第55話
1.
一二三二年五月。トルイ様がオゴデイ様に従い、金の征討へ向かわれたという報せが燕京へ届くや、政庁の内外は妙に浮き足立った。
戦の話それ自体は、もう珍しくもない。どの路を通るか、どこで馬を替えるか、どの家が何を出すか。そういうことなら、書記部屋でも市場でも、毎日のように口にしている。
だが今度、人の口に先にのぼったのは、軍略ではなかった。
顔ぶれである。
主上みずからの親征に、四男トルイ様が従われる。しかも、その傍らには嫡男モンケ様、主上の側にはグユク様まで伴うという。誰が何を考えるより先に、人はまずその並びのよさへ目を奪われた。
閲兵を見た者どもは、皆よく似たことを言った。
――トルイ様は大きい。
――嫡男君は真っすぐ立つ。
――親子そろうと、見栄えがよい。
まことに、平和な騒ぎである。軍が出るというのに、先に語られるのが肩の広さや立ち姿では、こちらとしては苦笑いするほかない。
だが、見栄えというものは、案外あなどれぬ。とりわけ都では、それだけで人の記憶に残る。
そのうえ、モンケ様の髪飾りと腰の宝剣が、また人の目を引いた。金具の意匠がよい。石の据わりがよい。若いのに、妙に身に合って見える。
漢人の職人も商人も、あれは誰の手配か、どこで誂えたのかと、したり顔で言い合っていた。
私はその話を聞きながら、若様――成安の横顔をそっと見た。
若様は、帳面の上に指を置いたまま、何も言わなかった。
言わなかったが、分かる者には分かる。
あれらの品は、若様の手を経て贈られたものである。勘定を立て、品を選び、どこまでなら相手の家で重くなりすぎず、しかも軽くも見えぬか、そのあたりまで見て渡した品だ。
人は今、それを見て華やかだと言う。
だが若様にとっては、そういう話ではあるまい。あの方は贈り物を美談としては見ぬ。品の値、受け取る側の顔、あとで生まれる貸し借り、そういうものばかり先に見る。
だからこそ、この手の騒ぎは苦手なのである。
良い品を選んだつもりが、いつの間にか人の目の中で、別の意味を持ち始めるからだ。
2.
その日の昼過ぎであった。
政庁へ、妙にすっきりした気配の若者が入ってきた。供回りはない。衣もことさらに目立つものではない。だが、隠して隠しきれる身分でもない。
私は見た瞬間、腹の底で、ああ、面倒なことになった、と思った。
モンケ様である。
若様は執務机の前で、いかにも役所勤めらしい顔を作って立たれた。礼を失せず、近づきすぎず、されど知らぬ顔もしない。その置き方は見事であった。
だが、相手が悪い。
モンケ様は、その礼の固さが面白いらしかった。
「三年ほど前には、女も知らずに
帳簿と睨み合っていた男が、
秋には子の親か」
そう言って、あっさり笑われた。
若様の耳が、見る間に赤くなった。
「ここは政庁でございます」
「見れば分かる」
「お言葉を選んで頂きたい」
「選んでこれだ」
若様は返す言葉に詰まり、周りの書記どもは筆を動かすふりで耳だけを立てていた。あれはもう仕事をしている顔ではない。面白い見世物に、できるだけ顔を向けずに済まそうとしている顔である。
しかも、誰の目にも分かったはずだ。モンケ様は、若様を政庁勤めの一書記としてではなく、昨日別れた旧友のように扱っておられた。
これがいけない。
若様は、この種の親しさを、表の場へ持ち込むのがまことに下手である。受け流すにも固く、笑いに変えるにも真面目すぎる。だから、かえって周りの想像だけを育ててしまう。
書記の一人が、湯を継ぎ足すふりで机の脇を通った。もう半歩遅ければ、耳を突っ込んでいたに違いない。
近ごろの若様は、燕京では半ば冗談、半ば敬意を込めて、「布と塩の盟主殿」などと呼ばれている。婚家と実家の取り合わせがあまりに分かりやすいからだ。
そこへ今度は、トルイ家の嫡男がこの親しさである。
ただの実務家では済まぬ、と、人が思うのも無理はなかった。
3.
モンケ様がお帰りになると、案の定、部屋の空気が変わった。
まだ誰も露骨なことは言わぬ。だが、視線の置き方が違う。今までなら、若様は面倒で利く若い書記であった。いまは、それにもう一枚、別の札が貼られた。
――トルイ家へ通じる男。
――品も縁も、人より先に動かせる男。
そういう見え方である。
最初に口を開いたのは、年若い書記だった。まだ露骨な腹芸を覚えきっていない顔つきで、笑いを半分だけ含ませる。
「さきほどの宝剣、
鍔の意匠が妙でしたな」
若様は顔も上げずに答えた。
「よく見ているな」
「ええ。誰の趣味かと思いまして」
「持ち主の趣味であろう」
書記は肩をすくめた。
「そうでしょうか」
その一言に、部屋の空気がわずかに揺れた。問いではない。もう、半分は答えを持っている言い方である。
私は横で、心のうちに舌打ちした。
誰か一人が半端に嗅ぎつければ、あとは早い。職人から商人へ、商人から下吏へ、下吏から書記へ。品の出どころの話など、都では酒の染みより広がるのが早い。
若様はそれを分かっておられるはずであった。だが、ここで下手に否定すれば、かえって深くなる。
「贈答は、贈答でしかない」
ようやくそう言われたが、遅かった。
誰かが、聞こえよがしに小さく笑った。
別の者は何も言わず、ただ目を伏せた。その目の伏せ方だけで、もう充分であった。
若様はそこで口をつぐまれた。あの方は、こういうときだけ、余計に言わぬ方がましだと知っている。知っているが、その沈黙がまた別の意味を持つ。
私は書付を運ぶふりで周りを見た。
皆、もう同じ顔になっていた。あからさまに色めくほど下品ではない。だが、若様を前より少しだけ重く見る顔である。
政庁というところは、つくづく面倒だ。人が一人、実際に何をしたかより、誰にどう見えるかの方が、先に値になる。
若様は苦笑して流す顔を作っておられた。作ってはいたが、私は知っている。あの方が本当に嫌がるのは、敵意そのものではない。
歓声と好意と期待が、軽い顔でまとわりつくことの方だ。
4.
その夜、書記部屋の火はいつもより早く弱った。人は皆帰ったが、昼のざわめきだけが紙のあいだに薄く残っているようであった。
若様は机に向かったまま、しばらく筆を取られなかった。
「気に入りませぬか」
私が湯を置きながら言うと、若様はすぐには答えなかった。湯気を見て、それから低く言われた。
「良くない」
「モンケ様とのことですか」
「それだけではない」
そう言って、若様はようやく杯を取られた。
「今日は、見映えのよい親子に
喝采していた」
「ええ」
「明日は、別の言葉で量る」
私は黙った。その通りだからである。
都の熱というものは、たいてい長持ちしない。いや、長持ちしないからこそ強い。誰かを持ち上げるときは軽く、ひっくり返すときはもっと軽い。
若様は杯を置かれた。
「人は、物の値をつけるとき、
まず見えるところから数える」
「それは世の常でございます」
「だから厄介だ」
その言い方に、私は少しだけ苦笑した。まことに若様らしい。人の情に傷ついた、と言わぬ。名声が怖い、とも言わぬ。ただ、厄介だと言う。
だが本当は、もっと別のことを思っておられるのであろう。
贈った品が、思わぬところで人の目を集める。親しい相手が、思わぬ場所で親しさを見せる。そうして、実際にはまだ動いてもいない縁まで、もう出来上がった力のように数えられ始める。
若様にとって、それは損耗に似ていた。
まだ破れてもいない布へ、先に人の手垢だけが付いていくような、あまり気持ちのよくない減り方である。
外へ出ると、燕京の夜は春の名残を少しだけ含んでいた。だが、昼に政庁を満たしていたあの祝祭めいた熱気は、もう私には陽炎のように見えた。
近づけば形があるようで、手を伸ばせばすぐ崩れる。
都の喝采とは、だいたいそういうものだ。
そして若様は、たぶんもう知っている。
今日、人は華やかな親子を讃え、ついでその脇に立つ者へも笑みを向ける。だが明日には、その同じ笑みで、また別の値札を貼るのである。
火の消えた書記部屋には、紙の匂いだけが残っていた。
私はその匂いを吸いながら、ああ、この春の熱は、若様にとっては吉兆ではないな、と思った。
そういう熱ほど、あとで勘定が合わぬ。




