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家譜 ~中書省員外郎 李成安の生涯  作者: 早瀬 構
第六部

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第67話

1.


 一二三三年九月。オゴデイ様の幕舎近くでは、日が沈むと、あちらこちらに小さな炭火の輪が出来た。


 羊脂の匂い、馬乳酒の酸い気、乾いた草の焦げる気配、そのあいだを、モンゴル語、漢語、ウイグルの言葉、西域の訛りが、低く混じって流れてゆく。


 都というにはまだ頼りない。布と木と革と縄で、どうにか形を保っているだけである。


 だが、私はこのごろ思う。人が家ごと動き、その家が鍋を掛け、灯りを置き、子を寝かせるようになると、そこはもう仮の営みでは済まぬのだ、と。


 その夜、若様――成安もまた、そういう火の輪の一つへ足を向けた。晋卿様が来ておられたのである。遠目にも、ただの逗留ではないと分かる構えであった。


 荷のほどき方が違う。控える者どもの立ち居が違う。明日にはまた畳む幕ではなく、しばらくここを場と定める者の手つきである。


 その脇に、成仲殿――耶律鋳がおられた。もう十二になる。父君のそばで、別にかしこまりもせず、白い蒸し饅頭を手にしている。


 私は最初、それを見て少し妙な心持ちになった。草原で、しかもこの炭火の並ぶ夜に、まず羊串へ手が伸びぬのである。いや、食えぬのではあるまい。食おうとしないのだ。


 成仲殿は饅頭を割り、中の豚肉を確かめるように一度だけ見て、それから口へ運ばれた。


 こういう場で食う豚のマントウが、燕京のものより旨いはずがない。皮は重く、肉の癖も隠しきれず、蒸し上がりもどこか鈍い。それでも、その御方は羊串へは手を伸ばされぬ。


 若様も、たぶん同じことを見たのであろう。ほんの一瞬、成仲殿の手もとへ目をやった。草原へ家ごと来ていながら、腹の中まで草原へ渡す気はない。そういう小さな意地が、あの子の口にはあるらしかった。


2.


 晋卿様は、すでに羊串を一本受け取っておられた。こちらは何でもない顔で食う。草原に腰を据えると決めた人の食べ方である。若様も礼を述べ、勧められるままに座した。火は低く、煙はときおりこちらへ流れて来た。


 私は少し外した場所に控えたが、こういうときの若様の顔は、横から見た方がよく分かる。


 しばらくは、幕舎の出来、木材の届き方、人夫の増え方、書記の足りなさ、そういう実務の話であった。晋卿様は相変わらず短く、若様もまた無駄なく答える。だが、その流れの中で、ふいに晋卿様が串を返しながら言われた。


「呂氏ではない、と退くまではよかった。

  だが、陶朱公は悪い」


 若様は、そのときいかにも分からぬ顔をなさった。私は胸のうちで、ああ、またか、と思った。この人は、こういうときだけ本当に鈍い。自分ではかなり慎重に言葉を選んだつもりで、その含みまで拾いきれておらぬことがある。


 晋卿様は、帳面の綴じ目でも直すような調子で続けられた。


「お前の本心は分かる。

  権門へ食い込む気がないこともな。

  范蠡は、勾践の窮地を支えた男だ。

  そのうえで、最後には越を去った」


 そこで若様の顔色が変わった。私は横で見ていて、ようやく気づいたな、と思ったのである。野心を退けるつもりで選んだ名が、いつのまにか別の響きを帯びていたのだ。


 権門に媚びぬ、だけでは済まぬ。主を支えはするが、最後には値踏みして去る側、その名を、ご自分で口にしたことになる。


「そのつもりではございませんでした」


 若様がそう言うと、晋卿様は短く、


「分かっておる。だから失言なのだ」


 と返された。


 まことに、この若様らしい。軽薄で口が滑るのではない。正しく言おうとして、比喩の枝まで制せぬのである。昔からそういうところがあったが、年を経ても、根のところはまだ変わらぬらしい。


3.


 成仲殿は、饅頭を食べる手を止めなかった。だが、聞いておらぬ顔でもなかった。父君と若様のあいだを、低い灯りの向こうから、静かに見ておられた。


 あの子もまた、クビライ様とは別の仕方で、人の運びを見る子なのであろう。


 私はその横顔を眺めながら、また饅頭のことを考えていた。羊串の脂を嫌っているのではあるまい。あれは、もっと不出来な食い物をわざわざ選んでいるのである。草原では旨くなりようのない豚のマントウを、なお口へ運ぶ。


 成仲殿は、腹の内で漢地を守っておられるのかもしれぬ。父君が都を北へ寄せようとする、その脇で、子はまだ口の中だけは明け渡さぬ。そう思うと、あの白い饅頭が、妙に重く見えた。


 晋卿様は、もう別の話へ移っておられた。どこに木を置けば湿らぬか、どの筋の書記が足りぬか、幕舎の並びをどう取れば後の普請に転じやすいか。そういう、いかにもあの方らしい乾いた話である。


 若様も応じながら、さきほどの言葉をまだ胸のうちで噛んでおられる顔であった。


 都は、まだ都の顔をしておらぬ。だが、人はもうそこへ家を運び始めている。家財も、女房も、子も、帳面も、控えの者も、一つずつ北へ寄ってくる。


 その中で、若様は草原の火を見、羊脂の匂いを嗅ぎ、成仲殿の手の中の饅頭を見て、何かを数え直しておられた。


 都が動くとは、立派な御殿が建つことではない。人が、自分の鍋をどこへ掛けるかを決めることだ。私はこのごろ、それが少し分かる。だからこそ、成仲殿の小さな意地も、ただの好き嫌いには見えなかった。


4.


 夜が少し更けると、炭火の輪の向こうで、別の言葉がまた立ち、別の笑いが起きた。草原の都とは、こういうものなのであろう。まだ何一つ定まりきらぬまま、すでに人だけは集まり、家だけは根を下ろし始める。


 若様は帰り道、すぐには何も言われなかった。羊脂の匂いがまだ衣へ残っている。遠くで馬が鳴き、別の幕では子の泣く声が小さく聞こえた。やがて若様は、草を踏む音のあいだへ、低く言われた。


「北へ動くのだな」


 私は返事をしなかった。そういうときの若様は、答えを求めておらぬ。ご自分で見たものを、胸の内で並べ直しているだけである。


「都も、人も、家も」


 なお少し歩いてから、今度はもっと低く、


「だが、私の持ち場はまだ燕京だ」


 と言われた。


 私はそのとき、少しだけ安堵した。若様は草原へ惹かれておられるのではない。草原で何が起きるかを見たうえで、なお自分がどこに立つ人間か、ようやく逆に分かったのである。


 都が北へ寄るほど、燕京の紙も、人も、倉も、道も、ますます重くなる。その重さを数えるのは、結局、若様のような人であろう。


 晋卿様は草原へ家ごと来られた。成仲殿は、その草原でなお漢地の饅頭を食う。父は都を動かし、子は腹の内でまだ退かぬ。若様はその両方を見て、ご自分の持ち場だけを、かえってはっきりさせたらしい。


 私は幕へ戻りながら、胸のうちで小さく笑った。失言をして青ざめ、他人の子の饅頭にまで目を留め、そのくせ最後には自分の持ち場を数えに戻る。まことに若様らしい夜であった。


 草原の火は、まだ後ろでいくつも揺れていた。あれらの火のいくつかは、明日には消えよう。だが、いくつかはそのまま家となり、やがて都の灯りになる。


 その灯りの勘定を、誰が合わせるのか。


 若様は、もうたぶん知っておられる。

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