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家譜 ~中書省員外郎 李成安の生涯  作者: 早瀬 構
第一部

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第1話

1.


 熱病から起きて以来、李成安は前にも増して口数が少なくなった。


 病み上がりの若旦那など、倉では役に立たぬ。それも次男坊なら、なおさらである。


 帳場へ顔を出したところで、邪魔にならぬ隅へ立たされる。重いものを運ばせればすぐ息が上がる。商いの話を聞かせたところで、家の内と外の違いもろくに分からぬ。


 そういうものだと私は思っていたし、周りの者もそう思っていた。


 だが成安だけは、病のあとの静けさが少し違った。


 荷札の滲みを見る。塩俵の湿りを見る。船腹の余りを見る。雇人の足取りの重さまで見る。誰もいちいち勘定へ入れぬものを、あの若旦那はひと目で拾うようになった。


 顔色はまだ悪い。頬も少しこけた。声も以前より低くなり、余計なことを言わなくなった。ところが、物を見るときだけ妙に冴えていた。


 年が明けて一二二七年一月。冬の海路が滞り、塩と布の荷が港でつかえていた折のことである。


 成安は華北系海商団の帳付見習いとして、荷目録の写しと損耗勘定を任されていた。見習いといっても、ふつうは古い帳面を見て数字を写すばかりで、大した役ではない。誰も、彼が口を挟むとは思っていなかった。


 ところが成安は、積み替えの順が違う、と言った。


「先に布を上へ回したら、下の塩が湿る」


 帳場の男が顔を上げた。


「少し遅れたくらいで、

  そうはなりませんやね」


「少しなら」


 成安はそう言って、濡れた縄の端を指でつまんだ。


「でも、今月はその少しが長い」


 それだけのことであった。怒鳴られもせず、褒められもせず、ただ積み替えの順が変わり、小さな損がひとつ消えた。倉の者どもは、若旦那にしては気がつく、病み上がりにしては使える、その程度の顔をした。


 だが私は、そこでは見なかった。


 私が見たのは、成安の目つきのほうである。


2.


 誰に先に頭を下げるべきか。どこで物が足りなくなるか。何を後回しにすると、あとで誰が腹を立てるか。


 泣き方や媚び方より、そういうことを先に覚えるほうが役に立つ。情けを乞うより、損の出る場所を先に見つけるほうが長く生きられる。


 去勢された者として生きてきた私の目から見ても、成安の目つきは少し理解を外れていた。


 功名ではない。勝ち名乗りでもない。誰かがあとで困る箇所ばかりを先に見つけ、そこへ針を刺すような目つきである。


 口ぶりは静かで、身振りも少ない。だが、見ているところが妙だった。


 父の李福海大人は、表では笑った。


「病み上がりにしては使えるじゃないか」


 豪気にそう言い、周りもつられて笑った。笑って済む話にしておきたかったのである。


 商家では、次男が気が利くことそれ自体は、別にめでたくも何ともない。長男が家の空気に合い、次男が数字に合う。そういう食い違いは、のちのち面倒を生むことが多い。


 福海大人は成安を嫌ってはいない。だが、安心もしていない。それくらいは分かる。


 人の腹の内は、たいてい言葉になる前に手つきへ出る。椀の置き方が変わる。名を呼ぶ順が変わる。帳場で黙る間が、わずかに長くなる。私はそういうもので嗅ぎ取る。私には、そのほうが分かりやすい。


 ある夕刻、帳場から戻ったあと、成安は倉の隅で荷札を見ていた。もう灯りを落としてよい刻限である。


「若様、もうよろしいでしょう」


 私がそう言うと、成安は札から目を離さぬまま答えた。


「この字、同じ者が書いていない」


「それがどうしました」


「いや。ただ、写す者が変わると、

  雑になるところも変わる」


 私は少し黙った。


 成安はようやくこちらを見た。


「あとで困るのは、

  たいていそういうところだ」


 病み上がりの若旦那が言うには、妙に据わった言い方だった。


3.


 帝国の西夏遠征の風聞は、北辺から遅れて伝わってきていた。遠い話ではある。だが、遠いままで済む話でもない。


 軍が動けば道が荒れる。馬が使われれば運ぶ足が減る。荷は遅れ、船は待たされ、塩と布の順ひとつで月末の損益が変わる。


 英雄の話ではない、と私は思う。


 倉にこもる湿気。紙の毛羽立ち。濡れた縄のにおい。そういうところから始まる話である。


 世の大きな動きは、たいていまず荷を腐らせ、人を疲れさせ、勘定を狂わせる。名将の采配だの帝王の志だのという話になるのは、そのあとだ。


 成安は、そこを見ていた。


 荷の遅れが何日つづけば布が先に傷むか。塩俵をどこへ寄せれば湿りがいちばん少ないか。雇人を誰から先に休ませれば、明日の荷下ろしが遅れぬか。


 口にするのは些細なことばかりである。だが、そういう些細なことがよく当たった。


 ある日、帳場の男が面白くなさそうに言った。


「若旦那は、細かいところばかり

  見ておいでですな」


 成安は筆を置いて、


「大きいところは、皆がもう見ている」


 と言った。


 男は鼻で笑った。


「では、小さいところを見れば、

  商いが回ると?」


「回りはしない」


 成安はあっさり言った。


「でも、余計な損は減る」


 その言い方が、私は妙に耳に残った。大きく勝つと言わぬ。取り返すとも言わぬ。ただ、余計な損は減ると言う。若い者にしては、妙に湿り気のない物言いだった。派手さのない、嫌な利口さである。


 私は昔から、人の悲劇を大げさに見ない。自分のこともそうである。幼いころ、イスラム教徒の奴隷商人に身体を奪われたが、そんな子は珍しくもないと、見聞きして知っている。


 よくある損があり、誰の身にも降る苦労がある。私の枷も、そのひとつにすぎぬ。


 だから熱病も同じだと思っていた。子が熱を出す。三日寝込む。熱が引く。少し痩せ、少し黙る。それで済む話のはずだったのである。


 だが、済んでいない。


4.


 この若旦那の目つきだけは、誰にでもある苦労の延長とは少し違っていた。


 熱病で壊れたのではない。怯えたのでもない。何かを失っておとなしくなった顔でもない。あまり気持ちのよくない整い方をしていた。


 その晩、私は粥の椀を運んだ。病み上がりにはまだ重いものを食わせられぬ。湯気の薄い、塩気もほとんどない粥である。


 成安は椀を受け取る前に、中身をひと目見た。


「米を減らしたのか」


「若様の腹に合わせました」


「前より水も多い」


「それも腹に合わせました」


 成安は椀を受け取り、少しだけ考えるような顔をした。


「台所の米も、減ったな」


 私は思わず成安の顔を見た。


「……なぜそう思われます」


「この炊き方だと、そういう日だ」


 それだけ言って、成安は粥を口へ運んだ。味の薄さに不満も言わぬ。ただ、出されたものの向こうにある勘定のほうを先に見ている。


 病み上がりの子は、まず自分の喉や腹の具合を気にするものだ。出された椀の向こう側まで見るのは、飢えた者か、勘定に馴れた者である。


 私は立ったまま、しばらくその横顔を見ていた。


「若様」


「何です」


「あなた様は、

  いつからそんなふうに

  物を見るようになったのです」


 成安は匙を止めた。だが、困った顔はしなかった。ただ静かに、


「前からだ」


 と言った。


「――言わなかっただけだ」


 嘘ではないかもしれぬ。だが、本当でもない、と私は思った。


 前から利発ではあった。けれど、この目は違う。これは賢い目ではない。損を嗅ぐ目である。誰が困り、どこが傷み、何を先に塞げば崩れずに済むか、そういうことばかり先に見つける目だ。


 私はそのとき、まだ何も知らなかった。


 ただ、この若旦那は熱病で弱ったのではなく、何か妙な具合に整って戻ってきたのだと、それだけは分かっていた。

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