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家譜 ~中書省員外郎 李成安の生涯  作者: 早瀬 構
第六部

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第64話

1.


 一二三三年六月。若様――成安は、またソルコクタニ様のもとへ呼ばれた。


 前に一度、挨拶へ伺ったときとは、空気が違う。客として礼を尽くされる座ではない。


 こちらがどこまで届く者か、どのくらい家の内へ置いてよいか、そのあたりを静かに量る座であることくらい、幕へ入る前から私にも分かった。


 もっとも、若様はそれを口へはなさらぬ。ただ、膝をついたときの背が、いつもより少しだけ低かった。


 挨拶が済むと、ソルコクタニ様は、今回持ち込まれた布と塩のことを問われた。だが、礼の言葉は短かった。何がどれほど届いたか、で終わらぬ。


「この布は、どこへ回すと

  いちばん角が立ちませぬか」


 柔らかな声で、そう問われる。


 若様は一拍置いてから答えられた。


「表で見えるところへ厚く回せば、

  内が痩せます。


  まず奥で持つ分を残し、

  そのうえで名目の立つ先へ

  お流しになるのがよろしいかと」


 ソルコクタニ様はうなずきもせず、今度は塩へ視線を移された。


「では、こちらは?」


「小分けの利く形で内へ置くのが

  よろしいでしょう。


  そのまま表へ出せば、

  贈り物にも炊事にも中途半端です」


 私は横で聞きながら、腹の底で少しだけ冷えた。布も塩も、ただの進物ではない。大きな家の傷みを、どこから塞ぎ、どこをまだ見せぬか、その順の話になっている。


 ソルコクタニ様はそれを、少しも大仰に扱われなかった。困窮を嘆くでもない。家の不運を語るでもない。ただ、渡す先、残す先、誰の名で動かせば波立たぬか、その順だけを静かに確かめてゆかれる。


 家とは、こういうときにいちばんよく正体を現す。足りぬことそのものより、足りぬ中で何を先に残すかに、その家の骨が出る。


 私はそこでようやく、このお方は家の傷そのものを隠そうとしておられるのではない、と知った。傷みが広がる筋だけを制しておられるのである。


2.


 華北では、トルイ家のことを、持ち上げるときも笑うときも、ひとつの見世物として語る者が多かった。


 大きい家は、都の人間にはそう見えやすい。昨日は豊作、今日は傾き、明日はまた別の値札――。皆、勝手な顔でそう申す。


 だが目の前のソルコクタニ様は、見られる側に立ちながら、ご自分では少しも家を見世物にしておられぬ。


 要るものは受ける。要らぬものは遠ざける。見栄のために内を削らず、かといって内の都合だけで表も捨てぬ。


 そういう手つきが、言葉の端より先に座へ出ていた。


 しかも、その静けさがいかにも重かった。大きな家の中にいる女は、ともすれば悲壮を帯びるか、あるいは威を借りるか、そのどちらかへ寄りがちである。


 だがこのお方には、そのどちらもない。弱った家を守る人の顔でありながら、弱さそのものを見せて人を縛ろうとはなさらぬ。


 若様も、たぶん同じものを見ておられたのであろう。声は平らである。だが、返す言葉がいつもより少し慎重であった。


 相手が欲しておられるのは忠義の言葉ではない。家の呼吸を乱さぬ者かどうか、その一点だと、ようやく腹へ落ちた顔である。


 しばらくして、ソルコクタニ様は息子君たちのことへ話を移された。


「モンケは外で働いております。

  あの子には、あの子の重みがある」


 それから、少しだけ間を置かれた。


「けれど家は、外で戦う者だけで

  持つものではありませぬ」


 私はその言い方に、思わずクビライ様の横顔を思い出した。


 前に幕へ来られたとき、あの王子は人の顔色より先に、若様の指の止まり方や、帳面の運び方を見ておられた。ああいう子は、たいてい後で厄介になる。ただ、ああいう子が家の内で別の重みを持つことも、私は知っていた。


 若様もまた、同じことを思われたらしい。目を上げぬまま、ほんのわずかに息を詰められた。


 ソルコクタニ様は、名を出しては言われぬ。ただ、「残る者、支える者、見て覚える者が要る」とだけ仰せになった。


 それで充分であった。


3.


 やがて、ソルコクタニ様はまっすぐ若様を見られた。


「南では、我が家はどう

  見えているのでしょうな」


 声は柔らかい。だが私は、その問いが噂話を聞きたいだけのものではないとすぐ分かった。家の傷みが、外でどう分類されているかを確かめる問いである。


 若様は、すぐには答えられなかった。慰めを言えば安くなる。正直に言い過ぎれば、それもまた浅い。そういう間が、ほんの一拍だけ落ちた。


「傾いたと申す者はおります」


 若様は低く言われた。


「ですが、傷んだ家と

  終わった家を取り違えている者も

  多うございます」


 幕の内が、そこで少しだけ静かになったように思えた。私は息を止めた。よい答えかどうかは、その場では分からぬ。ただ少なくとも、慰めの顔はしていない。家を哀れみの方へ置く言い方でもない。


 若様は、そこへ余計な希望も付け足されなかった。持ち直すであろう、とも、いずれ皆が見誤りに気づくであろう、とも申さぬ。ただ、外の人間が分類を取り違えている、とだけ言う。あの方らしい、冷えた誠実さである。


 ソルコクタニ様はしばらく若様を見ておられた。やがて、ほんのわずかに口元を緩められた。


「なるほど」


 たったそれだけであった。


 私はその短さに、かえって背中が冷えた。納得されたのか、試しの一つを越えたのか、まだ半分は保留なのか、そのどれとも取れる。こういう方は、大げさに褒めぬ方が怖い。


 だが若様は、少しだけ肩の力を抜かれた。余計な情を混ぜずに済んだことだけは、ご自分でも分かったのであろう。


4.


 幕を辞して外へ出ると、草原の風は乾いていた。遠くで人の声がし、馬が鼻を鳴らし、荷の軋む音が絶えぬ。大きな家の内へ入ったあとでも、外の実際は何一つ止まってはくれぬのである。


 私はしばらく黙って若様の後ろを歩いた。やがて、低く言った。


「ずいぶん量られましたな」


 若様は、すぐには振り返られなかった。


「そうだな」


 それから少し歩き、ようやく続けられた。


「忠か不忠かを見られたのではない」


「ええ」


「家を、余計に傷めぬ者かどうかだ」


 私はそこで、胸のうちで深くうなずいた。若様もようやく、草原へ来た自分が何を問われているのか、はっきり知ったのである。


 役に立つかどうか、だけでは足りぬ。どの役に立ち、どう傷みを広げずに済ませるか。そこまで見られている。


 前には、トルイ様へ届く言葉をどう整えるか、その方が重かった。だが今日は違う。あの家では、表へ届くだけでは足りぬ。奥へ沈めるべきもの、外へ見せるべきもの、その両方を乱さず扱えるかが問われる。


 若様は、ようやくそこへ手を掛けさせてもらったのである。


 若様はさらに低く言われた。


「見込みのある味方か、

  ただ善意で物を運ぶ商人か」


 私は黙った。若様ご自身、半ば答えは見えておられたのであろう。


「……今日は、後者に

  落ち切らずに済んだ」


 その言い方が、いかにも若様らしかった。認められた、とは言わぬ。信を得た、とも言わぬ。ただ、落ち切らずに済んだと言う。


 だが、そういうところが私は嫌いではない。


 大きな家の傷みを前にして、こちらだけが手柄顔をしては、たいていろくなことにならぬからである。


 草原の風は、まだ乾いていた。私はその風の中で、ひとつだけはっきりと思った。若様はもう、トルイ様お一人の大きさへ仕えるのではない。あの家そのものの呼吸へ、手を差し入れるかどうかを試され始めたのだ。


 そして、その家のいちばん深いところには、やはりあのお妃様がおられるのであろう。

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