ぎ取る。


 福海大人もまた、別の高さから同じ熱を嫌っておられた。あの人は帳面より先に、熱に浮く人の顔を見る。家の順を崩す熱を嫌う。


 だから私は、その日の帰り道、妙に気が重かった。


 屋台骨を揺るがすのは、いつも大きな破綻だけではない。


 勝ち戦の景気に浮いた声が、家の中の重みを少しずつ読み替え、誰が言い、誰が決め、誰が黙るかを変えてゆく。そういう熱のほうが、案外しつこく柱を傷める。


 若様はその熱へ、冷たい水を差した。


 差したのは正しい。だが正しい水は、人の顔色まで冷やす。


 私はその冷えを、まだ誰にも言わなかった。言わずとも、こういう冷えはたいてい後で形になる。景気話の熱が引いたあとにも、家の中にだけ残る冷たさがあることを、その日の私は、もう半ば知っていた。

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