第44話
1.
一二三一年二月。燕京の政庁では、正しい話ほど人を黙らせた。
金を南北から挟む。言葉にすれば、それだけのことである。チンギス・カンの頃から言われてきた大きな筋でもあり、いまさら真正面から異を唱えれば、臆病か愚鈍の顔を当てられる。
ゆえに争いは、是非ではなく順になった。
どの道から入れるか。どこまで南へ頼るか。兵糧をどちらの名で動かすか。先に何を約し、何を約さぬか。
つまり、やるかやらぬかではない。どう書けば、まだ後が荒れすぎずに済むか。そこだけで皆が顔をしかめていたのである。
若様――成安は、その日も朝から紙に向かっていた。南へ渡す文案の下書き、兵站の控え、宿継ぎの簡略図、別紙へ回すべき数字の抜き書き。
机の上には、勝つための策というより、正しい策が人を逃がさぬよう縫い合わせるための紙ばかりが積まれていた。
晋卿様は、文案の一枚を見て言われた。
「南を使うな、とは申せぬ」
声は低く、乾いていた。
「だが、使うなら敵にするな」
若様は黙ってうなずいた。それだけで、もう十分であった。反対ではない。賛成でもない。通すなら、せめて後で敵に育たぬ形へ寄せよ、ということである。
若様は紙の端を指で押さえたまま、低く言った。
「言い方と順が要ります」
「そうだ」
「兵糧を出させるなら、
礼を先に立てねばなりませぬ」
「そうだ」
「使節の扱いも、雑にすれば
あとで禍根になります」
晋卿様は、そこでほんのわずかに目を閉じられた。
「お前は、そこばかりよく見えるな」
若様は答えなかった。答えぬかわり、次の紙を引き寄せた。帳面の上では一行で済む違いでも、相手にとっては恨みの寿命を変える。あの方は、そういうところへ先に目が行く。
正しい戦略ほど、現場の人間へ逃げ場なく降ってくる。若様の顔は、その朝、そういう息苦しさでひどく静かであった。
2.
昼過ぎ、若様は南へ回す文案をさらに削った。
命ずる形を避ける。貸し借りの顔を濃くしすぎぬ。こちらが得るものばかり先に立てぬ。兵糧輸送という言葉すら、そのままでは重いと見て、より薄い言い換えを探す。
私は横で控えを書きながら、つい言った。
「そこまで気を遣っても、
向こうは腹で嫌がりますまいか」
若様は筆を止めぬまま答えた。
「嫌がるだろう」
「ならば」
「嫌がるのと、恨みに育つのは別だ」
私は黙った。若様はそこで初めて顔を上げた。
「勝つだけなら、もっと雑でよい」
それから、また紙へ戻る。
「だが雑にやれば、あとで高くつく」
可愛げのない言い方であった。だが、若様はもとより勝ち名乗りを見る人ではない。疲れた馬、遠回りの荷駄、言い損ねた一言、粗末に扱った使者、あとに残る費え。そういうものばかりを先に見る。
文案が一枚まとまるたび、若様は余白を見た。言葉そのものより、書かぬことで増える敵意の方を数えている顔である。
私はその横顔を見ながら、昔からこの人は、勝ち筋より先に、勝ったあとの腐り方を見てしまうのだと思った。
そのとき、使いが一人、息を切らして入ってきた。礼を取りきる前に、もう口が先に動いている。
「南の件で、報が――」
部屋の空気が、そこで少しだけ止まった。
「何だ」
若様が言うと、使いは唾をのみ、声を落とした。
「まだ確かではありませぬが、
我が方の使者が、
宋の朝廷で殺された由にございます」
私は背筋が冷えた。若様はすぐには何も言わなかった。晋卿様の顔も、動かぬ。だが、部屋の端にいた西域側の男のひとりが、薄く鼻で笑った。
「ならば話は早い」
ひどいことを、ひどいとも思わずに言う声だった。
「報復は帝国の力を示します」
晋卿様が、そのときだけはっきり顔をしかめられた。
「力は、残すために使うものだ」
低いが、よく通る声である。男は肩をすくめたが、それ以上は言わなかった。若様だけが、目の前の紙を見たまま、ひどく静かになっていた。
3.
報が確かでないうちは、誰も大声では動けぬ。だが、動けぬときほど、場の温度だけは先に変わる。
さきほどまで南との連携をどう書くかで揉めていた者どもが、今度は報復の口実へ寄り始める。南を使うかどうかではない。使えなくなったとき、どの名で殴るか。そういう顔つきへ変わってゆく。
若様は、しばらく何も言わず、さきほどの文案を横へ避けた。その下から新しい紙を一枚引き抜き、端へ細く書きつけた。
――南に変ありし場合の損耗、
別に勘定を要す。
私はその字を見て、胸のうちで苦いものを感じた。怒っているのではない。悲しんでいるのでもない。若様はもう、南が敵に回ったときの費え方を数え始めているのである。
そこへ、別の役人が入ってきた。まだ確報ではない、朝廷そのものかどうかも曖昧だ、地方での衝突かもしれぬ、そういう湿った補いの言葉を並べた。だが補えば補うほど、かえって血の匂いだけが濃くなる。
「どのみち、軽くは済みますまい」
誰かがそう言った。
「南へ甘い顔を見せれば、
足元を見られます」
西域側の声である。私は思わず若様を見た。怒るかと思ったが、怒らなかった。ただ、盃も持たず、紙の端を揃えておられた。
「甘い顔ではない」
ぽつりと、そう言った。
「高くつくと言っているだけだ」
それだけであった。だが、その一言に、若様の腹の底はだいたい見えた。報復が悪だと言っているのではない。止める顔でもない。必要なら、やるのであろう。
けれど、その必要のあとで増える荷駄、痩せる戸口、敵に育つ恨み、その維持費まで見えてしまうのである。
私は、若様のそういう目つきに昔から馴染まぬ。負ける前より、負けたあとの始末に敏い。勝つ話の熱が高いほど、その人だけは腐る順番の方を見ている。可愛げがない。だが、だいたい当たる。
部屋の空気は、もう南とどう組むかではなく、南をどう罰するかの方へ傾き始めていた。さきほどまで整えていた言い換えや順番が、急に反故になった紙のように見えてくる。その変わり方の速さが、私は嫌だった。
4.
夕刻、寄り合いはようやく散った。確報待ち、という顔で皆が引いたが、腹の底ではもう次の名目を探しているのが見えた。
若様は最後まで席を立たず、南向け文案と、新たに起こした損耗控えを重ねていた。捨てぬのである。南と組む紙も、敵に回ったときの紙も、同じ机へ置く。
私は荷をまとめながら言った。
「今日は、ずいぶん手が止まりましたな」
若様は、少しだけ遅れてこちらを見た。
「そうか」
「ええ」
「……止まったな」
それから、また視線を落とす。
「報復の執行に、
トルイ様の名が出るかもしれぬ」
私は息をのんだ。誰もまだ明言はしていない。だが、そういう筋が立ちうることくらい、私にも分かる。若様には、なおさらであろう。
あの方はしばらく黙っていた。怒りでもなく、狼狽でもない。ただ、ひどく嫌な未来の匂いを先に嗅いだ者の黙り方である。
「正しい戦だ」
やがて、そう言った。
「そういう顔で進むだろう」
私は何も返せなかった。
「だが、その出口は汚れる」
若様の手が、そのときまた止まった。私はその手つきを見て、昔を思い出した。トルイ様に話が届く、と初めて若様が思えた頃のことである。
大きく、惜しまず、抱え込まず、役に応じて人も物も流してしまう主。若様があの家へ手を伸ばしたのは、理が届くかもしれぬと思ったからだ。
その人が、正しい戦略のもっとも汚い出口に立たされる。若様は、そこまで一足先に見てしまったのである。
外では、燕京の夜風がようやく少しだけ冷えていた。だが書記部屋の内側は、まだ昼の熱を残していた。南を使う紙と、南を討つ紙が、同じ机の上で乾いてゆく。
私は湯の冷えた盃を片づけながら、思った。
正しいことは、人を清くはせぬ。むしろ正しいという顔をしているときほど、人は汚れた出口へ逃げにくくなるのかもしれぬ。
若様はその夜、最後まで文案を捨てなかった。
捨てぬまま、次に汚れるのが誰かを、もう勘定へ入れておられたのである。




