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家譜 ~中書省員外郎 李成安の生涯  作者: 早瀬 構
第六部

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第69話

1.


 一二三三年十月。商団はついに草原を後にした。


 出立の朝、私は馬の鼻息と、杭を抜く音と、荷を締める縄の軋みとを、いつもより少しだけ耳に残して聞いていた。


 見慣れたはずの営地が、畳まれてゆくときだけは別のものに見える。布幕と杭と荷と人の動きが、遠くなるほど一つの薄い線に変わってゆく。


 都になりかけた営地も、傷んだまま持ちこたえている家々も、やがて風の向こうへ沈んでいった。


 若様――成安は、ほとんど物を言わなかった。


 いや、見ておらぬわけではない。見た上で、何も言わぬのである。草原で見たものが多すぎたのだろう。


 抱えずに流してしまう人の手つきも、あの大きい家の息の長さも、顔を消して人の言葉の順を見始めた少年の目も、皆いちどきには胸へ収まりきらぬらしかった。


 こういうときの若様は、かえって静かになる。頭の中で勘定がついているときではない。勘定のつけようがなく、ただ沈んでいるときの静けさである。


 とりわけ、也速哥の最後の一言だけは、まだ胸の底へ沈み切っておらぬようであった。


――お前さん、昔からそうですなあ。


 たったあれだけである。あれだけだが、若様にはああいう言葉がいちばん残る。怒鳴られた方がまだましだ。敵意なら切れる。だが、半ば呆れ、半ば見透かしたように置かれる一語は、帳面の上で処理できぬ。


 馬車へ移ってからも、若様は窓外の草を見ているのか、何も見ておらぬのか分からぬ顔で揺られておられた。


 休憩の折、私は何の気なしに言った。


「若様、渋抜きの柿がありますが」


 ただ、口当たりのよいものでも入ればと思っただけである。若様はちらとその橙色へ目をやった。だが次の瞬間には、すぐ顔をそむけられた。


「……食べたくない」


 私はそれきり黙った。渋抜きの柿まで要らぬと言うのは、ずいぶん珍しかった。


2.


 昼の食事も、若様はほとんど進まなかった。


 箸をつける。少し口へ運ぶ。それで、もうよいような顔になる。普段から食の太い方ではないが、こういう減り方はよろしくない。


 疲れているのでも、腹をこわしているのでもない。ただ、胸の内へ別のものが居座って、飯の入る場所を狭くしているような食べ方であった。


 私は湯を継ぎ足しながら、どう声を掛けるべきか少し迷った。こういうとき、若様は慰めを嫌う。正しいことを言われても腹は軽くならぬし、気を揉むなと言われて揉まずに済む人でもない。


 その折であった。月蓮様が、馬車を降りたあとで、小さく口を押さえられた。


 顔色が悪い。草原の乾いた風は、燕京育ちの女の身にはやはり骨へ障るのだろう。私は半歩出かけたが、その前に若様がもう動いていた。


「……すまない」


 咄嗟に、そう言われたのである。


 道中の揺れがきつかったのだ、ご自分が無理をさせたのだ、まずそう数えたに違いない。まったく、この方は国も家も損耗もよく見るくせに、こういうときだけは肝心の勘定が一手遅い。


 だが月蓮様は、苦しげな顔のまま、ほんの少しだけ目を和らげられた。


「謝られることではありません」


 それから静かに、いかにもこの人らしい調子で続けられた。


「草原の天地で授かった子ですもの。

  きっと、天衣無縫に育ちます」


 若様は、その意味をすぐには呑み込めなかった。いや、呑み込めても半歩遅れたのである。目が一度だけ止まり、何か言おうとした唇が、そのまま言葉を見失った。


 やがて、ようやくそこまで届いたらしい。


 だが出てきたのは、結局また、


「……すまない」


 という一語だけであった。


 月蓮様は、困ったようにごく薄く笑われた。責めるでもない。喜びを強いるでもない。ただ、そこへ新しく増えるものを、もう家の中の出来事として置いてしまう笑いであった。


 私はそのやり取りを見ながら、思わず胸の内で天を仰いだ。


 長男様の折もそうであったが、若様は本当に、こういうことだけは勘定へ入っていない。人の減り目はよく見るのに、人の増え目にはいつも鈍い。まことに大概な主である。


3.


 だが、いまはその大概さが妙に救いでもあった。


 草原で見た重さは、まだ若様の胸から消えていない。見たものが多すぎたのだ。あの家々の大きさも、流し方のうまさも、冷えた問いも、まだどれも胸の内で整ってはおらぬ。ただ重いまま、いくつも沈んでいる。


 そのくせ、拭いきれずに残っているのは、やはり也速哥のあの一語だけなのだろう。あれだけが、泥のように底へ残って離れぬらしかった。


 若様はこういうとき、何に傷ついたかを口に出さぬ。だが、黙り方の重さだけは隠せぬ。


 その一方で、家は続いてゆく。


 増えてゆく。


 それが、いちばん不思議であった。


 若様は、しばらく月蓮様の方を見ておられた。腹を見たのではない。そういうあからさまな見方はなさらぬ。


 ただ、袖の重なりと、座り直したときの衣擦れと、その向こうにもう一人分の気配があることだけを、遅れてようやく胸へ入れた顔であった。


 喜んだ顔ではない。手放しに嬉しがる人なら、私はとっくに慣れている。若様はそうではない。増えたものの温かさより先に、守るべきものの重みを数える。しかもその重みを、声高に言いはせぬ。ただ黙る。


 だからこそ、私は少しだけほっとした。


 この方はたぶん、草原で見たものをまだこなしきれておらぬ。也速哥の一言も、胸のどこかへ刺さったままである。だが、その刺さりを抱えたままでも、子が増えるという事実だけはもう消えぬ。


 国のことは、いつでも大きい。


 家のことは、いつでも遅れて効く。


 若様の人生は、たいていその順が逆になる。大きいものを先に見て、小さいものの重さはあとで効く。だが、あとで効くものの方が、ときに人を長く生かすこともある。


 月蓮様は、そのことを言葉で説かなかった。ただ湯を受け、座を整え、少し休めばよいと言い、それだけでこの場を元の暮らしへ戻し始めておられた。


 まことに、この人は家の内側から物を支える。


 若様が壊れる前に止める人なら、月蓮様は壊れても戻れる場所を先に残す人である。


4.


 数日して、遠くの霞の向こうに、燕京の気配がうっすらと見え始めた。


 城壁そのものはまだ見えぬ。だが、もうすぐだと分かる。戻ればまた、帳面と倉と、誰の名で何を通すかという話が待っているのであろう。


 若様は、その薄い輪郭を見つめたまま、何も言われなかった。


 草原は背に遠のいていた。


 あの広さも、乾いた風も、見てしまった家々の大きさも、いまはもう後ろへ沈みつつある。だが、沈んだからといって消えるわけではない。人は一度見たものを、そう容易く見なかったことには出来ぬ。


 若様の胸にも、まだ言葉になり切らぬものがいくつも残っているに違いなかった。見たものが多すぎたのだ。そのくせ、底へ残った一語だけは拭えぬまま、まだ胸のどこかを鈍く冷やしている。


 それでも、馬車の中には新しく増えた家のぬくもりがあった。


 若様はたぶん、まだその二つをうまく同じ胸へ収められぬのである。拭えぬ重みと、これから守るべき温かさとが、きれいに並ばぬまま同じところへ居座っている。


 だが人は、たいていそうやって都へ戻るのだろう。


 何かをきれいに片づけて帰るのではない。片づかぬものを抱えたまま、なお次の暮らしへ戻る。


 燕京は前に近づき、草原は後ろへ遠のいた。


 そのあいだで若様はなお静かで、月蓮様はいつものように場を整え、私は荷の揺れを見ながら、ああ、家というものはこうして増えてゆくのだなと思った。


 重いものが残っていても。


 拭えぬ一語が胸の底に沈んだままでも。


 それでも、人は戻り、家は続いてゆく。

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