第45話
1.
一二三一年七月。燕京の政庁では、暑気より先に紙が濁った。
夏は人の胸を荒くする。暑い日に届く報せは、たいてい人の口を先に乾かし、乾いた口は、ものの重さを秤ではなく座の都合で量り始める。
その朝、南から急使が入ったときもそうであった。
汗に濡れた衣のまま、使いは礼を取りきる前に文書を差し出した。封を受けた役人の指先が、ほんの少しだけ止まる。止まり方の悪いときは、だいたい碌な内容ではない。私は若様の後ろで、その手元ばかり見ていた。
文は短かった。
――漢中城、陥つ。城中、多く屠る。
書き方は乾いていた。乾いているからこそ、いやな重みがあった。泣き叫ぶような文なら、まだ読む側も感情へ逃げられる。
だが帳面へ落とせる語で書かれた死は、座にいる者どもの顔色ばかりを悪くする。
部屋の空気が、そこで少しだけ止まった。
誰もすぐには口を開かなかった。何人死んだのか。将兵か、民か。抵抗の末か、見せしめか。そのへんを確かめる声より先に、皆、誰の名で行われたのかを待っている顔であった。
やがて文の続きを読んだ者が、低く言った。
「……トルイ家の軍にございます」
私は思わず若様の横顔を見た。
動かなかった。ただ、その静けさがよくなかった。若様はひどく傷つくときほど、顔色を変えずに静かになる。
そこへ晋卿様が来られ、文を受け取られた。一度、最後まで目を通し、それから紙を畳みもせず机へ置かれた。
「何をしている」
怒鳴る声ではない。だが、その低さで充分であった。
「力攻めで抜き、屠れば済むと思うのか」
誰に言うとも知れぬ。だが部屋の者どもは皆、顔を伏せた。
「城ひとつ落としたところで、
周りの地まで従うわけではない」
晋卿様はなお続けられた。
「降れば使えた民と地を、
わざわざ長く恨む単位へ
作り替えてどうする」
私はその言葉を聞きながら、ああ、この方はまず人命の貴さを嘆いておられるのではないのだ、と思った。
いや、嘆いてはおられよう。だが先に出るのは、統治の損である。兵糧より恨みの方が長く残る、と、そういう顔であった。
若様は、なお黙っておられた。
2.
私は昔から、若様が人の死に鈍いとは思っていない。
ただ、あの方は死そのものより先に、その死が誰の手へどう付くかを見る。家の人間でなくとも分かるくらい、それは昔からそうであった。
帳面の綻びを見つけるときも、損の額だけでなく、誰の名でその破れが残るかまで先に見てしまう人である。
だから、この報せでいちばん堪えたのも、たぶんそこだった。
屠城そのものの非道が堪えぬのではない。だが、よりによってそれがトルイ様の手でなされたこと、その一点が、若様の胸へいちばん深く刺さったのであろう。
私は横で見ていて、それが少し嫌だった。
城の中で死んだ者どものことより先に、主の手の汚れ方を痛む。嫌な若旦那らしいと思う。思うが、それが若様という男の本質でもあることを、私はもう知っていた。
そこへ、也速哥様が現れた。
いつものように柔らかい。急ぎ足でもなく、困惑した芝居もなく、ただ場の重みに合わせて少しだけ声を沈める。
「ああ……残念なことですね」
それだけであった。
誰も反論できぬほど穏当な総括である。死者を軽んじてもおらぬ。軍をあからさまに庇ってもおらぬ。だが、あの方の言葉は、いつもそういうふうに座の重みだけをきれいに引き受ける。
若様の肩が、そのときわずかに硬くなった。
私にも分かった。あの一言は、人を悼む声というより、死を誰の名へどれだけ付けるか、その話へ変えてしまう声に聞こえたのである。城の中で死んだ者どもが、そこで初めて数ではなく、座の重みへ換えられた。
晋卿様も、たぶん同じものを感じておられた。
だが、何も言われなかった。言えぬのである。あの言葉は穏当すぎる。穏当で、正しく、しかも場を収める。収めるがゆえに、あとへ薄く嫌なものだけが残る。
私は、その残り方を知っている。
気の毒だと言いながら、結局はどの品をどの値で誰へ付けるか、そこへ話を落としてしまう者の顔である。昔、奴隷商人どもが私の身体を見たときも、まさにそうであった。
若様は、ついに何も言わなかった。
ああいう声に言葉を返した瞬間、死者の数まで座の話になる。それが嫌で、黙るほかなかったのだと思う。
3.
その日の執務は、妙に長く感じられた。
誰も露骨には語らぬ。だが紙は動く。漢中の後始末、周辺の鎮撫、輸送筋の組み替え、別働の按配。屠った報せを受けたその日のうちに、もう別の紙は次の段取りへ移っている。
若様はその紙を前にして、ほとんど手を止めなかった。止めれば何かを考えてしまうからであろう。考えれば、たぶん耐えられぬ。だから余計に筆を動かし、数字を揃え、線を引き、別紙へ回すべき損耗を書き出していた。
だが夜更け、ようやく人が引けてからである。
若様は一枚の紙だけを前へ残し、他を脇へ避けた。南から攻める。金を挟む。使うなら敵にするな。礼を先に立てよ。恨みは長く残る。これまで書いてきた言葉の残り滓が、机の上の灯りのなかで、ひどく冷たく見えた。
「ヨハンナン」
若様が低く言われた。
「はい」
「正しかった」
私は返事をしなかった。こういうときの若様は、自分で分かっていることしか口にせぬ。
「南から入るのは、正しかった」
若様は紙を見たまま続けられた。
「正しいから、逃げられぬ」
私はそこで、ようやく腹へ落ちた。
これまで若様は、正しい制度が人を減らすことに苦しんでおられた。正しい帳面、正しい徴発、正しい順。それらが人を逃がさず、結果として減らしてゆく。その苦さは、もう何度も見てきた。
だが今夜の若様は、別のところへ来ていた。
制度ではない。戦略そのものが正しいからこそ、そこへ立つ人間が逃げられぬ。
南から攻める大義が通っているから、誰かがその正しさのもっとも汚い出口を引き受けねばならぬ。そして、その出口へ立たされたのがトルイ様だった。
「好んでなさったとは思えぬ」
若様は、ほとんど独り言のように言われた。
「だが、手は汚れた」
それきり黙った。
私は何も言えなかった。慰めても、憤っても、何にもならぬと分かっていたからである。正しい戦略が人を汚す。その事実は、理屈で薄まらぬ。むしろ理が通るほど、逃げ場がなくなる。
火の上で湯が細く鳴った。
若様はその音を聞きながら、指先で紙の端を揃えておられた。深く傷ついたときほど、計算が細かくなる人である。紙のずれを直しながら、どうにもならぬものだけが胸の中でずれてゆく。
4.
さらにしばらくして、若様は不意に手を止められた。
何か別の考えが、そこへ割り込んだのである。私はその横顔を見て、またよくないものが来たと知った。
「……遠のいた」
低く、そう言われた。
「何がでございます」
若様は、すぐには答えられなかった。言うべきかどうか、ご自分でも量っておられる顔であった。やがて、ほとんど聞こえるか聞こえぬかの声で言われた。
「トルイ家が、漢地を支配できる時期だ」
私は思わず目を上げた。トルイ家、と思った。
若様も、その瞬間に自分で自分の言葉に気づいたらしかった。顔色が、すっと悪くなった。いま口から出たものが、ただでは済まぬと分かったのであろう。
カアンでもない。継嗣と定まった家でもない。ただ、ひとりの王子の家にすぎぬ。
なのに若様は、いま、その家が漢地を取る時期の遠近を、自分の胸の痛みとして数えたのである。
私は何も言わなかった。
言えば、その不穏へ名を付けることになる。名を付けた瞬間、それはただの失言ではなく、胸の底にあった望みになる。若様もそれを恐れたのであろう。
しばらくして、ようやく筆を置かれた。
「私は、何を期待している」
誰に問うでもない声だった。
私は湯を差し出したが、若様はすぐには取られなかった。火の向こうを見たまま、まるで見知らぬ者の腹の底を覗くような顔をしておられた。
主の手の汚れを痛むだけなら、まだ忠で済む。だが、その家の将来へ、自分でも知らぬうちに賭けていたとなれば、話は別である。
若様は、その夜、初めてご自分の胸のうちにある不穏を恐れたのだと思う。
外ではもう、夜半の風が少しだけ涼しかった。だが書記部屋の内側には、昼の熱とも、屠城の報せとも違う、もっと細くて冷たいものが残っていた。
私は湯気の向こうに座る若様を見ながら、ああ、この人は今夜、死者の数より先に、自分の腹の底を恐れるところまで来たのだ、と思った。




