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家譜 ~中書省員外郎 李成安の生涯  作者: 早瀬 構
第一部

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第2話

1.


 一二二七年二月。ジョチ死後の西方不安が、草原から遅れて港へまで滲み出すと、空気は祈りではなく売掛の不安に変わった。


 大人物が死んだと聞けば、人はまず喪の言葉を探すものだ。だが港では、そういう順にならぬ。ましてや、あのカンの長子が逝ってから、もう一年になる。


 誰が代金を払い渋るか、誰が荷を止めるか、誰が「いまは大事の前だから」と約定を曖昧にするか。港では、もうそこが話の種になっていた。


 私も口の中ではネストリウス派の祈祷文を唱えた。唱えはしたが、腹の底で気にしていたのは、結局は同じことだった。


 西へ向けて積んだ高級織物はどうなる。途中で止まれば値は立つのか、それとも口実だけが立って銀は動かぬのか。草原の揉め事は、遠いままでは済まぬ。たいてい、帳面の上へ影を落とす。


 朝から帳場には使いが絶えなかった。ソグド系の商人が、今月分の引取りは少し待ちたいと言う。ムスリム商人のひとりは、払う気はある、ただ道が落ち着くまで待てとぬるい顔で抜かした。


 待てと言う者の九つまでは、期限を切らぬ。


 私は通詞としてその言い分を拾い、書記として控えへ落とし、雑務役として倉の戸を見て回った。


 倉の空気は妙に重かった。荷が傷んだわけではない。縄が切れたわけでもない。ただ、人の顔色だけが先に湿っている。まだ何も起きていないのに、皆がすでに起きるかもしれぬ損の置き場を探していた。


 帳場の隅では、成安が西向けの荷札を見ていた。


 熱病のあとから、この若旦那はこういうときほど静かになる。周りがざわつくほど、かえって声が低くなる。私はもう、その沈み方を少し覚え始めていた。


 福海大人が帳面から目を上げた。


「西の客筋は、しばらく鈍るかもしれんな」


 成安は荷札から目を離さぬまま、


「鈍るなら、なおさらです」


 と言った。


「布を寝かせて利を見に行くより、

  現銀の回収を先にした方がよろしい」


 その場の空気が、そこで少しだけ止まった。


2.


 若い者が口にするには、冷えすぎた判断だったのである。


 古参の番頭が、面白くなさそうに鼻を鳴らした。


「西が荒れるなら、かえって物は立ちます。

  いま手放す方が惜しいのでは」


 成安は首を振った。


「立つ値と、取れる銀は別です」


「そこまで分かりますか」


「分かりはしません」


 成安はあっさり言った。


「ただ、こういうときは皆が同じ言い訳を使う。

  先行きが見えぬ、あと少し待て、と」


「それで」


「待たせる間に、順に焦げます」


 私はその言い方に、少しぞっとした。死者を悼むより先に、焦げ付く順番を言う。しかも、だいたい当たるのだ。


 福海大人はすぐには答えなさらなかった。帳面の上へ指を置いたまま、ただ黙っていた。商人は黙るときにいちばん物を言う。


「では、どうする」


 やがて、そうだけ尋ねた。


「西向けの荷札を見直します。

  高級織物は引渡しを急がず、

  回収の立つ先から順に当たるべきです。


  銀を持つ者には、

  少し譲っても現にしておく。

  戦時輸送の大口に夢を見るのは、

  他所に任せればよろしい」


「大きく儲かる口を捨てるのか」


「夢で帳面は合いません」


 成安はそこで初めて、荷札から手を離した。


「うちは焦げ付かぬ順で動くべきです」


 可愛げのないほど筋の通った物言いであった。


 福海大人は喜んで採ったのではない。だが、数字が正しいとき、人は機嫌の悪い顔のままでもそれを飲む。私にはそれが分かる。私もまた、人の機嫌より先に段取りを覚えることで生き延びてきたからだ。


「……よかろう」


 福海大人は短く言った。


「西向けは現銀回収を先にする。

  札は今日のうちに洗い直せ」


 帳場の者どもは声を揃えて返事をしたが、その声色は揃っていなかった。若旦那の進言が通ったこと自体より、その進言があまりに早すぎたことが面白くないのである。


 成安の正しさは、人を安心させる種類の正しさではない。あの若旦那が口を開くと、その場の誰かが今すぐ損をした気分になる。まだ起きてもいない損を、先に勘定へ入れられてしまうからだ。


3.


 その日のうちに、家人たちの囁きは倉の隅まで流れた。


「若様は、気味の悪い利口者に

  なられたな」


 面と向かって言う者はいない。だが水場でも、荷下ろし場でも、椀を洗う手の合間でも、似たようなことは皆が口にした。人は、自分で名づけられぬものを怖がるとき、まず可笑しな言い方で片づけようとする。


 成安本人は、褒められようとしているふうではなかった。むしろ逆である。まだ起きていない焦げ付きの匂いに、一人だけ先に気づいてしまい、それを黙っていられぬだけのように見えた。


 夕刻、私は控えを書き終えてから、倉の裏手で成安を見つけた。


 荷札を膝に置き、傷んだ縄の端を指でいじっている。あの人は考え込むとき、目の前の議論ではなく、こういう物の傷み方へ手をやる癖がある。


「若様」


 呼ぶと、成安は顔を上げた。


「皆に嫌われますよ」


 少し笑って言った。からかったつもりではなく、半ば事実としてである。


「別に好かれなくていい」


 成安はそう言った。


「そういうことを言うからです」


「好かれて、あとで損をするよりはましだ」


「損を止めても、家の中は冷えます」


「冷えるだけで済むなら、安い」


 私はそこで黙った。


 冷えるだけで済むなら、たしかに安い。だが家の中の冷えは、たいていそれだけでは済まぬ。誰かの面子を削り、誰かの順番を狂わせ、あとで別の場所を軋ませる。


 成安も、それを分かっておらぬわけではない。ただ分かっていても、先に損を止める方を選ぶのである。


「戦のあと腐る荷がある」


 成安は膝の荷札を見ながら、ぽつりと言った。


「皆、いま立つ値ばかり見る」


「若様は後ばかりご覧になる」


「後で困るのは、いつも同じところだ」


 私はその横顔を見た。


 祈りの言葉を持たぬ代わりに、勘定書の余白へ未来の不吉を書き込む人間。いまの成安は、私にはそう見える。英雄譚の前に後始末が見え、勝ち筋の前に腐る荷が見える。若いくせに、妙に物の見方が冷えていた。


4.


 港では、草原の西方不安と西夏遠征の長期化が同ときに噂され、商人たちは利幅と回収のあいだで揺れた。


 ソグド系の隊商主は、いま西へ回せば大きいと言う。ムスリム商人は、揉めているときこそ値が立つと笑う。どの言葉にも、今だけ儲かればよいという熱がある。


 そういう熱は港の人間には珍しくない。明日の波がどうなるか分からぬ者ほど、今日の利へ手を伸ばす。


 だが成安だけは、その熱の外にいた。


 誰が払いを曖昧に済ませようとするか。どの荷が戦のあと倉で腐るか。どこまでを現に変えておけば、次の揺れに耐えられるか。あの若旦那は、そういうことばかり先に見ていた。


 福海大人も、薄々それを悟り始めていたと思う。


 商売には順番がある。誰に先に言うか、誰の顔を立てるか、どこまで待たせて、どこで飲ませるか。その順番を飛ばして正しさを持ち込む者は、たとえ役に立っても家の中で収まりきらぬ。


 長男は家の空気に合う。次男は数字に合う。


 その食い違いが、まだ小さいまま帳場の上へ出ていた。


 私は主の眼差しで物を見る人間ではない。使用人の勘で、椀の置き方や黙る間の長さから危うさを嗅ぐ。だから分かる。この先、成安のような男は、当たるほど居場所が狭くなる。


 若いくせに、あまりに先を見すぎるからだ。


 大人物の死は遠い。


 だが、遠い死ほど倉の中で腐りやすい。

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