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家譜 ~中書省員外郎 李成安の生涯  作者: 早瀬 構
第五部

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第49話

 一二三一年十一月。燕京の政庁で暮らしていると、家というものが、しだいに仮の器に見えてくる。


 寝所はある。湯も出る。夜になれば灯もともる。だが、それは人が戻るための家ではなく、明日の紙をまた開くための箱である。帳面と控えに追われる者どもが、いっとき身体を横たえるための、乾いた器だ。


 若様――成安も、このごろはすっかりその器へ貼りついておられた。


 王城建設の準備が形を持ちはじめてからというもの、宿所割り、布の調達、贈答の格、女中と人足の動線、諸家へ回す曖昧な相談ごとまで、気づけば皆、若様の机へ寄ってくる。


 湯を置いても、すぐには手が伸びぬ。呼べば顔は上がるが、目はまだ別の紙の上に残っている。夜が更けても、灯りの下で紙の端ばかり揃えている。


「若様」


 その夜も私は、ようやく筆を置かせようとして言った。


「もうお休みなさいませ」


 若様は帳面から目を離さぬまま、


「まだ、ここの順が悪い」


 と答えられた。


「悪いのは順でなくお身体です」


「紙は寝ても直らぬ」


「人は寝ねば壊れます」


 すると若様は、そこで初めて顔を上げられた。


「壊れるほど高くはない」


 可愛げのない言い方であった。だが、その声は前より少し掠れていた。


 私は腹の底で毒づいた。国の損耗、戸口の損耗、馬腹の損耗、何でも数えるくせに、ご自分の目の下の隈だけは勘定へ入れぬ若旦那である。


 その折、韓家との往来が少し増えた。王城まわりの宿所と普請に、布と塩と細事の手が絡み、韓家の目を借りねば回らぬところが出てきたからである。月蓮も、その控えと差配の一端で政庁の宿舎へ出入りするようになった。


 若様は、最初はただ話の早い方として見ておられたのであろう。こちらの理屈を遮らず、必要な紙だけをきちんと揃えて返される。実務のうえでは、まことにありがたい相手である。


 だが、何度か往来が重なるうち、若様の目は少しずつ別のところへ止まり始めた。


2.


 最初に私が気づいたのは、宿舎の空気の方だった。


 ある夕刻、宿所のあちこちで小さな滞りが出た。湯は遅れる。灯りは揃わぬ。寝具を運ぶ女中どもは、誰へ先に回すべきかで手を止める。


 よくある乱れである。誰かが怒鳴れば、ひとまずその場は動く。政庁の宿舎など、たいていそうやって回っていた。


 ところが、その日は怒鳴り声が長く続かなかった。


 月蓮が来ておられたのである。


 大きな声は出されぬ。誰かを叱るでもない。控えを受け取り、灯りの場所をひとつ替え、湯桶の順を入れ替え、女中のうち一人を奥へ、別の一人を手前へ回されただけであった。言葉にすれば、それだけのことである。


 だが、しばらくすると乱れが音を立てずに沈んだ。


 さきほどまで往来の真ん中で立ち尽くしていた女中が動き、遅れていた湯が先に要る部屋へ入る。灯りの足らなかった廊下が一つ明るくなり、寝具を持つ手の迷いも消える。


 誰に何を言ったのか、私にはよく分からぬ。ただ、崩れかけたものが、いつの間にか元の形へ戻っていた。


 私は、そのときの若様の横顔を覚えている。


 机から顔を上げ、さきほどまで見ていた帳面ではなく、湯桶の動きと女中の足取りの方を見ておられた。ああ、この方はいま、紙の外にある別の順を見ておられるのだ、と私には分かった。


 月蓮は若様へ、何も大きくは言われなかった。ただ、控えを返される折に、


「今夜は、朝に響かぬよう整えておきます」


 とだけ言われた。


 それだけであった。何がどう響くかは言われぬ。けれど若様は、その言葉のあともしばらく、湯の運ばれてゆく先を目で追っておられた。


 国家の話をしているつもりの人が、灯りと湯の遅れの方へ気を取られる。私は内心で、これはもう若様の方が負けているな、と思った。


 もっとも、その負け方は艶めいたものではない。むしろ逆である。若様は月蓮の前でだけ、ときどき言葉を置き損ねる。だが、その置き損ねが場の破れにならぬ。そのことに、ご本人だけがまだ慣れておられぬらしかった。


3.


 韓家の方でも、あちらの年長者や手代どもが、少しだけ張り切り始めた。


 露骨ではない。だが商家らしく、まず段取りの精度が変わる。控えの不備が先回りで消える。宿所向けの布見本が、前よりわずかに見栄えよく揃う。こちらが口に出す前に、湯や灯りや寝具の細目が紙になって届く。


 礼の延長といえば礼の延長で済むが、それにしては少し手が早い。


 相手は燕京政庁の実務官であり、もとは通州李家の出である。韓家の者どもが、これをぞんざいに扱わぬ方へ寄るのは、当たり前といえば当たり前であった。


 その一度、用向きが夜へずれ込み、若様が立ち上がられたときである。韓家の年嵩の女が、いかにも礼の顔で言った。


「今宵はもう遅うございます。

  お帰しするには道も冷えましょう。

  当家にてご逗留なされませ」


 私は思わず、内心で、おや、そこまでなさいますか、と思った。まったく正しい申し出である。正しいが、その正しさが半歩だけ手厚い。


 若様は、もちろんそこに含みなど見ておられぬ。疲れた顔で、ただ合理的な配慮として受けかけられた。


 だが月蓮だけは、わずかに眉をひそめられた。


 ほんの一瞬であった。嫌そうな顔でも、慌てた顔でもない。ただ、家の空気が半歩だけ先走ったことを見て取った人の顔である。


 それでも場は壊されなかった。


「……では、灯りと湯を整えます」


 そう言って、月蓮はすぐ実務へ落とされた。私はその手際に少し感心した。乗らぬが、止めて騒がせもしない。あくまで暮らしの順へ戻す。


 若様は、その眉の意味にも気づいておられぬらしかった。韓家は話が早い、くらいにしか思っておられぬ顔である。まことに鈍い。


 だが、その夜、通された部屋では、若様は灯りの置かれた位置と、湯のぬるくならぬうちに運ばれてくる順とを、何度も目で追っておられた。


 ご自分では意識しておられぬのであろう。けれど、もう紙ではないものへ目が止まっていた。


4.


 外の政治は、そのころさらに濃くなっていた。


 也速哥様のぬるい接続により、ジョチ家とチャガタイ家の卓は前より円く見え、トルイ家のまわりへだけ妙に紐が集まって見える構図が、いよいよ固まりつつあった。若様はその不自然な自然さを嫌い、ますます燕京へ貼りつき、机から離れなくなった。


 だからこそ、月蓮との接触は逢瀬にならなかった。忙殺の隙間へ、生活の光景が差し込まれるだけである。


 湯が遅れぬ。椀の置かれる位置が乱れぬ。疲れた女中の足取りが、どこで鈍っているか見て取れる。誰かが大きく崩れる前に、小さな乱れだけが先に整えられている。


 若様は国の損耗ばかり見てきた。人が逃げる、戸口が痩せる、馬腹が落ちる、正しい帳面が人を減らす。そういうことばかりを見てきた人である。


 だがこのごろ、ときどき別の顔をなさる。宿舎の廊下で、遅くまで残る灯を見て立ち止まる。月蓮の置いた湯へ目を落とす。膳を下げる女中の足取りまで見ておられる。


 ご自分では、まだ半分も分かっておられぬのであろう。国の損耗ばかり数えてきた自分が、こういう家の損耗にはひどく鈍かったのだと、そのことをまだきちんとは認めておられぬ。


 だが、目はもう動き始めていた。


 私はその横顔を見ながら、少しだけ可笑しく、少しだけ安心した。


 若様は、勝ち筋より先に腐る荷を見る人である。正しい順より先に、後で困る箇所を見る人である。だからこそ、家の中にも損耗があると気づけば、たぶんこの方はもう見ずにはおれぬ。


 紙と墨の匂いばかりで生きてきた若様が、湯気のある方へ一度だけ顔を向ける。


 そのくらいのことが、この冬の燕京では、妙に胸へ残った。

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