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家譜 ~中書省員外郎 李成安の生涯  作者: 早瀬 構
第六部

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第65話

1.


 一二三三年七月。草原の夏は、青いくせに容赦がない。昼は目を射るほど明るく、夕方になれば風が少し骨へ触る。


 その月、若様――成安は、月蓮と成謙を伴って、あらためてソルコクタニ様の幕へ伺った。


 もっとも、前へ出るのは若様ではない。そういう座であることくらい、私にも分かった。若様は幕の口で一度だけ月蓮を見、それからごく短くうなずかれた。任せる、というときの顔である。


 月蓮は、成謙を抱いていた。子はまだ小さい。草原の風の乾き方が珍しいのか、あたりをきょろきょろ見て、別に泣きもしない。


 幕へ通されると、ソルコクタニ様はまず月蓮を見られた。頭から足先まで値踏みするような下品さはない。ただ、一つの家を持たせている女かどうか、その置き方だけを見ておられる目である。


 月蓮もまた、余計に畏まらなかった。礼は尽くす。だが、萎縮はせぬ。椀を受ける手つき、子の抱き直し方、座る位置の取り方、そのどれもが静かで、しかも乱れなかった。


「燕京からですと、

  この乾き方は骨に障りましょう」


 ソルコクタニ様がそう言われると、月蓮は低く答えた。


「はい。ですが、布の置き方が違えば、

  子にはむしろこちらの方が

  楽なこともございます」


 私はそこで、ようやく腹の底の力を抜いた。気候の感想ではない。暮らしの手つきで返したのである。


 やがて話は、布へ移った。草原で要る布、奥に残る布、贈って見栄えが立つ布。その違いを、ソルコクタニ様はごく自然に問われた。


 月蓮は一つずつ答えた。帳へ下ろせるもの、衣へ回せるもの、子へ切っても惜しくないもの。外へ出して軽く見えぬもの、内へ置いて痩せぬもの。言葉は少ない。だが置く順がよかった。


「見栄えのするものほど、

  あとで使い道に困ることもございます」


 月蓮がそう言うと、ソルコクタニ様はほんの少しだけ目を細められた。


「では、困らぬものは?」


「残しても役に立ち、

  出しても顔が立つものでしょう」


 月蓮はそう答えた。


「奥で傷まず、

  いざとなれば外へも回せるものは、

  家を痩せさせませぬ」


 若様は横で黙っていた。ご自分が前へ出る座ではないと、よく分かっておられたのであろう。


2.


 話がひととおり済んだあと、ソルコクタニ様の目が、ふと成謙へ移った。


 子は月蓮の膝で、風に吹かれた草でも見るような顔をしていた。


 ソルコクタニ様は少しだけ身を乗り出し、その頬へそっと手を添えられた。


「この子はいかにも柔和じゃな」


 それから、ほんのわずかに頬を撫でられた。


「大地の子の行く先に、

  神のご加護がありますように」


 たったそれだけであった。


 だが、私はその短さに、かえって背筋が伸びた。月蓮を褒めるでもない。若様へ何かを約すでもない。ただ、子へ祝福を置く。


 こういう形で手を出されるのが、いちばん重い。


 月蓮は、騒がなかった。深く頭を下げ、


「お言葉、ありがたく存じます」


 とだけ答えた。その受け方もまた、よかった。軽くもせず、重くもしすぎぬ。いま置かれたものの値を、ちゃんと同じ重さで返したのである。


 若様だけが、少し遅れてその意味を呑み込まれたらしかった。顔には出さぬ。だが、目の止まり方だけが一拍遅れた。


 私は内心で、やれやれと思った。この方はご自分が認められることには鈍いが、子へ手が伸びると、とたんに勘定が変わる。


 幕を辞するころには、女房衆の空気も少し変わっていた。さきほどまで、燕京から来た商家の妻子でしかなかったものが、今はもう少し内へ入る。そういう変わり方である。


 それは大げさな歓待ではない。座の端へ置かれる椀が少しためらいなくなり、子へ向く目が少しだけやわらぐ、その程度のことである。だが、こういう場ではその程度がいちばんよく利く。


 私は、同じ教えを奉ずる奥向きの者どもの手つきを横目で見ながら、ああ、この家は受けると決めた相手には、こうして静かに道を開くのだな、と思った。


3.


 それから先は早かった。


 ソルコクタニ様の幕で受けてよいとされた品は、別の幕でも話がしやすい。草原とはそういうところらしい。誰それが気に入った、と大声で触れ回るのではない。だが、受けてよいものは、静かに広がる。


 私は外の口を拾い、月蓮は内へ置く形を整えた。


 ある家では、帳にも衣にも下ろせる反物が喜ばれた。別の家では、贈答にも炊事にも使い勝手のよい塩が動いた。見栄えだけの品は、思ったほど走らぬ。


 だが、奥で残せるもの、子へ回せるもの、裂いても惜しくないものは、よく通った。


 月蓮は、その置き方がうまかった。


「これは、使ったあとでも

  無駄が出ませぬ」


「こちらは、外へ見せても

  軽くは見えますまい」


 そういう言い方をすると、相手の女たちの目が変わる。欲しい、ではない。要る、という顔になる。


 私は横で、誰に先に見せれば広がるかだけを考えればよかった。まことに楽な商いである。入口を作れば、あとは月蓮が内へ着地させてしまう。


 もっとも、こちらは少し構えてもいた。ソルコクタニ様の幕で通ったからといって、どこのオルドも同じとは限らぬ。


 だが、拍子抜けするほど普通のところもあった。


 ドレゲネ様の側から呼びが来たときには、私は腹の底で少し身構えた。月蓮もたぶん同じであったろう。


 ところが、行ってみれば別段どうということもない。ただ、「使える品があるなら、こちらでも見たい」というだけの話である。


 敵でもなければ、恩顧でもない。まことに草原らしい、早い勘定であった。


 しかも、そこではソルコクタニ様のところと違う品が動いた。残して重宝するものより、抱えておくと見栄えのするもの、贈って顔の立つもの、まとめて置いておくと札のつくもの。


 月蓮は顔色を変えなかった。ただ、見せる品の順だけを変えた。相手が何を残したい女で、何を寄せたい女か、その違いだけを見ていたのであろう。


 私はそこで、また少し感心した。月蓮は媚びぬ。だが、相手の家の理には逆らわぬ。そのまま受けやすい形へ品を置き直してしまう。こういう女は、商いでは強い。


4.


 夕刻、自分たちの幕へ戻ると、若様は帳面を前にして黙っておられた。貢納の分、人足の分、滞在の分、馬の減り、荷の傷み――そのまま帰れば、持ち出しで終わる旅である。最初からそう読んでおられたのであろう。


 私は荷札の控えを置いた。月蓮は、別の包みを静かに下ろした。売れた分、換わった分、次につながる約束の分である。


 若様は一つずつ見た。最初は怪訝な顔で、次には少し険しい顔で、最後には、妙に静かな顔になられた。


「……これだけ動いたのか」


 私は答えた。


「ええ。しかも、まだ残りがございます」


 若様は月蓮を見た。月蓮は別に誇った顔をしない。ただ、いつものように言った。


「持って帰るだけでは、痩せますから」


 私は危うく笑いそうになった。まことに、その通りである。


 若様はしばらく黙っておられた。それから、控えの上へ指を置いたまま、低く言われた。


「私は、捨てに来た勘定でいた」


「でしょうな」


 思わずそう返すと、若様は一度だけこちらを見られた。叱る顔ではない。半ば呆れた顔である。


「だが、黒に戻る」


 その言い方が、いかにも若様らしかった。大儲けとは言わぬ。手柄とも言わぬ。ただ、黒に戻ると言う。


 しかも、ただ黒に戻っただけではない。次にまた持って来られる筋がついた。どの幕なら何が動くか、誰の名で見せればよいか、どの品は内へ沈み、どの品は外へ流れるか。その順まで少し見えたのである。


 商いでいちばん重いのは、たいていこの「次」である。


 外では、草原の風がまだ乾いていた。どこか遠くで馬が鳴き、別の幕では女たちの笑い声が少しだけした。


 私はその音を聞きながら思った。


 若様は、今回もまた一つ学ばれたのであろう。正しい筋を通すだけでは、家は痩せる。だが、家を持たせる手つきと、外の口を開ける如才なさが揃えば、痩せるはずの旅でも、次へつながる黒に戻る。


 しかも、その口を最初に開けたのは、やはりあのお妃様であった。


 草原では、分ける人の一言が、ときに帳面よりよく利くのである。

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