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家譜 ~中書省員外郎 李成安の生涯  作者: 早瀬 構
第六部

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第68話

1.


 一二三三年九月。草の色が少しずつ褪せ始めるころになると、南から来た商人どもは、もう帰り支度の手つきになっていた。


 我らの荷も、ほぼ尽きていた。塩は渡すべきところへ渡り、布もまた、それぞれの幕と家の理に応じて散っていった。若様――成安は、帰りの荷札を一つずつ見、縄の締めを確かめ、足りぬものがないかを黙って拾っておられた。


 顔つきは静かであった。だが、腹の内まで軽くなっているわけではあるまいと、私には分かった。


 草原へ来れば、都にいては見えぬものが見える。家の傷み方も、人の寄り方も、噂の熱がどこで本当の寒さへ変わるかも、ここでは隠しようがない。


 若様は、それを見に来たのだ。そして見たのである。


 だから、これでよいのだ、とご自分に言い聞かせておられる顔であった。


 もう二度と、草原へ来ることはあるまい。あとは燕京へ戻り、置かれた場で、あの家へ物を通す。切らさぬようにし、余計な飢えだけを止める。そのくらいが、自分に出来る筋だと、たぶん腹を決めかけておられたのであろう。


 私は荷車の脇で縄を巻き直しながら、そういう若様の背を見ていた。


 そこへ、あの男が来た。


 也速哥である。


 偶然めいていた。荷の最終確認で人の出入りも多い。誰が通っても不思議ではない。だが、あの男だけは、こういう場へ偶然だけで現れるように思えぬ。


 草原の乾いた風のなかで見ると、その顔は燕京で会ったときよりなお白々しかった。笑うでもなく、怒るでもなく、ただ、こちらの荷をひとわたり見た。それで足りる、という目つきである。


「ずいぶん、よく見てこられましたな」


 若様はうなずきもなさらなかった。見たものを、この男に言葉へして渡す気など、最初からないのである。


 也速哥は別に気を悪くしたふうでもなかった。ただ、帳場の綻びでも拾うような気軽さで、また荷へ目をやった。


「それで、なお通しますか。あの家へ」


 私は、その言い方に少しだけ眉をひそめた。責めてもおらぬ。咎めてもおらぬ。ただ、値踏みしている。若様の腹が、最後にどこへ戻るか、その一点だけを量るような問いであった。


 若様は短く答えられた。


「届かぬよりはましです」


 すると也速哥は、顎へ指をやり、何やら考えるような顔をした。


「漢土ふうに申せば、范蠡ですかな」


 私は思わず、月蓮と成謙の方を見た。少し離れたところで、月蓮が子の衣の裾を直している。成謙は別に何も知らぬ顔で、乾いた草の切れ端をいじっていた。


 あの名が、どういう話を指すのか、私は詳しくは知らぬ。だが、若様に言うには、ろくでもない譬えだということだけは、顔色で分かったのである。


2.


 私の気配だけで充分だったのであろう。也速哥は、こちらを見もせずに肩をすくめた。


「ご安心なさい。

  奥方やお子までどうこう申すほど、

  私は下種ではありません」


 その言い方が、なお嫌であった。


 見てはいるのである。家族を脅しの種にするつもりはない、とわざわざ言うということは、見えているものとして勘定へ入れているということだ。


 私は胸の底で舌打ちした。


 若様は何も言われなかった。だが、荷札を持つ指先だけが、ほんのわずかに止まった。


 也速哥はその一拍を見逃さなかった。顎へやっていた指をそのままに、少しだけ口元を動かした。自分でも、いま少し気の利いたことを言おうとしていると分かっている顔である。


「……いや」


 そこで一度、間を置いた。


「あなたは范蠡というより、伍子胥の方だ」


 私はその名もまた、詳しくは知らぬ。だが今度は、譬えの意味が分からずとも充分であった。


 言い返せぬときの、あの静かな顔になった。怒るでもなく、呆れるでもなく、ただ、相手の指がちょうど古傷の上へ置かれたと知った顔である。


 也速哥は、そこで追い打ちを掛けはしなかった。そこがいっそう嫌だった。


 たいていの下劣な手合いは、相手が黙れば、そこへもう一つ石を積む。だがこの男は違う。刺さったと見れば、それで充分らしい。


「国だの家だの、人だの義だのと、

  少し距離を置く顔をしても、

  結局は傷んだ側へ入れ込む。


  そういう手合いは、昔から、

  うまく退けません」


 声に熱はなかった。説教でもない。ただ、値段を言うように置いてくる。


 若様は低く言われた。


「……よくご存じだ」


「ええ」


 也速哥はあっさり答えた。


「お前さん、昔からそうですなあ」


 それだけであった。だが、その「昔」が、妙に場へ残った。


 熱病のあとの若様しか知らぬ者なら、あの一語は使うまい。いや、それだけではない。屋台で晋卿様と交わした短いやり取り、あの方へつい手が出た夜のことまで、この男はどこかで拾っているのかもしれぬ。そう思うと、私は薄く寒くなった。


 若様が人や家へ入れ込むとき、それは大声の忠義として出るのではない。肩の凝りを見れば手が出る。足りぬ荷を見れば通そうとする。そういう手つきが、あの男にはもう見えているのだろうか。


3.


 若様は、しばらく何も言われなかった。


 荷車の脇では、帰り支度の音がなお続いていた。縄が軋む。木箱が鳴る。馬が鼻を鳴らし、どこかで誰かが短く笑う。秋口の草原には、そういう乾いた生活の音があった。


 だが私には、その場だけ少し温度が違って感じられた。


 也速哥は、相変わらず荷を見ていた。若様のお顔ではなく、荷である。塩俵の減り方、布包みの残り、帰りの馬数、そういうものを見ながら、そこへ載っている若様の腹まで量っているように見えた。


「燕京へ戻れば、

  また色々と入り用でしょう」


 何でもないことのように言う。


「都の口は軽い。草原の家は遠い。

  間へ立つ人間は、たいてい、

  自分で思うより深く入ります」


 若様はようやく答えられた。


「分かっております」


「そうでしょうな」


 也速哥はうなずいた。


「分かっていて、やる」


 その物言いが、若様にはいちばん堪えるのである。知らずに踏み込んだと言われるより、知っていて踏み込む性分だと言われる方が、この方にはよほど逃げ場がない。


 私には、それが分かった。


 若様は昔から、勝てる盤面だけを選ぶ方ではない。むしろ逆で、傷みの出るところが見えると、そこへ先に手が行く。理で割り切る顔をしておられるが、本当に割り切れるなら、そもそもここまで来ぬ。


 也速哥は、それを言っているのだ。


 忠義が深いとも、情が厚いとも言わぬ。ただ、お前は結局そういう手合いだ、とだけ置く。


 若様はついに何も返されなかった。


 返せぬのだろう。否定すれば嘘になる。肯けば、それはそれで腹立たしい。


 也速哥は、その沈黙を見て、ほんのわずかに鼻で笑った。勝った顔でもなく、侮った顔でもない。自分で上手いことを言ったつもりの、半歩だけ機嫌のよい顔である。


4.


「では」


 也速哥はそれだけ言って、荷から目を離した。


 別れの言葉としては、あまりに軽い。だが、あの男にはそれで足りるのであろう。言うべきことはもう置いた。あとは相手の胸で勝手に腐る、とでも思っているような去り方であった。


 私はその背を見送りながら、嫌な気分になった。


 怪物じみて去るのではない。脅しを残すでもない。少し気の利いた値踏みをしたつもりで、半ば満足して帰ってゆく。その軽さが、ひどく腹立たしかったのである。


 若様は、なお荷の前に立っておられた。空は高く、風は乾き、帰りの段取りはもうほとんど済んでいる。都へ戻る筋も、荷の勘定も、表向きにはきれいに整っていた。


 だが、若様の胸のうちは、きれいには済んでおるまい。


 草原で何を得たかと問われれば、受領札もある。売れ筋の見立てもある。どの幕で何が動き、どの家へ何を通せばよいか、その順も少しは見えた。


 だがそれだけではなかった。


 この男の嫌な言葉まで、持って帰る荷のうちへ入ってしまったのである。


 范蠡だの伍子胥だの、私にはまだよく分からぬ。分からぬが、若様の性分を、あの男が嫌な譬えで言い当てたことだけは分かる。


 傷んだ側へ肩入れし、筋を通し、持たせようとして、自分までそこへ巻き込まれてゆく。


 若様はたぶん、それをやめられぬ。


 そして、あの男は、それを見抜いたつもりでいる。


 私は縄の締めをもう一度確かめ、月蓮と成謙の方を見た。奥方は子を抱き直し、何も知らぬ顔でその背を軽く撫でていた。


 秋風は乾いていた。だが私には、その風よりなお重いわだかまりが、帰りの荷へ一つ余計に積み込まれたように思われた。

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