第62話
1.
一二三三年四月。塩と布を積んだ大商団は、ようやく北の営地へ入った。
私は道中ずっと、もっと武張った空気を予期していた。トルイ様亡き後の草原である。しかも金との戦はなお続き、卞京は二度目の包囲で、もはや人の世の形も怪しいほどだと聞いていた。
ならば草原もまた、兵の気配と武具の光で、風景そのものが硬くなっているものと思っていたのである。
だが着いてみると、まず目についたのは別のものだった。
軍団の主力は出払っている。ゆえに営地には、想像したほどの剣呑さがない。代わりに目立つのは、人夫、工匠、書記、通詞、役人、商人、それに諸家へ物を運ぶ荷駄の列であった。
馬の汗より、木材と革と灰の匂いが強い。そこかしこで杭が打たれ、布幕が張り替えられ、帳付が呼び交わされ、遠い国の言葉が幾筋も重なっていた。
私は思わず足をゆるめた。
営地というより、野に張り出した巨大な造営地である。
しかも、それが小ぢんまりしたものではない。見渡す先まで材木が積まれ、荷がほどかれ、人が動いている。草原のただなかへ、都の前触れだけが先に押し寄せて来たようであった。
車輪の跡で荒れた地面には、まだ新しい木屑が散り、革紐の切れ端や灰のこびりついた縄まで落ちている。
仮の幕舎のはずなのに、その仮がもう仮の顔をしていない。いずれ畳んで消える営ではなく、ここへ何かを留めるつもりで人が手を入れている、その感じがあった。
若様――成安もまた、しばらく黙ってそれを見ておられた。
「書状の類は『百聞』に当たるか」
ふと、そう言われた。
私は返せなかった。返せなかったが、言わんとすることは少し分かる。燕京で積んできた書付や報告には、どこへ何が足りぬか、誰の幕へ何を回すか、冬までに何を整えるか、その筋はたしかに書いてあった。
だが、いま目の前で人と物と声と埃が一つに渦巻いている眺めは、どうにもその紙束の延長としては収まりきらぬ。
私はただ、一見で度肝を抜かれていた。
2.
さらに妙だったのは、華北ほど尖った噂が耳へ入らぬことである。
誰が傾いた、誰が勝者の顔だ、そういう主語のない言葉は少なかった。代わりに飛んでいたのは、どこへ何が足りぬ、どの幕舎へ誰を回す、夏のうちに何を立て、秋までに何を整える、といった現実の話ばかりである。
しかも、その言い方に浮ついたところがない。勝ち戦の勢いに酔った口ぶりでもなければ、都人が面白半分に王家を値踏みする調子でもない。
ただ、目の前の不足をどう継ぐか、その場その場の段取りへ、人の頭がもう使われているのである。
若様はその雑多さの中で、ふいに立ち止まられた。
燕京で見てきた噂と空気は、たしかに嘘ではなかったのであろう。だが、それだけではこの草原の重みは量りきれぬ。
紙は骨を伝え、噂は熱を伝える。だが、いま目の前で巨大な何かが野を削り、形を取り始めているこの手ざわりまでは、どちらにも尽くされていなかった。
若様はまだ、それをどう名づけるか決めかねておられるようだった。
けれど私には、ひとつだけ分かった。
これは、ただの戦時の幕営ではない。
野原に王城を起こす気の帝国が、すでに野を都のように使い始めているのである。
都とは、壁が立ってから都になるのではあるまい。人が集まり、物が流れ、言葉が重なり、そこへ諸家が自分の居場所を差し入れ始めたとき、もう半ば都なのだ。
しかもそれは、華北の都のように、古い城壁や街路の上へ継ぎ足される形ではない。何もない野に、最初から帝国の都として起こそうとしている。その無遠慮さが、私には少し怖かった。
荒野へ線を引き、そこへ人の都合をそのまま立ててしまう。そういう大きさは、信仰の違いだの、古い土地の由緒だのといったものを、最初から勘定の外へ置いているように見えたのである。
私はそのことに、少し寒くなった。
あまりに大きいからである。
若様はその横で、ようやく低く言われた。
「まだ都ではない」
「ええ」
「だが、器だけは、もう作り始めている」
その言い方に、私はうなずくほかなかった。私が呑まれたのは景の大きさだが、若様はその景の中に、器の立ち上がる気配を見ていた。
3.
やがて福海大人の貢納目録に従い、若様と私は主上オゴデイ様の幕舎へ入った。
塩も布も、いまの草原には露骨な必需である。歓迎はされた。笑みもあった。だが若様は、その笑みの向こうに、何か薄い探りを待っておられたようだった。
燕京で兵站の実務に通じ、しかもトルイ家へもわずかに縁のある男として、何か一言くらいは遠回しに量られるものと考えておられたのであろう。
ところが、そうではなかった。
拍子抜けするほど、そういう含みは薄かったのである。
問われるでもなく、ただ塩の数、布の質、運べる筋、燕京の実務に通じた手つきばかりが先に見られた。誰がどこへ薄く縁があるかより、誰が今ここで役に立つかの方が、よほど重かったのである。
若様はその場で、わずかに肩透かしを食らった顔になられた。だが次の一瞬には、もう飲み込んでおられた。
「……歯車、か」
ひどく小さい声で、そう言われた。
私は横で聞き取り、胸の内で少しだけ息を吐いた。まことに、この場にふさわしい言葉である。
主上のお考えがどうであれ、若様など帝国の下吏兼商人にすぎぬ。塩を運び、布を差し回し、紙の筋を読み、必要とあればその巨大な器のどこかへ噛み合わされる側である。
帝国の中心は、そういう細事を呑み込んだまま、使えるものを使える形で数えていた。
殊にオゴデイ様の幕舎は、ただの草原の王帳ではなかった。
色目人の書記が走り、漢人の官僚が控え、工匠が図を持ち込み、僧や占者までが出入りする。私は一瞬、自分が幕舎の中にいるのか、動き始めた都の役所にいるのか、分からなくなった。
若様も、たぶん同じであったろう。
4.
幕舎を出たあとも、私はしばらく口をきけなかった。
草原へ来たのに、見たのは武威より先に形成であった。しかも、その形成の大きさが、私のような者の腹へすら一目で落ちてくる。そういう帝国の動き方を、私はまだ知らなかったのである。
若様は塩の受領札を受け取り、その紙をひと目見てから袖へしまわれた。
札はたしかに事を言い表している。誰が受け、何が動き、どこへ渡るか、その筋は紙に書ける。
だが、さきほど見たあの野の巨大さ、木屑の散る地面の上で、人と物と家と帝国が同時に形を取り始めていたあの気配までは、まだ一枚の紙に収まりようもない。
それでも若様は、紙を粗末には扱われなかった。私はその手つきを見て、少しだけ息を吐いた。
草原の風は乾いていた。遠くではまだ杭を打つ音が続き、荷駄の軋みも絶えぬ。
私は振り返った。
そこには、まだ都ではないものがあった。
だが、都になる気で動く人の群れは、もう充分にあった。
帝国は戦で広がるだけではない。広がったものを留めるために、野原へまで器を起こし始める。その壮大さに、私はただ度肝を抜かれた。
そして若様は、その壮大さの中で、ご自分までまた一つの歯車として数えられていることを、静かに呑んでおられた。
草原へ入ったその日、私の目に映ったのは軍勢ではなかった。
帝国が、まだ何もない野の上へ、自分の都を先に置こうとする、その手つきであった。




