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家譜 ~中書省員外郎 李成安の生涯  作者: 早瀬 構
第六部

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第56話

1.


 一二三二年五月も半ばを過ぎるころになると、燕京の市井では、主上オゴデイ様とトルイ様をめぐる噂が、妙な熱を帯び始めた。


 露骨にお二人を並べて論じるほど、皆が愚かではない。そんな真似をすれば、不敬の沙汰で首が飛んでもおかしくない。だから人は、少しずつ言い換える。


――三男の息子と四男の息子では、

   どちらが見込みか。


――騎射の手つきは、どちらが

   美しかったか。


――供の者の顔ぶれは、

   どちらが締まって見えたか。


 まるで若い男の品定めである。酒の肴にするには軽く、しかも聞いた者がすぐに笑って流せる。笑って流せるはずなのだが、私はどうもその笑いが気に入らなかった。


 先の閲兵でも、都人どもは誰が何を考えているかより、親子の立ち姿や髪飾りの光り方の方を先に語った。そういう軽さは、別に今に始まったことではない。だが、今回の熱は少し違った。


 華北で立った噂が、いつの間にか草原からの風聞と結びついていたのである。


 商人どものあいだで、こんな言い回しが流れ始めた。


――三男の牧野は不作、

   四男の牧野は大豊作。


 一見すれば、ただの比喩である。草の出来不出来でも論じているように聞こえる。だが聞く者が聞けば、息子たちの出来不出来だけの話で済まぬことくらい、すぐ分かる。


 誰が言い始めたかは知れぬ。どうせ最初は、どこかの宴席で半ば冗談のつもりで口にしたのだろう。


 だが都では、耳あたりのよい言葉ほど足が速い。面白がられて繰り返されるうち、言った者の顔だけが消え、文句の形だけが残る。


 人の口とは、そういうものだ。


2.


 ある昼、私は若様――成安とともに、城門近くの小さな席へ顔を出した。商いの筋に通じた連中が集まる、いつもの半ば公、半ば私のような場である。


 誰かが盃を置くついでに、あの文句を口にした。


「いやはや、草原の方では

  四男家の実りが見事だそうで」


 別の男が笑って継ぐ。


「三男家は、どうにも

  年まわりが悪いらしい」


 さらにもう一人が、いかにも軽口のつもりで、


「若君方を見ても分かりますな。

  やはり、育つところで違う」


 と言った。


 周りは皆、笑った。若様は笑わなかった。私もである。


 成安は珍しく、その場で即座に口を開いた。


「その種の言い方は、感心しません」


 座が、そこで少しだけ止まった。


 若様は、いつものように大声は出さぬ。ただ、声が整う。


「三男家も四男家も、

  帝国を支える大きなお家です。

  婦人方まで値踏みするようなことを、

  冗談で済ませるべきではない」


 言い方に無駄がない。だからこそ、座にいた者どもは一瞬きょとんとした。


 やがて、一人が肩をすくめた。


「ただの戯れですよ」


 別の者は笑いながら、


「若いのに、ずいぶん堅い」


 と言った。


 若様はそれ以上、何も言わなかった。言っても無駄だと分かったのであろう。こういうときの都人どもは、責任を負う気のない言葉ほど、軽い遊びとして扱いたがる。


 だが私は横で見ていて、ああ、若様は相当に嫌がっているなと思った。


 露骨な悪口なら、まだ話は早い。切ればよい。離せばよい。ところが今回のは違う。四男家を持ち上げる形をしているぶん、なお始末が悪い。誉め言葉の顔をした熱ほど、人を焼くときは静かだからである。


 若様は盃に口もつけず、卓の木目ばかり見ていた。


 あの方が本当に嫌うのは、敵意そのものではない。耳ざわりのよい言葉が、誰の責でもない顔で独り歩きし、あとで家のまわりへ余計な人を呼ぶ、その減り方の方である。


 座を立ったあと、若様は低く言った。


「良くない」


 それだけで、充分であった。


3.


 その夕刻、帰りにいつもの羊串屋台へ寄ると、炭火のまわりでも、やはり似たようなことが流れていた。


 客の一人が串を振りながら、


「今度の征討の帰りには、

  四男家の若君方がますます

  名を上げるかもしれませんな」


 と言えば、隣の男が酒臭い息で笑う。


「三男家もうかうかしておれぬ」


 すると、串を焼いていた主人が、鼻で笑った。


「偉い家のことは知らんがね。

  豊作だ不作だと騒ぐのは、

  自分の身の置き場を

  探してるだけさ」


 私はその言葉に、思わず主人の顔を見た。若様も少しだけ目を上げた。


 主人は羊脂の落ちる網を返しながら、続けた。


「どっちが伸びる、どっちが勢いがある。

  そういうことを言う奴は、

  たいてい明日の風向きに

  先に乗りたいだけだ」


 客は笑った。だが私は笑えなかった。


 楽しんでいるように見えて、そうでもない。市井の者どもは、その噂を使って、自分がどこへ寄るべきか量り始めているのである。


 商人なら荷の出し先を考え、下吏なら仕える先の色を見、暇な者でさえ、どの名に乗れば寒い冬を凌げるかと勘定する。


 若様は串を一本取ったが、すぐには食わなかった。焼き色を見て、それからようやく口へ運ぶ。


「熱は、人を集める」


 ぽつりと、そう言った。


「ええ」


 私が返すと、若様は続けた。


「同じ速さで、焼きもする」


 主人は何も言わず、ただ次の串へ塩を振った。炭がぱちりとはぜ、煙がひと筋こちらへ流れてきた。


 私はその煙の向こうで、若様の横顔を見ていた。


 この方は、誰が勝つかを先に見る人ではない。熱がどこへ集まり、どこから人が寄ってきて、何が本来の形より早く太りすぎるか、そういう減り方の方を先に見る。


 だから、この種の噂が嫌いなのだ。


 人はまだ何も動いていないうちから、もう次の冬に備えて、心だけを先に移し始める。


 そういう熱が広がるとき、いちばん危うくなるのは、たいてい噂の中心そのものではない。そのまわりで、名もない者どもが勝手に札を貼り替え始めるからである。


 都の口は、いつだって軽い。


 だが軽い口ほど、早く人を動かす。


4.


 その夜、家へ戻ると、月蓮が珍しく少しだけ眉を寄せていた。


 ひどく不機嫌そうな顔ではない。ただ、いつものように湯を置き、いつものように座を整えながら、その手がほんのわずかだけ硬い。


「何かございましたか」


 私がそう訊くより先に、月蓮が静かに言った。


「街では、妙な言い方が

  流行っているそうですね」


 若様の手が、そこで一瞬だけ止まった。


 月蓮は続けた。


「豊作だ不作だと、よくも人の家のことを

  畑みたいに申します」


 声は低い。怒っているとも、嘆いているともつかぬ。ただ、好まぬものを好まぬと置く声である。


 若様はしばらく何も言わなかった。否定もせぬ。説明もしない。家へ自分から持ち込むつもりのなかったものが、もう女中どもの買い物口からでも入って来るところまで広がっていると知って、胸の内が冷えたのであろう。


 月蓮はそれ以上、王家のことを論じようとはしなかった。


「子の出来で家を量るのは、下品です」


 それだけ言って、若様の前へ湯を置いた。


「しかも、そういう言葉ほど、

  言った人は責を負いません」


 私はそのとき、ああ、この人はやはり家の側から物を見るのだ、と思った。若様が外で嫌がっていたものを、この人は暮らしの寒さとして嫌がっている。


 若様はようやく杯を取った。だがすぐには飲まぬ。湯気の向こうで、何かを測るように黙っておられた。


 やがて低く、


「とうとう、ここまで来た」


 と言った。


 月蓮はうなずきもしなかった。ただ、いつものように灯りの位置を少し直した。眩しすぎず、暗すぎぬようにである。


 その手つきを見ながら、私は妙な寒気を覚えていた。


 噂というものは、最初は酒の席にしか棲まぬ。次に市場へ下りる。屋台で串といっしょに焼かれ、やがて女たちの買い物口へ移る。


 そこまで来れば、ただの軽口でもない。人の暮らしの端へまで、熱が染みてきたということだ。


 若様はようやく湯を飲んだ。


 その横顔は、昼の席よりも、屋台の炭火の前よりも、なお静かだった。静かであるぶん、私にはかえって重く見えた。


 都人どもは、明日もまた笑って言うであろう。どちらが見込みか、どちらが豊作か、と。だが私はもう知っている。そういう笑いの下で、人は自分の足の置き場を探している。


 そして、足の置き場を探し始めた者どもは、たいてい本当に動く。


 夜の灯りは、月蓮の指で整えられたぶんだけ穏やかだった。


 だが、その穏やかさの外では、もう別の熱が、都じゅうの口から口へ移っている。


 私は湯気の薄い明かりの中で、ああ、この春の浮つきは、やはり長くは済むまい、と思った。

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