表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
家譜 ~中書省員外郎 李成安の生涯  作者: 早瀬 構
第五部

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
44/70

第43話

1.


 一二三〇年十月。燕京の風は、ようやく少しだけ冷えた。だが政庁の紙束は、季節など知らぬ顔で積み上がっていた。


 このごろの若様――成安は、徴発帳と倉別残数と宿継ぎ控えを、もう別々の紙としては見ておられなかった。


 人足を出せば馬腹が痩せる。馬を先に押さえれば戸口が散る。倉を開ければ翌月の冬営が薄くなり、諸家の出入りが増えれば、仮の控えでは必ずどこかが破れる。


 つまり王城を立てるとは、ただ壁を築くことではない。


 留まる仕組みごと起こすことだ。


 晋卿様も、それをよく分かっておられた。寄り合いの前、若様がまとめた下書きをご覧になり、細い指で紙の端を押さえたまま、しばらく黙っておられた。


「都とは、畳んで移動する幕舎ではない」


 やがて、そう言われた。


「留まるものには、

  留めるための器が要る」


 若様は低くうなずいた。


「普請は一度でも、維持は毎年です」


 私は横で控えを揃えながら、その言葉の置き方に少し背筋が寒くなった。徴発の筋を整える、とは言わぬ。税の骨を入れる、とはなおさら言わぬ。


 あくまで王城建設のための準備。冬営のための備え。諸王諸家の往来に耐えるための臨時の帳。


 名目は臨時で、入る骨は恒久である。


 若様は、去年までならこういう書き方を嫌ったであろう。理を理の名で通したがる人である。だが今は、嫌うだけでは残らぬところまで来ていた。紙の白さのままでは、もう誰も動かぬと知ってしまったのである。


 それでも、紙へ向かう横顔は少しも軽くなかった。便利な理屈を得た者の顔ではない。嫌なものを嫌なまま使う者の顔だった。


2.


 寄り合いは、最初から匂いがよくなかった。


 漢地側の役人どもは、王城建設と聞くだけで眉をひそめる。西域上がりの実務官は、面倒な反対さえ潰れればよいという顔をしていた。上座に近い貴族どもは、細かい帳面の話になると、決まって退屈そうになる。


 若様は、そういう顔色を一つずつ勘定へ入れた上で、淡々と話を運ばれた。


「木材、石材、煉瓦、鉄、

  その都度の徴発で済ませれば、

  かえって高くつきます」


 まず利を言う。


「遷都後の冬営と、

  諸王諸家の出入りを考えれば、

  仮の控えでは持ちません」


 次に面子を言う。


「人足帳、倉別台帳、宿継ぎ控えを、

  王城建設準備の名で

  早めに起こすべきです」


 最後に実務だけを置く。


 その運びは、まことによく出来ていた。理の骨は太い。言葉は短い。誰の顔も真正面から潰さぬ。


 晋卿様が上から「都とは留まるものだ」と大きい言葉で包み、若様が下で「維持は毎年です」と乾いた数字へ落とす。反対する側から見ても、普請のための整理にしか聞こえぬよう出来ていた。


 それでも、鼻白む者はいた。


「漢地のやり方を、

  そのまま持ち込む気ですか」


「王城は一度立てば済む話でしょう」


「諸家の出入りまで、いちいち

  毎年の帳が要るとも思えませぬが」


 理屈としては分かる。分かるからこそ、若様もすぐには切らなかった。切らずに、冬の補い、替え馬の置き場、倉の寝かせ方といった、誰も真正面から否定しにくい後始末ばかりを積み上げていった。


 そのときである。


 場の後ろの方から、ふらりと声が落ちた。


「王城建設そのものに異を唱える向きは、

  さすがにございますまい」


 皆がそちらを見た。


 也速哥様であった。


 あの方は、いつ見ても柔らかい。怒鳴りもせず、急かしもせず、誰に向けたとも知れぬぬるい声で、場の空気だけを半歩ずつずらしてゆく。


「帳は、あとで要るものを

  先に起こすだけの話でございましょう。

  結構なことではありませんか」


 生暖かい、丁寧な言い方だった。褒めているようで、値踏みしているようでもある。誰の面子も潰しておらぬ。だが、その一言で、露骨に反対しかけていた二、三人は口をつぐんだ。


 上座の顔も、それ以上は揉めぬ方へ傾いた。


 結局、話はそのまま通った。


 通ったことそのものより、私は若様の横顔の方が気になった。少しも晴れておられなかったからである。


3.


 寄り合いを出たあと、若様はしばらく無言で歩いておられた。廊下の角を二つ曲がり、ようやく人の目の薄いところまで来ると、足を止められた。


「ヨハンナン」


「はい」


「……気味が悪い」


 私は若様の顔を見た。誰が、と問うまでもなかった。


「也速哥様でございますか」


 若様はすぐには答えなかった。壁の影を見て、それから低く言われた。


「あの男が賛成したこともだ」


 そこで一度、言葉を切る。


「だが、それより前が分からぬ」


「前、と申しますと」


「あれでもカンの子だ」


 若様は、まるで自分に言い聞かせるように続けられた。


「もっと大きいところだけ見ていれば

  よい男だろう」


 私は黙っていた。若様がまだ怒っておられぬことが分かったからである。怒りではない。理屈へ落ちぬ嫌悪を、どこへ置けばよいか持て余しておられる声だった。


「なのに」


 若様は、少しだけ眉を寄せられた。


「人足帳や倉別台帳のような台所仕事にまで、

  あの男は妙に話が早い」


 私はそこで、だいたい察した。


 下を見ているのが嫌なのではない。見ている場所と、その男の座が、あまりに釣り合わぬのである。


 高いところから降りてきて、ただ一瞥するのでもない。まるで最初から、その種の汚れ仕事の勘所を知っている者の手つきで口を差し挟む。


 しかも、外れていない。


 若様は、そこが腹に据えかねるのであろう。


「分からぬのが、嫌だ」


 ぽつりと、そう言われた。


「はい」


「しかも勘所が合っている」


 今度は、私もすぐ返せなかった。分かります、と言うのは軽すぎる。分かりませぬ、と言うのも違う。


「若様」


 私は少し考えてから言った。


「下を見ておられるのが

  気味悪いのではありますまい」


「では何だ」


「……私にも、うまくは申せませぬ」


 若様は鼻で息を吐かれた。笑ったのでも呆れたのでもない。ただ、言葉の外へ残ったものを、そのまま胸へ戻した顔であった。


「そうか」


 それだけ言って、また歩き出された。


4.


 その夜、書記部屋へ戻ってからも、若様はしばらく筆を取られなかった。昼に通った議案の控えが机にあり、別紙には人足帳の様式、倉別台帳の引き方、宿継ぎの起こし直しの順まで揃っている。仕事はもう、山ほどあった。


 だが若様は、その最初の一枚へすぐには手を出されなかった。


 火の弱った灯りの下で、紙の余白を見ておられた。昼の寄り合いで通った理屈ではなく、あの生暖かい賛成の声だけが、まだどこかに残っているのであろう。


 私は湯を置いた。若様は礼も言わず、しばらく湯気を見ておられた。


「ヨハンナン」


「はい」


「あの男は、理に外れてはおらぬ」


「ええ」


「不正を勧めてもいない」


「ええ」


「なのに、場が終わったあとでだけ、

  妙に気分が悪い」


 私は杯の底を見た。こういうときの若様は、励ましを欲しておられぬ。理屈を足しても、余計に気分が悪くなるだけである。


「座の重みが、どこか変に動きました」


 私はそうだけ言った。


 若様は、ようやくこちらを見られた。驚いた顔ではない。少しだけ救われた顔であった。説明はつかぬ。だが、変だったことだけは、自分だけが感じたのではないと知ったからであろう。


「そうだな」


 低く、それだけ言われた。


 それから若様は、やっと筆を取られた。王城建設準備の名で起こすべき帳、倉、宿継ぎ、人足、替え馬、糧食。昼までならただの臨時議案であったものが、夜にはもう恒久の骨組みへ変わり始めていた。


 私は横で紙を揃えながら、思った。


 若様は、まだ何も見抜いてはおられぬ。也速哥様の腹の底も、先の手も、どこまで見ているのかも、少しも分かっておられぬ。


 ただ一つ、あの男が賛成したことが気味悪い。その感覚だけを胸へ残したまま、また帳面へ戻ってゆく。


 まことに若様らしい。


 理屈へ落ちぬ不快を抱えたまま、なお紙を整える。そういう人なのである。


 火の上で、湯が小さく鳴った。私はその音を聞きながら、あの生暖かい賛成は、たぶん後で別のところから効いてくるのだろうと思った。


 言わずとも、こういう違和感はたいてい後で形になる。今はまだ、帳面の余白ほどの薄さでしかなくとも。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ