第47話
1.
一二三一年十月。燕京の政庁では、秋の冷えより先に、帳面の白さばかりが増えていた。
王城建設の準備は、表向きよく進んでいるように見えた。仮人足帳が起こされ、倉別残数が改められ、工区別供給記録と輸送日程台帳まで揃い始める。
去年なら、こういう帳はそれぞれ別の顔をしていたであろう。人足は人足、倉は倉、道は道である。だが今は違った。王城を立てるという名のもとに、皆ひとつの紙束へ寄せられてゆく。
晋卿様は、その束を前にして、久しぶりに少しだけ息を抜かれた。
「ようやく、もつ形になってきた」
そう言われた声は低く、乾いていたが、嘆きではなかった。都とは留まるものだ、留まるものには留めるための器が要る――前からそう言っておられたものが、ようやく帳面の上で骨を持ち始めたのである。
若様――成安も、理としては異論がなかった。
人足の出し方をその都度の怒鳴り合いで決めれば、余計な恨みが増える。倉の残りを曖昧にしておけば、冬の補いが後で跳ね返る。道を引くなら宿継ぎも要る。そういうことを、あの方ほどよく知る人もない。
だが、その日の若様は、帳面の束を見ても少しも軽い顔をなさらなかった。
仮人足帳を左へ置き、倉別残数を右へ寄せ、工区別供給記録の端を揃え、輸送日程台帳を手前へ引く。その順で見てゆくうち、指先が一度だけ止まった。
「……見えすぎる」
小さく、そう言われた。
私は湯を置く手を止めた。若様が見えすぎると言うときは、たいてい碌なことではない。
足りぬものが見えすぎる。減る順が見えすぎる。あるいは、今まで曖昧であったせいでまだ争わずに済んでいたものが、急に輪郭を持ち始める。
若様は、紙の上を指でなぞりながら、もう一度低く言われた。
「これでは、近い遠いまで数えられる」
私はそのとき、すぐには意味が分からなかった。だが、その日のうちに分かった。
王城を中心に、どの家がどこへ宿所を取るか、どの工区を誰の配下が多く握るか、どの倉からどの列へ物が流れるか、それが帳面の上でひと目で読めるようになっていたのである。
都が立つとは、争いが消えることではない。
争いの単位が、初めて数えられるようになることであった。
2.
人は、曖昧なうちは我慢する。曖昧だからこそ、面子で飲み、運で済ませ、気のせいだと自分へ言い聞かせる。だが帳面へなった途端、それはもう気のせいではなくなる。
あの家は近い。この家は遠い。あの工区は誰の息がかかる。どの列に誰の配下が多い。どの倉の鍵を誰が実際に握る。言葉にすれば卑しい話である。だが、人が長く留まる場所では、そういう卑しさこそ根を張る。
政庁の廊下でも、湯気の向こうでも、水場でも、声はまだ小さかった。
「近すぎますな」
「いや、普請に便がよいだけでしょう」
「工区の割りも、よく出来ておる」
「誰にとって、です」
露骨に罵る者はおらぬ。だが、褒める顔と笑う顔のあいだには、もう薄い棘が立っていた。
制度が入り、無駄な損耗は減る。晋卿様の理は、その通りである。けれど、減るのは無駄な損耗だけではなかった。曖昧さもまた減る。曖昧さが減れば、比べずに済んだものまで比べられるようになる。
若様は、それを人より先に見ておられた。
「正しい帳だ」
その夜、羊串の屋台で、ぽつりと言われた。
「正しいから、誰も正面から崩せぬ」
私は串を返しながら尋ねた。
「悪いことでございますか」
若様は、しばらく炭火を見ておられた。脂が落ち、ぱちりとはぜる。その音を聞いてから、ようやく答えられた。
「悪いとは言わぬ」
「はい」
「だが、傷み方が変わる」
その一言で、私はだいたい察した。昔の傷みは、戸口が逃げる、村が痩せる、馬腹が落ちる、そういう見える損耗であった。
今度の傷みは違う。人が減るのでなく、人が互いを見比べ始める。誰が近く、誰が遠く、誰の名が何度出るか、その数え方で腹を冷やしてゆく。
都が整うとは、静まることではない。
静まって見える形のまま、疑う理由のない疑いが育つことなのであった。
3.
しかも悪いことに、その疑いは、ただ諸家の思惑へ散らばるだけでは済まなかった。帳面の上で何度も目に入る名が、どうしても偏るのである。
工区別供給記録の受渡欄。輸送日程台帳の中継印。宿所配置の脇書き。露骨にそう書いてあるわけではない。
だが、何度か紙を繰れば、誰でも読めた。物と人の流れが、しばしばトルイ家の持ち場を経由して見えるのである。
命じたのは上であろう。裁可したのも上であろう。だが帳面の顔だけ見れば、進めている手足がどこにあるかは、別に見えた。
若様は、そのことを昼のうちに晋卿様から聞かされたわけではない。もっと乾いた形で、上からの気配だけが落ちてきたのである。
差し戻しはなかった。お咎めもない。ただ、戻ってきた一枚の控えの余白に、言い換えが一つ増え、留保が一つ薄く付いた。それだけで充分だった。上では何かが引っかかったのだと、若様には分かったのである。
「通った」
晋卿様は短く言われた。
「だが、見え方がよくない」
若様は黙ってその紙を受け取った。私は横で、その「見え方」の中身がすぐには掴めなかった。だが若様は、その晩にはもう分かっておられたらしい。
「ご龍顔は穏やかであったそうだ」
宿舎へ戻ってから、そう言われた。
「だから怖い」
私は紙を揃える手を止めた。若様はそのまま続けられた。
「裁可は下りる」
「はい」
「『よかろう』『良きに計らえ』で済む」
それから一拍置き、低く言われた。
「だが、その顔で何度も見れば、
主上を差し置いて何を進めているのかと、
そう見え始める」
私はそこで、ようやく腹へ落ちた。嫉妬ではない。人望への苛立ちでもない。もっと乾いて、もっと重い。
命じたのはカアン自身であるはずなのに、帳面の上では、進めている顔が別に見える。その小さな誤認が、承認の顔をしたまま沈殿してゆく。
遠のいてよさそうな家が、なお帳面の上では消えきらぬ。穢れを負ったはずの家が、なお実務の流れの中へ残っているように見える。
それが上では、目障りになるのであった。
4.
私はその夜、若様の横顔を見ながら、前から胸の底で引っかかっていたことを思い出していた。也速哥様である。
あの方は、争えとも、疑えとも言わぬ。ただ、帳を整えましょう、先に要るものを起こしましょう、と言うだけであった。
若様は火のそばで、しばらく何も言われなかった。やがて、帳面の端を指で押さえたまま、ぽつりと言われた。
「……あの男は」
そこで止まる。
「争いを望んだのではないのかもしれぬ」
私は黙って待った。若様はこういうとき、もう半分は自分で見えている。
「見える形になることに、値を見たのだ」
炭火が小さく鳴った。私はその音を聞きながら、少しだけ寒くなった。人と物の流れが数えられるようになれば、損耗も減る。だが同時に、誰が近く、誰が遠く、誰がどこを経由しているかまで、誰の目にも入るようになる。
比べやすくなったものほど、育つのも早い。
疑いもまた、そういうものであろう。
「正しい帳を通すことと」
若様は低く言われた。
「その帳が新しい損耗を生むことは、
別ではなかった」
私は返す言葉を持たなかった。慰めても、軽くしても、何にもならぬと分かっていたからである。若様は、晋卿様に教わった理をようやく大きく使えるところまで来た。
だが、その勝ちの影に生まれる別の傷みまで、もう見えてしまったのである。
しばらくして、若様はまた言われた。
「トルイ家へ知らせたい」
それきり黙る。
私は、その沈黙の意味を知っていた。知らせたい。だが届く言葉ほど、今は火種になる。近いと言えば、近いことが証になる。
違うと言えば、違わぬ証のように扱われる。正しい言葉が、正しい順で相手を損なう。若様には、それが何より堪えるのである。
都は、少しずつ形を持ち始めていた。
人足も倉も道も、前よりはよく数えられ、よく回るようになった。そのこと自体は、たしかに正しい。だが私はその夜、湯の冷める音を聞きながら思った。
正しい形とは、ただ長く保つ形ではないのだと。見えずに済んだものまで見えるようにしてしまう形でもあるのだと。
若様は火を見たまま、もう何も言われなかった。
ただ帳面の余白へ指を置き、まるでそこにまだ書かれていない損耗の名でもあるかのように、長くそのまま動かなかった。




