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家譜 ~中書省員外郎 李成安の生涯  作者: 早瀬 構
第六部

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第61話

1.


 一二三三年二月。冬の底は過ぎたはずであったが、燕京の風はなお、人の決めかけた腹を試すように冷たかった。


 若様――成安の机の上から、このところようやく、抱え込んでいた紙束が少しずつ減り始めていた。


 トルイ家の編成割が定まり、誰に何を預け、どこまでを燕京から差し回し、どこから先はもう現地で受けねばならぬか、その筋だけは一応の形を取ったのである。


 楽になったかといえば、そうでもなかった。


 むしろ逆である。燕京に留まっていても、届く範囲そのものが変わってしまったことが、若様にはいよいよ骨身に染みたらしかった。


 噂は、もう充分に見た。熱を帯びるところも、冷えるところも見た。政庁の顔色も、市井の笑いも、草原の家をめぐる都の値踏みも、だいたい一通りは見たのである。


 だが、それだけでは足りぬ。


 何が足りぬかといえば、実際であった。


 モンケ様は、いまどう家を見ておられるか。ソルコクタニ様は、何を足りぬと感じておられるか。帳面の外で、何が本当に傷んでいるか。


 そこをこの目で見ぬかぎり、次に何をどこへどう通すべきか、若様にももう決めきれぬのである。


 その日の夕刻、若様はついに父君――福海大人へ、その話を持ち出された。


「草原へ参ります」


 言い方は短かった。だが、私は横で聞いた瞬間、ああ、これは荒れる、と思った。荒れぬはずがない。


 案の定である。福海大人は、最初の一息で雷になられた。


「お前は気でも違ったか」


 どんと卓を叩く。


「お前一人で北へ転がるなら勝手にしろ。

  だが、妻子をどうするつもりだ。

  置いて行っても地獄、

  連れて行っても地獄だ。この変人め」


 まことに、その通りである。私も半ばそう思った。


 若様は黙って頭を下げておられた。こういうとき、この方は言い返さぬ。理はある。だが理が通る話ではないと知っているときだけ、妙に黙る。


 福海大人はなお怒鳴られた。


「月蓮まで巻き込むな。お前一人の無茶と、

  嫁と孫の不便は別勘定だ」


 そこへ、音もなく月蓮が口を挟んだ。


「私も参ります」


 部屋の空気が、そこで一度、妙に静かになった。


2.


 福海大人は、さすがにすぐには怒鳴れなかった。若様へ向いていた怒りが、そのまま娘のような嫁へは向かぬのである。


 目をしばたたかせ、それから声だけ少し落として言われた。


「お前まで、無理して変人に

  付き合う必要はないんだぞ」


 ところが月蓮は首を振った。


「付き合うのではありません。

  私も行くのです」


 声は穏やかであった。穏やかなだけに、引きにくい。


「傷んだ家を訪ねるのに、

  成安殿ひとりでは

  仕事の顔しか持って行けません。

  いまは、家として参るべきときです」


 私はそのとき、ああ、若様はまた一歩先を妻に言われたな、と思った。草原へ行く理屈は、若様にもあった。だがそれは、届くか届かぬか、通るか通らぬか、そういう実務の理であった。


 月蓮はそこへ、家の理を置いたのである。


 若様は少しだけ黙り、それから低く言われた。


「ただの私行では、通りませぬ」


「でしょうね」


 月蓮はそれだけで済ませた。分かっている、と言う顔である。


 若様はそこで初めて、少し考える人の顔になられた。乳児連れの長旅という無茶を、無茶のままで通すわけにはいかぬ。筋が要る。名目が要る。誰の目にも、それなりの体裁に見える形が要る。


 しばらく黙っておられたが、やがて、追い詰められた者がようやく一筋の道を見つけたように、ぽつりと言われた。


「主上への貢納に同道する形なら……」


 私はそこで、腹の底でうめいた。出た、と。


 塩は李家が握る。布は韓家が握る。表向きには新体制下の恭順と献意を示す大商団。実際には、その隊列に家族ごと紛れ込んで草原へ入る。


 しかも荷の組み方次第では、トルイ家へ必要な実用品まで、ごく自然に載せられる。


 面倒で、ややこしく、しかも妙に筋が通っていた。


 福海大人はしばらく絶句し、それから呻くように言われた。


「誰がそんな面倒を思いつく」


 若様は答えぬ。


「……思い付きが過ぎる。この変人」


 吐き捨てるようにそう言って、父君は月蓮の膝の上の成謙へ、ほんの一瞬だけ目をやられた。


 そのあとに、わずかな沈黙が落ちた。そこだけ、怒りが遅れたのである。


 その遅れを、私は見逃さなかった。


3.


 商人が腹を括るときは早い。福海大人は次の瞬間にはもう、怒る父ではなく、損の出ぬ順を組む家長の顔になっておられた。


「塩蔵は南の二つを開けろ。

  湿りの浅いものから出す。


  馬は替えを多めに見ろ。

  宿駅へは先触れを飛ばせ。

  護衛は見映えより実のある者だ」


 そこまでは、よくある話である。


 だが、そのあとからが少し違った。


「乳母は慣れた者を二人付けろ。

  揺れの長い区間では昼に休ませる。

  成謙の寝具は、北向きの毛の厚いものだ。

  薄いのを持たせたら承知せん」


 番頭どもが一瞬、顔を見合わせた。


 父君は気づかぬふりで続けられる。


「薬は腹と咳を別に分けろ。

  雪に閉じられたときの宿は、

  女と子を先に入れられる家を押さえろ。

  馬上で冷えた乳を飲ませるな」


 もう塩の話ではなかった。貢納目録でもない。まことに見事な孫中心である。


 それでも福海大人は、建前だけは崩されぬ。


「これは孫のためではない。

  主上への貢納だ。たまたま行き先が

  お前たちと同じなだけだ」


 そう言い切ってから、すぐ次の指図へ移る。だが、番頭の一人が毛皮の質を確かめ損ねると、父君はそこだけ声を荒げた。


「成謙の頬へ当たるものだぞ。

  いや、荷の顔になるものだ。

  見苦しい毛並みを混ぜるな」


 危ない言い直しであった。私はうつむいて笑いを噛み殺した。


 布の側もまた、韓家がすぐに巻き込まれた。見映えのする反物、幕布、贈答の細工物。その陰へ、道中で要る布、乳児に巻く柔らかい布、草原で不足しそうな生活の品をどう紛れ込ませるかで、奥向きまでひっくり返る。


 若様は自分の思いつきが両家を大騒ぎにしたことに胃を痛めておられた。文書の整え、名目の立て方、荷札の順、誰の目にどう映るか。そういうことばかり詰める顔になっていた。


 月蓮だけが妙に落ち着いていた。旅支度の手順を一つずつ置き、成謙の夜着を確かめ、乳母へ短く指図し、騒ぎの中心にいながら、少しも騒ぎの顔をしない。


 私はその横で、ああ、この夫婦はやはり高さが違う、と思った。同じ旅へ出るのに、若様は名目を整え、月蓮は暮らしを整えるのである。


4.


 出立前夜になっても、福海大人の機嫌は少しも直らなかった。


「無事に帰ってきても、

  しばらくはお前を許さん」


 若様へ向かって、そう吐き捨てる。だが吐き捨てながら、手元ではなお荷の点検が終わらぬ。


 毛皮の縫い目は甘くないか。薬包みの封は緩んでおらぬか。風雪で道が塞がれたとき、どの宿へ入り、どの家の戸を叩けばよいか。夜具の湿りを防ぐため、箱の底へ何を敷くか。


 しまいには、ご自分で成謙の寝台代わりの籠まで覗き込み、


「揺れが強すぎる」


 と顔をしかめられた。


「綿をもう一枚入れろ。いや、二枚だ。

  これでは首が落ち着かん」


 番頭が「主上への貢納の道具立てにございます」と言いかけると、父君は即座に切られた。


「だから、その行列の

  見映えの話をしている」


 見映えで首の揺れが収まるものでもあるまい。私はもう何も言わぬことにした。


 若様は、その一つ一つを黙って受けておられた。成謙を抱いた月蓮も、何も茶化さぬ。ただ、礼だけはきちんと置いた。


 翌朝、塩と布の連合は、表向きには主上オゴデイ様への貢納を奉じる、整然たる大商団として燕京を発った。


 先頭には見映えのする荷が並ぶ。塩俵は白く乾き、反物はきちんと巻かれ、護衛も馬も、いかにもよく整って見えた。


 だが私には、その整然の下へ、別のものまで見えていた。


 傷んだ家へ向かうための荷である。


 若様が噂ではなく実際を見るための旅である。


 そして何より、怒鳴りながら一番細かく孫の夜具を気にした父親が、建前の陰へ押し込んだ不器用な情の隊列でもあった。


 城門を抜け、行列が北へ動き出すと、燕京の言葉の世界は背後へ下がった。前にあるのは草原である。風の向きも、家の傷み方も、都の噂よりはるかに容赦ない実際である。


 私は揺れる荷車の脇で、北の空を見た。


 若様は、もう燕京に留まって届く人では足りぬところまで来ていた。


 だから今度は、自分の家を伴って、届くかどうかを見に行くのである。

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