第54話
1.
一二三二年一月。その夕刻、若様は私に、塩を五斤ほど揃えろと言われた。
塩五斤。婚礼支度の最中なら、別におかしな量でもない。だが、その日の若様の顔つきは、祝いの買い足しを言う顔ではなかった。私は問わずに塩を包ませた。若様も、それ以上は何も言われぬ。
行き先は、晋卿様の官舎であった。
私は内心、少しばかり構えていた。晋卿様ほどの方の住まいなら、門まわりにも庭先にも、もう少し人目と体面の匂いがあるものと思っていたのである。
下働きの足音が絶えず、来る者の衣擦れがどこかで響き、奥には奥の重みがある。そういう官舎を、私は勝手に想像していた。
だが着いてみると、拍子抜けするほど質素だった。
門は静かで、庭も狭い。掃き清められてはいるが、見せるための手入れではない。人の出入りの多い家特有の、あの薄いざわめきもない。
水甕の置き方も、雪の掻き寄せ方も、暮らしがどうにか崩れぬよう整えているだけの家の手つきであった。
若様は別に顔色を変えなかった。私が抱えていた包みを受け取り、そのまま取り次ぎの者へ差し出した。
「挨拶代わりです」
やがて現れた奥方――蘇氏は、いつも主人がお世話になっておりますと、腰低く応じられた。
だが包みを受けた瞬間、その手がほんのわずかに止まった。
軽い礼の品と思っていたのであろう。だが中身と重みを知ると、すぐには言葉が続かなかった。礼を言いかけ、そこでふと晋卿様の方を見たのである。
晋卿様は、ただ静かにうなずかれた。
「受け取りなさい」
奥方は、それでようやく何度か小さく頭を下げ、塩を抱えて奥へ引かれた。
私はそこで初めて知った。
この家では、塩五斤は虚礼ではないのだ。暮らしの底へそのまま沈む重みなのである。椀の味、漬ける菜、冬の保存、そのどれにも直に触れる重さである。
若様はまた、こういうところばかり当てる。
感心したような、呆れたような心持ちで、私は官舎の低い軒を見上げた。
2.
通された部屋には、余計なものが少なかった。書物と紙はある。だが、それ以外の贅は薄い。炭も節しているのであろう、暖かいには暖かいが、役所の上役の部屋にあるような、むやみに火を焚いたぬるさではない。
やがて晋卿様は、奥から一人の少年を連れてこられた。
「息子だ。鋳という」
今年で十一になると聞いた。物静かな顔立ちで、父親ほど張りつめてはおらぬが、柔らかいとも言い切れぬ。礼を取り、若様に向かって言った。
「成仲と申します。
以後、ご指導のほど
よろしくお願いいたします」
若様も、少しだけ意表を突かれた顔をされた。こういう場で、いきなり子の名と将来を差し出されるとは思っておられなかったのであろう。
晋卿様は、その空気を変えるように、息子へ言われた。
「羊串でも食いに行くか」
少年は、すぐには答えなかった。父の顔を見、それから静かに首を下げた。
「今夜は、よろしゅうございます」
幼い拒み方ではない。父を立てぬでもなく、甘えるでもなく、ただ距離だけを過不足なく置く物言いであった。これなら外では可もなく不可もなく通るだろう。だが、父がそれをどう受けるかは別の話である。
晋卿様は鼻で息を吐いた。
「そうか」
それだけ言って、奥方へ一声掛け、若様と私を伴って外へ出られた。
私は歩きながら、何となく胸のうちで引っかかっていた。
父と子のあいだに、近すぎも遠すぎもしない、言葉にしにくい距離があったのである。
しかも奥方は、それを驚きもせず、ただ家の内へ収めているふうであった。
家のことは、外から見ただけでは分からぬ。だが、あの短いやり取りには、妙に暮らしの重みがあった。
3.
屋台の炭火は、冬の燕京では何より人の顔をよく見せる。
羊脂が落ち、塩が火に当たり、煙が低く流れる。若様は勧められるままに串を受け取り、別に顔もしかめず口へ運ばれた。
晋卿様は盃を取り、しばらく黙っておられた。
やがて、ぽつりと言われた。
「奥も息子も、
私が帝国に仕官してからの家族だ」
そこで一度、杯を置く。
「その前は――」
言葉はそこで切れた。若様が静かに酒を注がれる。晋卿様は、その酒面を見てから続けられた。
「燕京落城の際に、生き別れとなった」
苦い笑みであった。嘆きの顔ではない。長く持ち歩いて、もう人前で振り回さぬ傷の顔である。
「契丹の血を引く子が、羊を食さんとはな」
串の先を見て、そう言われた。
「漢土は、血すら変えてしまう」
若様は何も言われなかった。こういう時、この方は慰めを言えぬ。言えぬかわり、盃を満たす。そこだけは、昔より少し上手くなられた。
しばらく雑談が続いたあと、晋卿様はふいに若様を見られた。
「也速哥様のおっしゃりよう、
あれは正しい」
若様の手が、そこでわずかに止まった。
私も息を詰めた。あの薄い毒を、ここで引かれるとは思わなかったのである。
だが晋卿様の声は、少しもあの男のようではなかった。
「お前は、トルイ家に忠と誠をもって
仕えるのはよい」
それから、ほんの一拍だけ置く。
「しかし、情は移すな」
若様の顔が硬くなった。反発でもない。すぐには噛み砕けぬ言葉を、胸のどこへ置くか量っておられる顔である。
晋卿様は構わず続けられた。
「金の攻略が済めば、
次は王城を定める話になろう。
私は、その支度を携えて
オゴデイ様のおそばに伺候する」
盃を置き、静かに若様を見る。
「帝国の官吏として、
主上たるオゴデイ様に仕えるなら、
ぶれは生じにくい。
だが、トルイ家は補翼の家だ。
トルイ様に二心なくとも、
二心を想像で描き、
ささやく者がいる」
私の胸には、あの生暖かい声がすぐ浮かんだ。也速哥様である。ああいう男は、火のないところにも、座の都合で煙を立てる。
「そのささやきが主上を揺らせば」
晋卿様は短く言われた。
「近くにおる者も、無事では済まん」
その言葉には、脅しめいた響きがなかった。見てきた者が、見えている先をそのまま置いた声音であった。だからこそ、若様の肩のあたりだけが、かえって重く見えた。
4.
若様は黙って杯を傾けた。顔色は静かで、だが腹の内は静かではあるまい。
晋卿様は、その沈み方を見ておられた。見た上で、さらに低く言われた。
「情は民に寄せよ」
炭火が小さく鳴った。
「究極は、家族に寄せよ」
若様は顔を上げた。晋卿様は、説教をする顔ではなかった。疲れた肩で、なお立っている実務者の顔だった。
「自分が寄って立つ大樹の根を掘り起こし、
上へ向ければ、その樹は枯れる」
それから穏やかに、若様の肩を一つ叩かれた。
「塩の礼、ありがたく受けた」
屋台を立つ折、晋卿様は主人へ少し多めの心づけを渡し、
「あの若い者によく飲ませてやってくれ」
とだけ言い残して去られた。
私はその背を見送りながら、ようやく腹へ落ちた。
あれは、若様の忠心を咎めたのではない。トルイ家へ深く入り、主の大きさに心を持って行かれかけた若い男へ、もっと先で残るものの話をしたのである。
かつて家族を喪い、あらためて家を持った男。帝国の中心近くにいながら、官舎だけはあえて質素に保つ男。十八年近く、帝国と漢土のあいだへ順を入れ続けた男。
その実感が、あの短い言葉の底に沈んでいた。
私は黙って若様の杯へ酒を注いだ。
若様は、也速哥の薄い毒と、晋卿様の箴言とを、同じ皿へは載せまい。だが、腹に落ちるまでには時間が要るだろう。
炭火の熱は、もう先ほどほど強くなかった。塩を振ったあとの串先だけが、まだ少しだけ白く光っていた。




