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家譜 ~中書省員外郎 李成安の生涯  作者: 早瀬 構
第五部

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第48話

1.


 一二三一年十一月。燕京の政庁では、冬の気配が来るより先に、人の顔から艶が消える。


 王城建設の準備は表向きにはよく進んでいた。仮人足帳は揃い、倉別残数も改められ、工区別供給記録と輸送日程台帳まで一応の形になった。


 形になったからといって、楽になるわけではない。形になったものほど、今度は崩さぬよう見張る手が要る。


 若様――成安は、その見張りをほとんど一人で抱え込むようになっていた。


 兵站の差し戻し。諸家へ回す調整文案。王城予定地まわりの宿所割り。布と塩の流れの見直し。外交支援のための控えと、普請のための控えと、そのどちらにもまたがる曖昧な相談ごとまで、気づけば皆、若様の机へ寄ってくる。


 机の上には、いつも三つ四つの帳面が開かれていた。湯を置いても、指先が椀へ伸びぬ。呼ばれれば顔を上げるが、目はまだ別の紙の上に残っている。夜が更けても、灯りの下で紙の端ばかり揃えている。


 私は前から、この若旦那が自分の腹の減り方だけを後へ回す人だと知っていた。だが今月ばかりは、いよいよ露骨だった。


「若様」


 ある夜、私はようやく筆を置かせて言った。


「もうお休みなさいませ」


 成安は宿継ぎ控えから目を離さぬまま、


「まだ、ここの順が悪い」


 と言った。


「順が悪いのはお身体です」


「紙は寝ても直らぬ」


「人は寝ねば壊れます」


 すると若様は、そこで初めて顔を上げた。


「壊れるほど高くはない」


 可愛げのない言い方である。だが、その声はもう少し掠れていた。若い身体の回復力をあてにして働く人は多い。だが若様は、それを勘定に入れて働くのでなく、自分だけは損耗の単位から外して働く。そこが始末に悪い。


 私は腹の底で毒づいた。国の損耗、戸口の損耗、馬腹の損耗、家の損耗。何でも数えるくせに、自分の目の下の隈だけは見ぬ若旦那である。


2.


 その折、韓家との往来が少し増えた。


 王城まわりの普請と宿所の実務に、布と塩の流れが絡む。誰をどこへ泊めるか、何を先に入れ、何を後へ回すか、その段になると、韓家の手と目を借りねば回らぬところがあった。


 私は三年前と二年前、草原訪問の事前準備で韓家とやり取りしたことがある。月蓮とも、その折に言葉を交わしていた。


 だが若様は違う。名は知っていても、きちんと向き合うのは、このときが初めてであった。


 韓月蓮は、相変わらず静かな方だった。派手に人目を引く顔ではない。だが、部屋へ入ると空気の乱れだけが先に収まる。そういう種類の落ち着きがあった。


 その日も、布の回し方と宿所の人手について話すため、韓家の者が控えを持って来た。月蓮はその中にいた。私は旧知として軽く会釈し、若様へ取り次いだ。


 若様は疲れておられた。紙から顔を上げ、こちらを見て、相手の名を言うべきところで一拍遅れた。


「……うた」


 私は思わず、月蓮と若様の顔を見比べた。


 また何だ、その妙な言葉は、としか私には思えぬ。若様の言葉には、熱のあとから、ときどきそういう妙な音が混じる。


「若様」


 私は小声で言った。


「うた、とは何です」


 月蓮だけが、笑わなかった。


「それで、何を言いかけたのです」


 静かに、そう言ったのである。


 言葉の意味を問うのでなく、言い損ねた方を拾う。私はその受け方に少し驚いた。若様も、もっと驚いたらしい。口を閉じたまま、しばらく何も言えなかった。


「……失礼した」


 ようやくそう言ったが、いつもの切れ味がない。


「控えを拝見したい」


 月蓮は短くうなずき、紙を出した。その手つきに、無理な気遣いも、気まずさもない。ただ場を壊さぬ順だけがあった。


 私は横で首をかしげていた。若様が変なのは前からである。だが、それを怪談にも笑い話にもせず、そのまま卓の上へ戻せる方は珍しい。


3.


 事務の話になると、月蓮は驚くほど話が早かった。


「布は先に宿所へ回した方が

  よろしいでしょう」


 紙へ目を落としながら、そう言う。


「塩を急いでも、

  炊く手が足りなければ滞ります」


 若様が顔を上げた。


「どこが足りませぬか」


「人手でございます」


 月蓮はためらわなかった。


「いま疲れているのは運ぶ者より、

  整える者です。


  寝所を決め、灯りを回し、

  湯を沸かし、椀を置く者が

  先に痩せております」


 私はそこで、少し感心した。役所の男どもは、人足と荷駄と倉の口ばかり数える。だがこの方は、家の中がどの順で崩れるかを先に見ている。


「宿所を増やすより、

  いまある所の回し方を詰めるべきです」


 月蓮は続けた。


「夜の湯が遅れれば、翌朝の動きが鈍ります。

  布が遅れれば女中の手が余計に止まる。

  止まれば食事も遅れます。


  男の方は遅れても怒鳴れば済みますが、

  家の中は一つ遅れると三つ乱れます」


 若様は何も言わなかった。ただ、その顔を私はよく覚えている。


 国の話をしているつもりの人が、生活の単位で答えを返されるときの顔であった。


 しかも月蓮は、若様を有能な実務官として持ち上げもしない。帳面の切れる若旦那として扱いもしない。ただ、話の途中で一度だけ、若様の手元を見て言った。


「お疲れでしょう」


 若様は、そこで初めて少しだけ眉を動かした。


「そう見えますか」


「眠りが浅い方のお顔です」


 私は思わず月蓮の方を見た。若様の目つきや顔色の悪さを言う者はいる。だが、眠りの浅さとして言う者は珍しい。まして役目でも立場でもなく、人の休み方の悪さとして見る者は、さらに珍しい。


 若様はそれきり黙った。返す言葉を探しておられるらしいのに、指先だけが紙の端から離れていた。紙を見ているようで、もう紙だけを見てはおられぬ顔だった。


 恋に落ちる、というのとは少し違う、と私は思った。もっと始末の悪いものである。この若旦那はたぶん、生まれて初めて、自分の言葉より先に、その届き方を見られたのだ。


4.


 話が済み、韓家の者どもが控えをまとめ始めても、若様はまだ一箇所だけ紙へ指を置いておられた。


 月蓮は余計なことを言わず、こちらへ軽く頭を下げた。私にも、旧知として穏やかに会釈を寄越した。それだけである。場に香を残すでもなく、恩を売るでもなく、静かな足取りで下がっていった。


 私はその背を見送り、それから若様を見た。


 若様の目は、政庁の連中を見るときより、ほんの少しだけ長く、その方の去った方へ残っていた。


 長いといっても、一息ぶんである。だが私は若様付きとして、その一息の長さがいつもと違うことくらいは分かる。


「若様」


 私は念のため呼んだ。


「何だ」


「仕事の話でございましたな」


 すると若様は、怪訝そうにこちらを見た。


「ほかに何がある」


 その言い方が、もう少しで可笑しかった。ご自分では本気でそう思っておられるのである。


 私は肩をすくめた。


「いえ、別に」


 だが胸のうちでは、少しばかりまずいと思っていた。政庁の高官どもや諸家の使者を前にしたときより、この静かな方の一言の方へ、若様の気が深く引かれているように見えたからである。


 帰りの廊下で、若様は珍しく何も言わなかった。普段なら、もう布の回し方か、宿所の順か、女中の疲れをどう帳面へ入れるか、その辺りを低く切り始めるところである。だがその日は違った。


 ただ一度だけ、ぽつりと言われた。


「ヨハンナン」


「はい」


「……あの方は、話が早いな」


「ええ」


「そういうことではないかもしれぬ」


 私は横顔を見た。若様ご自身も、まだ分類が済んでおられぬのであろう。理屈には落ちていない。落ちていないくせに、もう紙の外で引っかかっている。


 私はそこでようやく、ああ、これは仕事の話にしては少しまずいのかもしれぬ、と半歩遅れて気づいた。


 国の損耗ばかり見ていた若旦那が、自分の眠りの浅さを言い当てられたのである。そういう傷は、帳面へは書けぬ。書けぬものほど、あとまで残る。

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