第51話
1.
一二三二年一月。年が改まってしばらくすると、韓家の奥向きに、何やら妙な静けさが差した。
騒ぎというものは、たいてい音より先に気配で分かる。女中どもの足が少し速くなる。湯を運ぶ手つきが妙に慎くなる。奥の戸が、開いてはすぐ閉じる。そのくせ、誰も大声は出さぬ。
私はその朝、いつものように若様の使いで韓家へ顔を出し、すぐに胸のうちで、ああ、これはよくない話か、さもなくばひどく大きい話だ、と思った。
月蓮は、客の前へ出て来る顔ではなかった。食が細ったと聞いていたが、顔色もまだ白い。けれど、取り乱した様子は少しもない。脇に控えた女中頭の方が、よほど落ち着かなかった。
やがて、奥で呼ばれた医女が帰る折に、家人へ聞こえぬよう声を落とし、韓家の主人へ何事か告げた。私はその場にいなかったが、こういう時の空気は壁越しでも伝わる。
主人はしばらく黙っておられた。奥向きの張りだけが、じわりと増した。
やがて主人は、近くに控えていた私を見た。
「……成安殿を呼んで来い」
声は低く、短かった。誰に何を告げるでもない。ただ、その一言で充分であった。
私は頭を下げて外へ出た。走りながら、胸の底で半ば呆れていた。若様は帳面の綻びなら一目で嗅ぎつける。だが、こういう綻びだけは、いつもご自分の勘定に入れ忘れるのである。
2.
若様は、呼ばれた意味をすぐに悟られたらしい。ひどく静かな顔になり、そのまま私とともに韓家へ向かわれた。
客間へ通されると、主人と奥方がすでに座しておられた。主人は、怒っているというより、どこまでを怒るべきか決めかねている顔であった。奥方は、その脇で少しも騒がぬ。ただ、夫を立てて黙しておられる。
若様は庭へ下りるや、主人と奥方の前へ深く平伏された。
「順序の不手際、まことに
申し訳ございませぬ」
その言い方が、いかにも若様らしかった。
草原でも、トルイ様はじめ諸王家の前でも、ここまで地へ額を寄せることはなかったではないか、と私は思った。
何しろ、いま解かねばならぬのは順序の話ではない。だが若様は、こういう時ほど、まず筋目から詫びる。欲の始末より先に、礼の破れを数えるのである。
主人は喉まで出かかった言葉を、うまく形に出来ずにおられた。
「男女の道は……その、
不可思議というべきか……」
商いの才ある人である。損も利も、たいていは早く言葉になる。だが娘の腹と家の体裁と、通州李家との縁とが一度に卓へ載れば、さすがに勘定の順も乱れるらしい。
奥方はなお何も言わなかった。驚いていないのである。娘が泣き伏すたちでないことも、こういう時に言い切る娘であることも、最初から分かっておられるのだろう。
ただ、夫を差し置いて先に出る気もないらしい。その黙り方に、私は少しだけ月蓮の血筋を見た。
若様はなお伏したまま、申し訳ないやら、すまないやら、そのどちらも胸へ抱え込んでおられるようであった。こういう時にさえ、まずご自分が掛けた迷惑を数える。本当に、若様は若様である。
3.
そこへ月蓮が出て来た。
歩みは遅くない。顔色こそ優れぬが、座を乱す者の足取りではない。私はそれを見た時、ああ、韓家の奥向きが蜂の巣をつついたようになっても、この人だけは蜂そのものにはなるまい、と思った。
月蓮は、中庭に伏す若様の前まで来ると、ためらいなくご自分の内衣を肩へ掛けた。
「このような寒い日に、芝居じみたことを」
声は穏やかであった。叱っているのでも、庇っているのでもない。ただ、場の置き方を変える声である。
「まさか、ご自身を不実とでも
お思いですか」
若様は顔を上げかけ、また言葉を失った。申し訳ないやら、すまないやら、そのどちらもまだ喉でつかえている顔であった。
月蓮はそこで若様を見切らず、父母の方へ向き直った。口元に、嫣然というに足るほどの笑みが差す。
「塩と布が結びついた。
弥栄ではありませんか」
私は胸のうちで、少し舌を巻いた。
好きな男を庇う言葉でありながら、そのまま家と家の言葉にもなっている。恋を恋のまま出さず、利の衣を着せて卓へ置く。まことに、よく出来た娘である。
主人は毒気を抜かれたらしく、口を開いては閉じた。
「そ、それにしてもだ。
お前は商いを――」
月蓮はそれを、ほんの少し微笑むだけで止めた。
「通州李家の成安殿は、
漢土一の婿殿でございましょう。
商いはそのあとで、
ついて参りましょう」
主人は黙り、奥方はなお驚かなかった。ただ静かに夫の横顔を見ておられた。娘がこう言い切るであろうことも、その言葉がもう後へ引けぬ形をしていることも、分かった上で黙っておられる顔であった。
4.
韓家から通州李家へ使いが走り、翌日には福海大人と長男様が改めて来られた。
福海大人は重かった。怒る気で来られたのだろう。だが韓家の座へ入ってからは、怒りだけでは済まぬ顔になっておられた。若様の不始末も、韓家への筋も、月蓮という娘の値打ちも、すべて見えてしまった人の顔である。
長男様は、若様の顔を見るなり、ほんの一瞬だけ妙な顔をなさった。呆れたような、可笑しさを堪えるような、それでいてどこか安堵したような顔である。
家を出され、帳面にばかり執着する、いささか機械じみた弟であった。その弟が、よりによって順序を違え、女の腹へ子を宿させたのである。
怒るより先に、「人であったか、お前」と思ってしまったのであろう。無理もなかった。
だがその緩みも、父君の前ではすぐ消えた。長男様は何も言わぬ。ただ、座の中の人を一人ずつ見ておられた。
月蓮は福海大人の前へ出て、短く、無駄なく話した。私は控えの間にいたので細部までは聞こえぬ。だが、折々、
「ほう……」
「なるほど」
「相分かった」
という福海大人の声だけが漏れた。
若様はなお落ち着かなかった。私は横で見ながら、半ば呆れ、半ば苦笑していた。若様はこの期に及んで、政庁へ残した任務の方まで気にしておられるらしい。まことに、この方は人の子が出来てもなお若様である。
やがて月蓮が、昨日と同じく静かな調子で塩と布のことを口にした。その時である。長男様の目が、そこで初めて少し据わったのを、私は見た。
この方はその言葉を、冗談とも強がりとも取らなかった。弟を庇う女の機転としてだけでなく、家と家の足並みを揃える言葉として受け取った顔であった。
場の中でいちばん早く、この縁の値を嗅ぎつけておられるように見受ける。
若様はまだ、それを分かっておられまい。ただご自分の不手際ばかり数えている。だが、その脇で、縁の値を先に読む人間は、もう二人いた。月蓮と、若様の兄上である。
私はそのことを、黙って胸へ仕舞った。こういう縁は、早く名づけると安くなる。あとで本当に太った時にこそ、初めて値打ちが分かるものだからである。




