第57話
1.
一二三二年六月。長城を越えて進軍中の主上オゴデイ様が病に伏したという報せが燕京へ届くと、都の空気は、まだ雨にもならぬ湿り気を孕んで、じわりと重くなった。
こういうとき、人はまず快癒を祈る言葉でも探すものだ。だが燕京では、その順にならぬ。先月まで、閲兵で見たトルイ様とモンケ様の見映えだの、騎射の手つきだのを囃していた者どもが、今度は急に声をひそめ、
――もしや、次は。
と、半ば息のような調子で言い出したのである。
私はそれを聞いて、腹の底が冷えた。宮廷の奥でだけ囁かれるべき話が、茶肆の隅や市場の秤の脇にまで落ちてくる。そういうときは、たいていただの噂では済まぬ。
しかも追い打ちを掛けるように、別の風聞まで混じり始めた。
――トルイ様が、主上の病を
代わって引き受けられた。
病を呪いと言い換えるだけでも、もう充分に不穏である。だが私が嫌だったのは、そこではない。その言い回しの背後に、どうにも人の手つきが見えるのである。
天のわざを恐れて震えているだけではない。誰かが、その方が収まりよく見えると思い、そう聞こえる形へ話を置いている。そういう匂いがした。
若様――成安も、その日の昼、羊串の煙の向こうで、ひどく静かな顔になっておられた。
「病は病だ」
そう言って、串の先を皿へ置かれた。
「だが、人は病のままでは
受け取らぬらしい」
私は盃を置いた。
「呪いにした方が、話が立つと」
「立つ。しかも、益のある者には、
なおさらだ」
それきり、若様は黙られた。黙ったが、あの方がこういうときに何を見ているか、私はもう知っている。誰が何を言ったかではない。その言葉が、あとで誰の値になるかを先に見ているのである。
2.
奇妙なことに、その熱は宮廷筋だけでは止まらなかった。華北の漢人たちのあいだで、トルイ家を待ち望むような声まで、少しずつ大きくなっていったのである。
もっとも、誰も露骨には言わぬ。
――なんと、心の狭いことよ。
――それに引き換え、あちらは
まことに天晴れだ。
皆、そんなふうに、主語を半分だけ消して言う。誰が心狭いのか。誰と引き換えているのか。聞いた者が自分で補えば済むようにしてある。
こういう言葉は、面倒である。言った者の責が薄い。そのくせ、聞いた者の胸には、妙にうまく残る。
ある茶肆では、湯気の向こうで、年寄りが杯を置きながら、
「いやいや、あちらは器が違う」
とだけ言った。隣の男は、誰のことですと問わぬ。ただ、唇の端だけで笑ってうなずいた。
市の秤場では、布を引き取る商人が、
「この先は、狭い胸では
天下が保つまいよ」
と、秤の針を見ながら漏らした。そこでも、誰も名は出さぬ。だがその場にいた者どもは、皆同じ相手を思い描いていたはずである。
私は茶肆でその手の囁きを聞き、荷の検め場でも聞き、帰り道の屋台でもまた聞いた。何度も耳へ入るうち、もう誰が最初に口にしたかなど分からなくなる。
言葉だけが人から人へ移り、しまいには誰のものでもない顔をし始める。
若様はそれを、なお嫌がられた。
「空気になる」
夜、書記部屋でそう言われた。
「誰も責を負わぬまま、
皆が同じ顔をする」
私は湯を差し出した。
「それだけ、トルイ家が好かれている
ということでは」
若様は首を振られた。
「好悪だけではない」
そう言って、しばらく紙の余白を見ておられた。
「人は、次に来る秩序の顔を
先に欲しがる」
その言い方が、妙に耳へ残った。私はそのとき、ようやく別の気味悪さにも気づいたのである。
近ごろ都では、金を語る言葉まで変わってきていた。首都を包囲され、押し込められた金を、もう帝国というより、どこかの地方政権のように話す者が増えている。
つまり皆、戦そのものより、そのあとに誰が立つかの方へ先に目を移していた。
米屋の軒先で、ある男は、
「金など、もう城一つの話だ」
と吐き捨てた。別の者は、
「ならば次の主が誰か、
早めに見ておくべきだ」
と答えた。戦がまだ終わってもおらぬうちから、もう次の秩序の顔を値踏みしているのである。
そして、その顔として、いま都合よく持ち上がっているのがトルイ家なのだとしたら、これはただの人気では済まぬ。
3.
その翌日、若様は晋卿様へお目通りを願われた。私は紙を抱えて随ったが、道中、若様はほとんど何も言われなかった。
書斎へ入ると、晋卿様は最後まで聞き、すぐには口を開かれなかった。細い指で机の端を押さえ、しばらく沈んでおられた。
「現象は、その通りであろう」
やがて、そう言われた。
「誰か一人が糸を引いていると
見たくなるかもしれぬが、
それでは浅い」
若様は黙って頭を下げられた。
晋卿様はなお続けられた。
「人は、恐れておるときほど、
勝つ者の顔を欲しがる」
私はその言葉を聞いて、少しだけ息を詰めた。
「しかも、一度その顔が
好ましいものとして立てば、
あとは誰もがそこへ乗る」
「民も、でございますか」
若様が低く問うと、晋卿様はうなずかれた。
「民もだ。上にいる者もまたな」
そこで一度言葉を切り、静かに言われた。
「恐れと期待は、
人の腹のうちにあるうちは
ただの気分だ。
だが皆が同じ向きで口にし始めれば、
それは政治の器になる」
私は書状を抱えたまま、背のうしろが冷えた。黒幕がいて、それを斬れば済む話なら、まだ楽である。だが、人の恐れそのものが器になり、そこへ権や都合が流れ込むのなら、斬るべき相手の顔など最初から一つではない。
晋卿様はさらに低く言われた。
「民は、都合よく収まる勝者を欲する。
上にいる者は、
その欲を使える形へ整える。
そうして出来た流れは、
もはや誰一人のものではない」
若様もまた、それを悟られたらしかった。顔色は変わらぬ。変わらぬが、指先だけが一度、紙の端で止まった。
4.
書斎を出たあと、若様はすぐには歩き出されなかった。廊の下へ落ちる薄い日差しを見たまま、しばらく立ち尽くしておられた。
私は横で黙っていた。こういうときの若様に、慰めは役に立たぬ。要るのは、たぶんただ、息苦しさを置く間だけである。
やがて若様は低く言われた。
「誰が、ではないのだな」
「ええ」
「斬って済むなら、まだ話は早かった」
それだけ言って、また黙られた。
都へ戻る道すがら、私は周りの人の声が、急に別のものに聞こえ始めた。茶肆で交わされる何気ない囁き。市で荷を量りながら漏らす一言。屋台で酒に混じる半端な笑い。
どれも軽い。軽いくせに、少しずつ同じ方を向いている。
しかも、それは風のように流れているのではなかった。湿り気のように、壁にも衣にも、人の口の端にも、じわりと張りついてゆく。払い落とそうとしても、もう遅い類の重さである。
民の醸す雰囲気が、帝国の政治へ触れる。政治はまた、その雰囲気を受けて、民の生を決める。見えぬ言葉の流れが、人の禄も、家の命運も、主の立場さえ揺らしかねぬ。
そう思ったとき、私はふいに、足もとの地面が紙のように薄くなった気がした。踏みしめているつもりの石畳の下に、もう別の水脈が走っている。そういう心細さであった。
若様は歩きながら、ぽつりと言われた。
「都の熱は、もう喝采ではないな」
「ええ」
「……次は、人を選ぶ」
私は返事をしなかった。返さずとも足りたからである。
六月の燕京は、まだ雨にもならぬ湿り気を溜めていた。だが私には、その空の重さより、都じゅうを渡ってゆく目に見えぬ言葉の方が、よほど始末の悪い雲に思えた。
ひとたび降り始めれば、濡れるのは街路だけでは済むまい。人の家も、禄も、立場も、みな同じ雨脚の下へ置かれる。そんな気がしてならなかった。




