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家譜 ~中書省員外郎 李成安の生涯  作者: 早瀬 構
第五部

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第50話

1.


 一二三一年十二月。燕京の冬は、草原のそれのように一息で人を冷やしはしない。冷えは壁と紙のあいだへ薄く溜まり、気づけば指の先から人の気力を奪ってゆく。


 若様――成安は、このごろますます宿舎へ貼りついておられた。漢中の禍根は、返書の遅れや、南への言い回しの棘となって戻ってくる。


 遷都の準備は表向きよく進んでいるようで、実際には宿所割りも倉別残数も、少し油断すればすぐ別の家の面子へ触れる。普請帳簿の整理まで加わると、机の上の紙は、もはや一つとして乾いた実務の顔だけをしておらぬ。


 湯を置いても、若様はすぐには手を伸ばされない。食を運んでも、箸を取る前に帳面の余白へ目が戻る。人の腹より先に、紙の綻びの方が気になるのである。


 その折、月蓮がお見えになった。部屋へ入っても、騒がれぬ。大きな声も出されぬ。ただ若様の机の端を一目見、それから私へ、


「また、召し上がっておられませんか」


 とだけ言った。


「ええ。紙が先だそうです」


 私がそう返すと、月蓮は少しも驚かぬ顔で椀を若様の手もとへ寄せた。


「では、紙より先に、これを」


 若様はそこでようやく顔を上げられた。役所の実務官を見る顔でも、李家の次男坊を見る顔でもない。眠りの浅い人を気に掛ける顔であった。


2.


 その夜も、宿舎のあちこちで小さな滞りが出ていた。湯は遅れる。灯りは片寄る。寝具を運ぶ女中どもは、誰へ先に回すべきかで、往来の真ん中に立ち尽くす。


 よくある乱れである。誰かが怒鳴れば、ひとまず動く。政庁の宿舎など、たいていそうやって回っていた。


 だが月蓮は、怒鳴らぬ。控えを受け取り、湯桶の順を入れ替え、灯りを一つ奥へ、もう一つを手前へ回し、女中のうち一人を寝所へ、別の一人を炊事場へ戻した。


 それだけのことで、しばらくすると乱れが音を立てずに沈んだ。


 若様は、その様子を帳面の上から目で追っておられた。人足帳でも倉別残数でもない、湯の運ばれ方と、椀の置かれ方と、人の沈黙の種類を見る顔である。


 月蓮は、若様の前へ戻ると、控えを差し出した。


「布は今夜のうちに回します。

  湯も先に要るところから入れます。

  明朝の乱れは、

  なるべく減らしましょう」


 若様はしばらく黙っておられた。国の話をしているつもりの人が、家の中の遅れで答えを返されるときの顔であった。


「人のときは、限られております。

  精魂を詰めれば、その限りを

  早めることにもなります」


 月蓮はそれだけ言って、紙を引かれた。大きいことを言うでもなく、若様の理屈を折るでもない。ただ、息の詰まりやすいところから先に手を入れて、場の呼吸を静かに揃えてしまう。


 私は横で、少し妙な心持ちになっていた。若様は昔から、誰かの夢や大義より、減る馬、腐る荷、散る戸口を先に見る人であった。だがこのお方は、その若様に向かって、国でも制度でもなく、人の保ち方を返してこられる。しかも、若様をやり込めるためでなく、ただ持たせるためにである。


 その夜、月蓮は遅くまで宿舎に残った。控えを見、女中へ二言三言指図し、戻ってきては若様の机の端を静かに整える。若様もまた、前ほど追い払うような顔をなさらなかった。


 むしろ言い損ねても場が壊れぬ相手を前にして、少しずつ言葉が短く、柔らかくなっていたように私には見えた。


 人も引け、灯りも落ち、紙の上の正しさだけではもう持たぬ刻限であった。若様はおそらく、いつものように何かを言い損ねたのであろう。月蓮は、おそらくいつものように、それを壊れたものとして扱わなかったのであろう。


 それで、充分だったのだと思う。


 私は若様の影であって、寝所の内まで覗く趣味はない。だが、見えてしまうものまで見えぬふりをするほど鈍くもない。


 その夜、私は外の用を片づけてから戻った。廊下の灯りはもうだいぶ落ち、往来の音も薄い。若様の部屋の前を通りかかったとき、中は妙に静かであった。紙を繰る音も、筆を置く音もない。ただ、人の気配だけが、いつもと違う濃さで留まっていた。


 私はそこで足を止めなかった。止めぬのが礼である。


3.


 翌朝、すべて分かった。


 若様の顔色が、ひどかったのである。徹夜の顔ではない。熱の顔でもない。もっと別の、自分自身をどこへ置けばよいか持て余している顔であった。


 目の下は暗く、口数は少ない。だが何より悪かったのは、妙に胸を張りかけて、それを自分で叩き潰したあとのような顔であった。


 私は湯を運びながら、腹の底で思った。


 ……私は何を見せられているのです。


 もっとも、責める気はなかった。互いに届くところまで届いて、言葉で整える前に近しいところまで進んだ。それだけのことである。


 騒ぐほどの不徳とも思わぬ。私は昔から、人の悲劇を大げさには見ぬし、人の睦みをいちいち罪とも数えぬ。


 ただ、若様という人は、こういうときにまっすぐ喜べぬ。そこが面倒なのである。


 月蓮は、驚くほどいつも通りに近かった。騒がれぬ。俯かれぬ。代償を求める顔もなさらぬ。朝の支度を整え、湯を見、若様の椀へ手を伸ばし、その手つきだけが、昨夜より半歩近い。


「お顔の色が悪うございます」


 静かに、そう言う。


 若様はますます顔色を悪くされた。


「……寝不足だ」


「そうでしょう」


 それだけである。私は内心で、いや、それは違うだろう、と一度だけ舌を鳴らした。昨夜の静けさを思えば、政庁の押し付け仕事ばかりのせいにも出来ない。


 しばらくして、若様が椀へ手を伸ばしかけて止めた。月蓮はその手もとへ、何でもない顔で箸を少し寄せた。


「まず、こちらを」


 声の低さだけが、いつもより少し近い。


「そんなに難しいお顔をなさらなくても、

  朝は参ります」


 私は横で、危うく顔を伏せそうになった。何でもない言い方である。だが、若様にはあれがいちばん効く。大丈夫です、とも、気になさるな、とも言わぬ。ただ、こちらへ戻って来いと言われる。


 その戻り先が、紙でも役目でもなく、朝の支度と椀のある卓なのである。


 若様は、その平静にいよいよ逃げ場を失っておられた。相手がお泣きになれば詫びられる。怒れば頭を下げられる。代償を求めるなら支払える。だが月蓮は、そうなさらぬ。ただ、いつもの温度で近くにおられる。


 だから若様だけが、自分の内側で勝手に深刻になるのである。


4.


 私はその日の若様を見ていて、少しだけ可笑しく、少しだけ気の毒でもあった。


 嫌だったのなら、まだ楽である。怒りなり後悔なりへ逃げられる。だが若様は、そうではなかったのであろう。むしろ、嬉しかったのだ。嬉しく、満たされ、胸のどこかが軽くなってしまった。そのうえで、一瞬だけ、ひどく幼い達成感が浮いたのである。


 それが、若様ご自身には耐え難かったに違いない。


 よりによって月蓮のようなお方相手に。話が届き、言い損ねても壊れぬお方相手に。あれほど静かにこちらを受け止めてきたお方相手に、自分はあんなふうに、単純に、みっともなく嬉しがったのか。


 たぶん、そういうことであろう。


 若様は朝のあいだじゅう、妙に静かであった。紙を見ても、指が少し遅い。湯を飲んでも、椀の戻し方がぎこちない。私は横で、何も言わなかった。言ったところで、この人は余計にこじらせるだけだと分かっていたからである。


 月蓮もまた、何も言わなかった。ただ、いつもより少し低い声で、


「食べてからになさいませ」


 とだけ言った。


 若様は、しばらくしてようやく箸を取られた。その顔はまだ死にそうであったが、さきほどより少しだけ、この部屋に戻っていた。


 外では、也速哥様が相変わらず諸家のあいだへぬるい橋を掛けていた。オゴデイ様がトルイ家をどう見始めているか、私ごときには計りきれぬ。だが帝国が大きな単位で、音を立てずに裂け始めていることくらいは分かる。


 その朝、若様の内側でも、別の裂け目が出来ていた。


 国の綻びではない。制度の破れでもない。もっと小さく、もっと逃げ場のない、家へ続く裂け目である。


 そして私には、それが破れとはあまり思えなかった。むしろ若様という人が、ようやく帳面の外で損耗を数え始める、その入り口のように見えたのである。


 ただしご本人だけは、そうは思うまい。


 あの方はその日じゅう、自分ひとりで、順番を違えたこと、嬉しがりすぎたこと、よりによって月蓮相手にあんな顔をしたことを、何度も胸の内で数え直しておられるはずだ。


 まことに、面倒な若旦那である。


 だが、そういう面倒くささごと抱えて朝の椀を置くお方が、もう若様のそばにおられる。私は湯気の向こうでそのことを見ながら、ならば今朝の顔色の悪さくらい、安いものかもしれぬ、と少しだけ思った。

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