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家譜 ~中書省員外郎 李成安の生涯  作者: 早瀬 構
第六部

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第66話

1.


 一二三三年八月。草原の夏の終わりは、燕京の秋口よりも、かえって人の胸を冷やすことがある。昼の光はまだ強い。だが、その明るさの底で、もう何か一つ季節が過ぎたことだけは分かるのである。


 その日、若様――成安は、クビライ様に呼び止められた。


 背は春よりまた少し伸びていた。顔立ちも、少年の丸みが薄れ、どこか骨ばって見える。だが私がまず目につけたのは、そういう成長ではない。


 表情である。


 喜怒哀楽が消えたのではない。むしろ逆で、あの御方は、人を見るときにまず自分の顔を消すことを覚え始めておられた。


 相手が何を言うか、それだけではない。どこで止まり、何を呑み込み、どう言い換えるか。その運びを見届けるための、薄い無表情である。


 私はそれを見て、薄く寒気を覚えた。


 若い子というものは、賢くても、まず顔へ出る。感心すれば目が動き、面白がれば口元がほどける。だがクビライ様は違った。見ているものを、顔で洩らさぬ。


 若様も、たぶん同じものを感じたのであろう。一礼して前へ出たが、いつものように先に言葉を足すことはなさらなかった。


 クビライ様は、最初はごく穏やかなことを問われた。草原での滞在はどうであったか。南からの荷は、滞りなく届いたか。誰それの幕では、何がよく動いたか。


 若様もまた、穏やかに答えた。だが、どちらも本題はそこにないと、横で聞いている私にも分かった。


 やがてクビライ様は、少しだけ声を低められた。


「南では、我が家は

  傾いたものと見られているか」


 その一言で、場の空気が変わった。


 若様はすぐには答えられなかった。いや、答えを知らぬのではない。知っているからこそ、どこまでを噂として置き、どこからを実際として切るか、その順を量っておられたのである。


 やがて、低く言われた。


「傾いたと見る者はおります」


 そこで一度、言葉を切る。


「ですが南の者どもは、

  傷んだ家と終わった家を、

  取り違えがちにございます」


 クビライ様は、ただ「そうか」とだけ言われた。


 その短さが、かえって私にはよくなかった。面白がってもおらぬ。怒ってもおらぬ。ただ、次を聞く値があると見た者の声であった。


2.


 それから、少し沈黙があった。


 幕の外では、風が乾いた草を鳴らしていた。遠くで、馬がひと声だけ鼻を鳴らした。そういう何でもない音が、妙に近く聞こえる。


 やがてクビライ様は、また問われた。


「そなたの目には、

  父上の死は何に見えた」


 今度の問いには、薄い衣もなかった。


 若様の目が、ほんの一瞬だけ伏せられた。あの方は嘘をつくときより、本当のことをどの順で言うか量るときの方が、よほど黙る。


 やがて顔を上げ、低く答えられた。


「家の柱が一本、

  失われたように見えました」


 そこで終わってもよかった。終われば、無難である。だが若様は、それで済まぬ方だ。


「ですが、それだけではございませぬ。

  抱えずに流し、それでいて家を

  大きく見せていた手そのものを

  失ったように存じました」


 私は横で、少しだけ息を詰めた。


 トルイ様を惜しむ言葉である。だが、ただ惜しむだけではない。あの家の大きさが、何によって支えられていたかまで言い当てている。若様らしいといえば、まことに若様らしい。


 クビライ様は、その言葉を黙って受けられた。顔色は動かぬ。だが、目の止まり方だけが、前より少し深くなったように見えた。


 あの御方は、父君のことをよく見ておられたのであろう。見ていたからこそ、その死をどう名づけるかに、人の腹が出ると知っている。


 そこで終われば、まだ痛みの話で済んだかもしれぬ。


 だが次に来た問いは、もっと冷えていた。


「父上を失っても、

  なお我が家は残ると見るか」


 少し置いて、さらに続けられる。


「そなたは、それでも

  我が家へ物を通すか」


 私はそのときになって、ようやく分かった。


 この試問は、噂を知りたいのでも、父君をどう悼むか聞きたいのでもない。若様が、死後のトルイ家をなお残る家と見ているかどうか。そして、残ると見たときにだけ物を通す男かどうか。そこを測っておられるのである。


3.


 若様は、視線を落とされなかった。


「残るかどうかは、

  残す者がおられるかにございます」


 声は整っていた。整っているときほど、この方は内で強く張っている。


「そして私には、

  なお通すべき家に見えております」


 その答えに、クビライ様は、ようやくほんのわずかに口元を動かされた。笑ったのかどうかも分からぬほどの変化である。


「我が家の呂氏たらん、

  とでも思うか」


 そこで一拍置かれる。


「それとも、奇貨でも見えたか」


 その一刺しは、少年の口から出るには、あまりに冷たかった。


 私は思わず若様の横顔を見た。怒るか、否定するか、そのどちらかへ寄るかと思ったのである。だが若様は、どちらへも振れなかった。


 いや、振れぬのだろう。ああいう問いに、熱く「そのようなことは」と返すのは、たいてい半分図星の者か、まるで場を見ておらぬ者だけである。


 若様は少し黙り、それから真顔のまま言われた。


「私は呂氏にはなれませぬ。

  なろうとも思いませぬ。

  それは私の器ではなく、

  この家の益にもなりますまい」


 そこまでは、よかった。実際その通りである。だが、そのあとは余計であった。


「私はただ、ご厚情を頂いた

  御父上、そして殿下方へ

  報いるべく、兵站と家の備えを

  切らさぬよう努めたいだけにございます。


  ……せめて陶朱公の足下に及べばよい、

  その程度の望みしか持ちませぬ」


 言ってから、若様はほんのわずかに黙られた。


 私には分かった。いまのは気の利いた逃げではない。本心である。本心だからこそ、余計なものまで一緒に出た。


 クビライ様は、それを拾わぬ顔で拾っておられた。


4.


 しばらく、誰も口を開かなかった。


 風がまた一つ、幕の裾を鳴らした。私はその音を聞きながら、ああ、若様はやはりこういうときに取り繕えぬのだ、と思った。


 やがてクビライ様は、ただ一言、


「なるほど」


 と言われた。


 それだけであった。


 長くは続けぬ。問いも足さぬ。だが、その短さがかえって重い。否とも是とも言わぬまま、聞くべきものは聞いた、という声であった。


 若様も、余計なことは言われなかった。もう足しても益はないと知っておられたのであろう。礼を執り、その場を辞した。


 帰り道、若様はしばらく何も言われなかった。私は横を歩きながら、湯でも差し出せぬときのような、あの何とも据わりの悪い心持ちでいた。


「若様」


 ようやく私が声を掛けると、あの方は前を見たまま答えられた。


「何だ」


「いまのは……」


 言いかけて、私はそこでやめた。何と言えばよいのか、自分でも分からなかったからである。失言です、と言うには、あまりに真顔であった。かといって、よい切り返しでした、などと言えるはずもない。


 若様は、その先を促しもなさらなかった。ただ、しばらく歩いてから、低く言われた。


「少し、正直すぎた」


 私は思わず顔を上げた。ご自分でも分かっておられたのである。


 だが、それ以上は続かなかった。弁解もない。あれは違う、という言い直しもない。違わぬからであろう。


 私はそこで、初めて胸の底にある別のものへ気づいた。


 父君の家が、ただ大きいまま崩れずに済んだのは、母君の手も、兄君らの在りようも、そして若様のように外から物と備えを切らさず通した者の働きも、少しは効いているはずである。


 だからこそ、あの御方は甘く見る代わりに量ったのであろう。


 恩があれば甘く見る、というものではないらしい。ああいう方は、恩がある者ほど、正確に量る。


 私はそれが、少し怖かった。


 若様もまた、たぶん同じものを感じておられたのであろう。しばらくしてから、ふと、ほとんど独り言のように言われた。


「……厄介だ」


 私は返事をしなかった。


 まことに、その通りである。


 あの少年は、父君の大きさをそのまま継ぐ方ではあるまい。そしてそういう手合いは、若様のような男にとって、たいてい敵より始末が悪い。


 草原の夕暮れは、まだ明るかった。だが私には、その明るさの底で、何か一つ新しい冷えが生まれたように思われた。

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