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家譜 ~中書省員外郎 李成安の生涯  作者: 早瀬 構
第六部

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第58話

1.


 一二三二年八月。夏が盛りを越えるころになると、草原から届く風聞の肌ざわりが、先月までとは目に見えて変わった。


 主上オゴデイ様は快方へ向かわれ、すでに幕舎の外へも出ておられるという。燕京では、その報せが届いた瞬間から、人の顔つきが半歩ずつ軽くなった。


 こういうとき、人は安堵の言葉でも述べるものだ。だが都では、その順にならぬ。六月から七月にかけて、トルイ様とモンケ様の名をことさらに高く掲げ、まるで天がもう次の座まで決めたような口ぶりで囃していた者どもが、今度は急に別の話をし始めるのである。


――主上は、やはり丈夫だ。


――あの程度で傾くほど、

   帝国も浅くない。


――四男家が目立ったのも、

   ひと夏の景気であったな。


 私はそれを聞きながら、胸のうちで少し冷えた。持ち上げるときは軽く、手を離すときはもっと軽い。都の熱とは、やはりそういうものである。


 若様――成安も、同じことを思われたのであろう。その日の昼、政庁の紙束へ目を落としながら、低く言われた。


「早い」


 何が、と私は訊かなかった。人の手のひらの返り方が、である。そういうことは、言葉にしたところで少しもましにはならぬ。


 もっとも、この夏の熱がそれだけで終わるとも、私は思わなかった。いったん高く上がった噂は、消えるのでなく、別の値札へ張り替えられる。


 今は鎮まったように見えても、誰がどこで笑われ、誰がどこで都合よく持ち上げられたか、その薄い垢だけは残る。


 若様も、それを分かっておられたはずである。ゆえに、その日の顔はいよいよ静かだった。怒っている顔ではない。騒ぎが引いたあとの灰の温度を、指先で量っているような顔であった。


 その夕刻である。取次もあまり大げさでなく、一人の若者が政庁へ入って来た。


 私は見て、すぐに分かった。


 モンケ様である。


2.


 前に燕京へお見えになったときも、あの方は供回りを重く引きずる類ではなかった。今回も同じである。隠れておられるつもりでもなかろうが、わざわざ目立とうとする気配もない。


 若様は立ち上がり、きわめて役所らしい顔で礼を取られた。だがモンケ様は、そのまま政庁の奥へ入るのでなく、こちらを見て言われた。


「今日は、壁のあるところで

  話す気がしない」


 若様は一瞬だけ眉を動かされた。それから私へ目をやり、すぐに帳面を閉じた。


 向かった先は、いつもの屋台筋であった。細い路地に炭火の赤が滲み、羊脂の匂いが低く流れている。私は少し後ろに控えた。席へ同じように着くほど無粋でもあるまい。だが、若様の顔つきがよく見えるくらいの距離にはいた。


 モンケ様は串を受け取ると、焼き色を確かめるでもなく、いかにも腹の減った若者の手つきでかぶりつかれた。脂が炭へ落ち、じゅっと音を立てる。あまりにうまそうなので、私は一瞬、それだけのために来られたのかとすら思った。


 だが若様は、そこでなお顔を緩めなかった。


「この夏、燕京で立った噂を

  ご存じですか」


 そう切り出された声は、ひどく整っていた。


 主上の病が、どう都人の口で別の形へ変わったか。トルイ家の大きさと、モンケ様の見映えとが、どう作為めいた光の中へ置かれたか。


 いまは称えられていても、いずれそれが家を傷める値札へ変わり得ること。軽い期待ほど、あとで重い借りになること。


 若様は、一つずつ述べられた。羊串の煙の下で聞くには、いささか堅すぎる話である。だが、あの方はこういうときほど筋を崩さぬ。


 モンケ様は最初、ただ笑って聞いておられた。


 嘲ったのではない。軽んじたのでもない。ただ、相手がどこまで言うか、最後まで聞いてみる者の笑いであった。それが若様には、少し違って見えたのであろう。声の端が、わずかに硬くなった。


「都の期待は、責になりかねませぬ」


「だろうな」


 モンケ様はそこで串を置かれた。


「お前の見立ては、たぶん正しい」


 若様は言葉を失われた。もっと押し返されると思っていたのだろう。あるいは笑って流されると見ていたのかもしれぬ。


 だがモンケ様は、肩をすくめて続けられた。


「草原では、実際がすべてだ」


 風が少し流れ、炭火の灰が白く動いた。


「家が傷めば、傷んだまま冬を越す。

  馬が足りなければ、足りぬまま出る。

  見映えで春は来ない」


 若様は、黙って聞いておられた。


「最悪なら最悪でいい。

  取り繕うより、

  そのあと越える方を考える」


 私はその言葉を聞いて、腹の底で少しだけ息を吐いた。若様は都で、人の噂がどんな形で傷になるかを先に見る。モンケ様は、傷があるならあるで、そのまま持って進む方を見る。


 どちらも間違ってはおらぬ。だが、見ている高さが違うのである。


3.


 若様はしばらく何も言われなかった。羊串の煙がそのあいだを細く流れ、隣の卓では誰かが炭の値上がりを嘆いていた。


 やがて、若様が低く言われた。


「見抜くだけでは、足りませぬか」


 モンケ様は少し笑われた。今度の笑いは、もう最初のものとは違った。若い者が年長をからかう顔ではない。同じ戦場へ立つ者を見つけたときの顔である。


「足りぬとは言わん」


 そう言って、盃を指で回した。


「だが、お前はそこで止まりやすい」


 若様は顔を上げられた。


「噂が危うい。都人が軽い。

  そういうことを見つけるのはうまい」


 モンケ様はあっさりと言われた。


「見つけたなら、その先だろう」


 私は、その一言が若様へどう入ったか、横で見ていても分かった。傷ついた顔ではない。胸の中で何かが、ようやく正しい場所へ落ちたときの顔であった。


 若様は前から、綻びを嗅ぎつける人であった。荷札の滲み、馬腹の痩せ、紙の余白へ落ちる損耗。誰より早く見つける。だが見つけることと、その先で家や人を支えることとは、少し違う。


 モンケ様はそこを言われたのだ。


 しばらくして、あの方はふっと力を抜くように笑われた。


「お前は、よくやってくれてると思う」


 若様は何も答えなかった。


「おかげで、息継ぎなく戦える」


 それだけであった。


 褒美でもない。大仰な信頼の誓いでもない。ただ、実際に働いている者へ、その働きが働きとして届いていると告げる言葉である。


 若様は、そういう言葉に弱い。認められたいのでなく、要ると言われたい人だからである。私はそれを長く見てきた。


 だから、その夜の若様は、それ以上ほとんど口を利かなかった。反駁もせず、謙遜もせず、ただ串の先を皿へ置き、火の赤だけを見ておられた。


 モンケ様はもう一度だけ肉を頼み、さきほどまでの重い話が嘘であったかのように、うまそうに平らげて帰って行かれた。後味を残すべきところを、必要以上に引きずらぬ人なのだろう。


4.


 その月の終わり、月蓮が産気づいた。


 私は医女を呼びに走り、湯を運び、戸の外でうろつく若様を見ていた。国の帳面を前にしたときなら、あの方はもっと静かでいられる。


 だが今夜は違った。歩幅が定まらぬ。手の置き場も定まらぬ。紙の前では見ぬ種類の沈黙であった。


 やがて産声が上がったとき、若様は一瞬、まるで聞き間違えたような顔をなさった。それからようやく戸口の方を見た。


 男子であった。


 月蓮は疲れてはいたが、崩れた顔ではなかった。いつものように静かで、湯気の向こうにいるだけで部屋の呼吸が揃う。若様は寝台のそばへ寄り、小さく包まれた子を見た。


 帝国の噂も、諸家の見映えも、何も知らぬ顔で眠っていた。ただ静かに、薄い胸を上下させている。


「成謙」


 若様は、そう名を置かれた。


 私はその横顔を見ながら、ああ、この方はいま、別の帳面の前へ立ったのだと思った。都の熱をどう読むか、草原の家をどう支えるか、そういうことではない。自分の手で届くものを、どこまで残せるか。その勘定である。


 若様は子の顔を見たまま、長く黙っておられた。


 燕京に留まり、いま届く範囲を守るべきか。あるいは一度草原へ出て、実際に何が起きつつあるのか、この目で見極めるべきか。たぶん、そのどちらも胸へ立っていたのであろう。


 家が増えるとは、喜びが一つ増えることではない。選べぬ苦しみの数もまた、一つ増えることである。


 月蓮は何も急かさなかった。ただ子を抱き、若様の沈黙が戦の顔へ戻り切らぬうち、そこへ湯のある夜を置いておられた。


 私は少し離れてその灯りを見た。外では、夏の名残の熱がまだ薄く残っている。だがこの部屋の中では、別の季節がもう始まっていた。


 都の喝采は、すぐ崩れる。


 草原の見映えも、いつかは風に削られる。


 だが、子の寝息だけは、そういうものとは違う重さで、人をその場へ留める。


 私はその夜、ようやく思った。


 若様はこれから先、国の損耗を数えるだけでは済むまい。家の灯が、どこで消え、どこで残るか。そちらの勘定まで、もう始まってしまったのである。

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