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家譜 ~中書省員外郎 李成安の生涯  作者: 早瀬 構
第一部

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第4話

1.


 一二二七年四月。その月、港へ入る荷より、北から入る話のほうが重かった。


 西夏遠征もいよいよ詰めへ向かうという風聞は、戦勝の景気話としてより、通りの荒れと通行税の重なりとして港へ届く。


 どこの関で余分に取られた、どこの宿駅で荷が足止めを食った、誰が徴発を口実に約定を曖昧にした。北辺の騒ぎは、ここではまず紙の端に出る。


 その月、うちの商団でも通行税の二重払いが見つかった。ひとつの荷に、別の関で納めたはずの税がもう一度乗っている。


 最初は書き損じと思われた。だが控えを重ねると、書き損じで済む厚みではなかった。


 福海大人は帳場の者を集め、控えと荷札を洗わせた。私は通詞として外の言い分を拾い、書記として控えへ落とし、ついでに雑役夫として筆や水差しまで運んだ。そういうとき、私は大抵、卓の端にいて誰の顔色も見られる。


 成安は、その隅にいた。


 もう病み上がりの若旦那ではない。帳付見習いとして、いくらか場に口を出しても咎められぬようになっていた。


 だがその月は、それだけでは済まなかった。北辺から届く報せが錯綜しすぎていたのである。戦の実報と、噂と、口実と、泣き言が、一つの束になって港へ流れ込んでくる。


 福海大人は、その仕分けまで成安へやらせた。


「噂は噂でまとめろ。実報は実報で分けろ」


 帳場の何人かは面白くなさそうな顔をした。若旦那に荷の損耗を見る才があることは、もう皆知っている。だが今度は、噂と実報まで分けさせる。帳面の若手見習いへ預けるには、少し重い役だった。


 私は横で紙を運んだ。筆を洗った。乾いた控えを重ねた。成安は、数字だけを見ているのではなかった。筆跡を見る。朱の乾き方を見る。荷印の押し直しを見る。関の名前より先に、誰がどこで書き加えたかを見ている。


「若様、それもご覧になるのですか」


 私が思わずそう言うと、成安は紙から目を上げぬまま、言った。


「急いだ筆は、残る」


 まるで、先に破れ目の形を見てから布の値を決めるような口ぶりである。私は少しだけ、ぞっとした。


2.


 寄り合いは昼を過ぎても終わらなかった。


 通行税の控えを並べる。荷札を突き合わせる。道中で誰が書き足したかを問いただす。だが人は、自分に都合の悪い曖昧さほど上手に曖昧なまま語る。


――関で取られたようですな。

――途中で念のため払わせたのでしょう。

――急ぎの荷だったゆえ、

   確認が甘うございました。


 成安はそれを一つずつ分けていった。噂、実報、言い逃れ、押しつけ。その仕分けが妙に速かった。


「これは同じ者の筆ではありません」


 成安は一枚の控えを出した。


「関印は同じでも、書き足した朱が新しい。

  荷印もずれている。

  押し直しの前に、

  行が一つ足されたのでしょう」


 古参の一人が顔をしかめた。


「若旦那、そこまで決めつけますか」


「決めつけてはいません」


 成安はあっさり言った。


「ただ、そうでなければ辻褄が合わない」


 その言い方が、また悪かった。いや、正しいのだ。正しいが、あまりに正しい。誰の面子も立てず、ただ筋だけを立てる。場の空気がそこで少し冷えたのを、私にも感じられた。


 成安はさらに、別の帳面へ指を置いた。


「こちらも同じです。

  二重払いは一度きりではありません。

  同じ手口が使われている。


  誰が先に見逃し、

  誰が後でそれに乗ったか――」


 そのときである。


 福海大人が、卓を叩かぬまでも叩いたような声を出した。


「以上じゃ」


 場が止まった。


 成安は顔を上げた。まだ言うべきことがある者の顔である。福海大人はそれを見たまま、低い声で続けた。


「聞こえなんだか。もうよい、と言うた」


 誰も息を継がなかった。古参も、長男様も、筆を持つ手を止めたまま動かなかった。


 成安だけが、まだ帳面から目を離さなかった。だが口は閉じた。閉じたが、納まってはいない。それくらいは、私にも分かった。


 寄り合いはそこで畳まれた。穴は塞ぐ。けれど、誰の顔をどこまで剥ぐかは、そこで切られたのである。


3.


 帳場を出てから、成安は珍しく口を止めなかった。


「まだ終わっていません」


 倉の裏手で、そう言った。


「同じ筋が三つある。

  あれを曖昧にしたままでは、

  また出る」


 私が黙っていると、成安はさらに言った。


「誰が最初に見逃したかまで出れば、

  次は防げます。

  途中で切れば、責が散る」


 喉まで出かかったが、私は言わなかった。


――旦那様は、それを承知で

   切られたのでしょう。


 言えば正しい。だが、いま言っても若様の腹へは落ちぬだろう。落ちたとしても、傷のように残るだけだ。生き残る者は、真実を全部言わぬ術を持つ。私はそういう沈黙で今日まで食いつないできた。


 成安は、そういう沈黙をまだ持たぬ。


「損を止めるなら、

  最後まで止めねば意味がない」


 私は荷札の束を抱えたまま、若様の横顔を見た。


 裏切りに怒っているのではない、とそのときふと思った。もっと嫌っているものがある。


 ごまかしそのものではなく、ごまかしを公益の顔で通すことだ。皆のために丸く収めました、先を考えてここまでにしました、そういう言い方が、成安はたまらなく嫌いなのだろう。


 若いくせに、怒りの向きが普通ではない。


 私はネストリウス派の教えで育った。罪を数えるだけでは足りぬ。告白には赦しが要る。


 だが成安のやり方には、赦しがない。責の所在を明らかにし、穴を塞ぎ、次を防ぐ。それだけである。冷たい。だが、冷たいからこそ、どこかで人や家が壊れることを恐れているようにも見えた。


 若様はなお何事か言っていたが、私の耳には半ばしか入らなかった。私は別のことを考えていた。


 福海大人が寄り合いを切ったときの顔である。怒りだけではない。あれは、若様の次の一手まで見た顔だ。見て、そこで止めた顔だった。


 損の出る場所を先に見る目。だが福海大人は、見えたものをそのまま全部は言わぬ。家の順を崩さぬところで切る。


 若様には、まだそれがない。同じ方角の目を持ちながら、止まる位置だけが違うのだと、そのときの私はぼんやり思った。


4.


 その夜、私は別室へ呼ばれた。


 呼びに来た小者の顔が妙に固かったので、てっきり私が叱られるのだと思った。若様の愚痴が耳に届いたか。私はそういう最悪を先に数える癖がある。


 部屋へ入ると、福海大人が一人で座っておられた。灯りは低く、机の上にはもう帳面もない。


 昼の勢いのまま怒鳴られるものと思って頭を下げると、しばらく何も言われなかった。


 やがて、福海大人は低い声で言った。


「あれは当たる」


 成安のことだと、すぐに分かった。


「当たるが、

  家の中であの当たり方をされると困る」


 私は黙っていた。答える役ではないときの沈黙くらい、身についている。


 福海大人は少しだけ顔をしかめた。昼の怒りとは違う、もっと腹の底の苦い顔である。


「長男は家を保たせる」


 そこで一度切って、


「次男は破れを見つける」


 と言った。


「どちらも要る。

  だが同じ卓で、同じようには使えん」


 その声には、商人の損得だけではないものが混じっていた。利の話で切るなら、もっと早く切れる。だがこの人は切りながら、切りきれていない。そういう声だった。


 私はそのとき、昼の寄り合いの意味がようやく腹へ落ちた。若様を押し潰したのではない。あれ以上、その才を家の中で剥き出しにさせぬために切ったのである。


 古参の面子も、長男様の座も、取引先との信用も、そしてたぶん、若様自身も守るために。


 福海大人はなおしばらく黙っていた。大きな手が机の上で止まっていた。


 それから、私を見た。


「ヨハンナン」


「はい」


「成安を……頼む」


 たったそれだけだった。


 私はまた頭を下げた。返す言葉は、うまく見つからなかった。


 ああ、この旦那様は若様を案じておられるのだ、と思った。ただ可愛がるのではなく、似た厄介さを見るように案じておられる。損を先に見る目が、あれほど似ているからこそ、放っておけぬのだろう。


 部屋を出たあと、廊下の灯りが妙に薄く見えた。


 昼には、若様が父上は分かっておられぬとでも言いたげに愚痴っていた。夜には、その父が私に次男を託す。


 同じ家の中で、見えているものの高さが皆ちがう。


 そして若様だけが、まだそれを知らぬ。


 噂と実報を分けるというのは、紙の上の話ではなかった。正しいことを正しい順で言ってしまう、あの若旦那の致命的な不器用さを、人目の下へさらしたにすぎぬのだと、私はその夜、ようやく悟った。

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