第3話
1.
一二二七年三月。西夏遠征が長引くにつれ、華北北西の通りは目に見えて荒れ始めた。
荒れるといっても、いきなり賊が湧くとか、道が一夜で消えるとか、そういう話ではない。まず先に、人の口が渋くなる。
宿駅の者は干し草を多くは出したがらず、馬を替える話になると皆が少しずつ顔を曇らせる。道が危ないとき、人はすぐ護衛の数を勘定したがるものだが、この頃は馬の腹の方が先に薄くなっていた。
帳場でも、朝からその相談で騒がしかった。
「人足をもう十は増やすべきです」
「いや、先に護衛の頭数だ。
この時節に人数を惜しめば、
かえって高くつく」
「腕の立つ者を前へ付けねば、
荷が丸ごと止まります」
皆、人の数の話をする。人の数は、そのまま頼もしさの数に見えるからである。金を払った気にもなれるし、働いているふうにも見える。
私は控えを書きながら、その騒ぎを聞いていた。成安も同じ場にいたが、誰かの顔を見ている様子がない。卓の上に出された宿継ぎの控えと、草料の書付ばかり見ていた。
やがて福海大人が、
「お前はどう見る」
とだけ問うた。
成安は顔も上げずに答えた。
「人より先に、馬が保ちません」
場がしんとした。
神の加護も言わず、家の面目も言わず、ただ持たぬものは持たぬと言う。その言い方に、私は少しぞっとした。
若い者が大人の相談へ口を挟むこと自体は珍しくない。だが、この若旦那はいま、人の勇気より先に壊れる順を言った。
「宿駅ごとの干し草が薄い。
馬替えの間も長いままです。
護衛を増やせば、
その分だけ先に痩せます」
古参の番頭が顔をしかめた。
「若旦那は馬の腹ばかり
ご覧になりますな」
「腹が減れば、脚が止まる」
成安はそこでようやく顔を上げた。
「脚が止まれば、人も荷も止まります」
可愛げのないほど、筋の通った言い方であった。
2.
福海大人はすぐには何も仰らなかった。帳面へ指を置いたまま、ただ黙っていた。商人は黙るときにいちばん物を言う。
「……干し草の控えを、
もう一度洗い直せ」
やがて、そう言った。
「宿ごとの馬替えの間も詰める。
護衛の数は、その後だ」
番頭がなお言い募ろうとすると、福海大人はそちらを見もせずに続けた。
「余計な騒ぎにするな。
先に馬を保たせろ。人はそのあとだ」
それで話は決まった。決まったが、皆の胸の内まで収まったわけではない。返事は揃っても、顔色は揃わぬ。若旦那の進言が通ったことより、その進言があまりに早く、しかも当たりそうであることが面白くないのである。
そのときである。長男様が静かに言った。
「では、宿継ぎの方は私が回ります」
声の大きい方ではない。だが、家の中ではよく通る声だった。
「成安、お前はその帳を持って来い。
父上へ見せる分を先に揃えろ」
成安は短くうなずいた。
兄が弟を立てた、と見ればその通りである。嫌味もなければ、面子を削る響きもない。弟の才を見誤らず、自分は自分の持ち場へ回る者の言い方であった。
だが私は、その静けさに別の冷え方を嗅いだ。
長男様は、弟の才を軽んじてはおられぬ。だからこそ真正面からは踏まぬ。場を荒らさず、家の形を崩さぬよう一歩引いて受ける。その遠慮そのものが、聞く者によっては別の意味になる。
実際、その日の夕刻には一つの宿で干し草不足が露わになった。だが昼のうちに馬替えの順と荷の出し方を改めていたおかげで、秣糧や替え馬を高値で掴まされずに済んだ。
いや、それだけではない。干し草の絶対量が足りぬ場面へ先回りできたおかげで、隊列そのものが立ち往生せず、荷を止めずに済んだのである。
宿で足止めを食った他家が揉めているあいだに、うちの荷だけは半歩先へ出られた。
それで、成安の見立ては若旦那の思いつきから実務へ変わった。
3.
福海大人は、その利を誰より先に分かっておられたはずである。高値を呑まず、荷も止めず、他家より先に抜けた。商いとしては文句のない結果だ。
だが、そのときの福海大人は、あまりよい顔をしておられなかった。
番頭が、
「たしかに今回は若旦那の見立てが――」
と口にしかけると、福海大人はそれを遮った。
「秣糧も替え馬も、
高値を呑まずに済んだ」
低い声で、事実だけを言う。
「荷も止まらなんだ。
宿で揉めた他家より、
うちは一歩先へ出た」
そこまでは商人の声である。だが、そのあと成安を見る目が少しだけ悪かった。しかも一瞬、長男様の方へ目をやってから、
「……お前は、
そういうところまで見るのか」
とだけ言った。
褒めているのでも、叱っているのでもない。だが、晴れた顔ではなかった。利が立つほど、次男の重みが家の中で増す。しかもその才を、長男まで見誤っていない。父としては、胸の悪い話であろう。
私はその顔を見て、ようやく分かった。福海大人にとって嫌なのは、成安が当たったことそのものではない。成安の才が、もう家の中で見えすぎていることなのだ。
その日のうちに、私は草原系の運脚どもの愚痴も拾った。通詞の役目は、表の約定だけを訳せば済むものではない。人が気を抜いたときに漏らす本音の方が、よほど後で効く。
荷馬を繋いだ杭のそばで、ひとりが口を歪めた。
「勝ち戦の景気話なら、
いくらでも聞かされる」
別の男が鼻を鳴らした。
「どこの将が強いだの、
どこの道が開いただのな」
「だが、馬腹の減りまで数える奴は
滅多にいねえ」
そこで三人目が笑った。
「おたくの若旦那は、
そこばっかり見てやがる」
「若いくせに嫌な目をしてる。
勝ち筋を見る目じゃねえ」
「あとでどこが潰れるか、
先に嗅いでる目だ」
私はそれを聞きながら、妙に黙り込んでしまった。
私自身、世の中を綺麗には信じていない。幼いころから、人が荷のように売られ、値のよい身体だけが残されるのを見てきた。
勇気や慈悲だけで腹も道も埋まらぬことくらい知っている。それでも、ここまで露骨に壊れる順番だけを見る少年には、まだ馴染めなかった。
4.
夜には、案の定、家人たちの勘ぐりが水場のあたりで回り始めた。
「なるほどな」
「何がだ」
「役が分かれてきたということよ。
長男様は人の前、
次男様は帳場だ」
「これからは、どちらへ顔を出すと
話が早いかね」
「父上も、今日はあちらの帳を
真っ先に見たからな」
私は聞こえぬふりをした。こういう囁きは、問い返したところで止まらぬ。むしろ、止めようとした声の方が後まで残る。
兄は弟を踏みにじる気などない。父も、今すぐ家の順を変えるつもりではあるまい。だが家の中というものは、当人たちの心より先に、周りが勝手に座の重みを読み替える。
長男様の静かな遠慮は、長男だからこそできる尊重であった。だが家人どもは、それを尊重とは取らぬ。譲りと見、重みの移りと見、早くも誰になびけば損が少ないかを量り始める。
同じ卓へ二つの才を並べると、卓は必ずどこかで軋む。
その軋みを、私はその夜、番頭の渋い顔と、水場の囁きと、長男様の言葉少なな背中に見た。
西夏攻略終盤へ向かう帝国の大きな動きは、ここでは宿駅の干し草と、馬腹と、家人の値踏みへ落ちていた。
英雄の話ではない。
馬が先に保たぬと、一人の若旦那が言った。ただそれだけのことで、商いは半歩先へ進み、家の中の空気は別の重みを帯び、少しずつ冷えたのである。
私はその冷えを、まだ誰にも言わなかった。言わずとも、こういう冷えはたいてい後で形になる。若旦那の才が当たるほど、この家での居場所は別の意味を持ち始めるだろうと、そのときの私は、もう半ば知っていた。




