第43話
1.
一二三〇年十月。燕京の風は、ようやく少しだけ冷えた。だが政庁の紙束は、季節など知らぬ顔で積み上がっていた。
このごろの若様――成安は、徴発帳と倉別残数と宿継ぎ控えを、もう別々の紙としては見ておられなかった。
人足を出せば馬腹が痩せる。馬を先に押さえれば戸口が散る。倉を開ければ翌月の冬営が薄くなり、諸家の出入りが増えれば、仮の控えでは必ずどこかが破れる。
つまり王城を立てるとは、ただ壁を築くことではない。
留まる仕組みごと起こすことだ。
晋卿様も、それをよく分かっておられた。寄り合いの前、若様がまとめた下書きをご覧になり、細い指で紙の端を押さえたまま、しばらく黙っておられた。
「都とは、畳んで移動する幕舎ではない」
やがて、そう言われた。
「留まるものには、
留めるための器が要る」
若様は低くうなずいた。
「普請は一度でも、維持は毎年です」
私は横で控えを揃えながら、その言葉の置き方に少し背筋が寒くなった。徴発の筋を整える、とは言わぬ。税の骨を入れる、とはなおさら言わぬ。
あくまで王城建設のための準備。冬営のための備え。諸王諸家の往来に耐えるための臨時の帳。
名目は臨時で、入る骨は恒久である。
若様は、去年までならこういう書き方を嫌ったであろう。理を理の名で通したがる人である。だが今は、嫌うだけでは残らぬところまで来ていた。紙の白さのままでは、もう誰も動かぬと知ってしまったのである。
それでも、紙へ向かう横顔は少しも軽くなかった。便利な理屈を得た者の顔ではない。嫌なものを嫌なまま使う者の顔だった。
2.
寄り合いは、最初から匂いがよくなかった。
漢地側の役人どもは、王城建設と聞くだけで眉をひそめる。西域上がりの実務官は、面倒な反対さえ潰れればよいという顔をしていた。上座に近い貴族どもは、細かい帳面の話になると、決まって退屈そうになる。
若様は、そういう顔色を一つずつ勘定へ入れた上で、淡々と話を運ばれた。
「木材、石材、煉瓦、鉄、
その都度の徴発で済ませれば、
かえって高くつきます」
まず利を言う。
「遷都後の冬営と、
諸王諸家の出入りを考えれば、
仮の控えでは持ちません」
次に面子を言う。
「人足帳、倉別台帳、宿継ぎ控えを、
王城建設準備の名で
早めに起こすべきです」
最後に実務だけを置く。
その運びは、まことによく出来ていた。理の骨は太い。言葉は短い。誰の顔も真正面から潰さぬ。
晋卿様が上から「都とは留まるものだ」と大きい言葉で包み、若様が下で「維持は毎年です」と乾いた数字へ落とす。反対する側から見ても、普請のための整理にしか聞こえぬよう出来ていた。
それでも、鼻白む者はいた。
「漢地のやり方を、
そのまま持ち込む気ですか」
「王城は一度立てば済む話でしょう」
「諸家の出入りまで、いちいち
毎年の帳が要るとも思えませぬが」
理屈としては分かる。分かるからこそ、若様もすぐには切らなかった。切らずに、冬の補い、替え馬の置き場、倉の寝かせ方といった、誰も真正面から否定しにくい後始末ばかりを積み上げていった。
そのときである。
場の後ろの方から、ふらりと声が落ちた。
「王城建設そのものに異を唱える向きは、
さすがにございますまい」
皆がそちらを見た。
也速哥様であった。
あの方は、いつ見ても柔らかい。怒鳴りもせず、急かしもせず、誰に向けたとも知れぬぬるい声で、場の空気だけを半歩ずつずらしてゆく。
「帳は、あとで要るものを
先に起こすだけの話でございましょう。
結構なことではありませんか」
生暖かい、丁寧な言い方だった。褒めているようで、値踏みしているようでもある。誰の面子も潰しておらぬ。だが、その一言で、露骨に反対しかけていた二、三人は口をつぐんだ。
上座の顔も、それ以上は揉めぬ方へ傾いた。
結局、話はそのまま通った。
通ったことそのものより、私は若様の横顔の方が気になった。少しも晴れておられなかったからである。
3.
寄り合いを出たあと、若様はしばらく無言で歩いておられた。廊下の角を二つ曲がり、ようやく人の目の薄いところまで来ると、足を止められた。
「ヨハンナン」
「はい」
「……気味が悪い」
私は若様の顔を見た。誰が、と問うまでもなかった。
「也速哥様でございますか」
若様はすぐには答えなかった。壁の影を見て、それから低く言われた。
「あの男が賛成したこともだ」
そこで一度、言葉を切る。
「だが、それより前が分からぬ」
「前、と申しますと」
「あれでもカンの子だ」
若様は、まるで自分に言い聞かせるように続けられた。
「もっと大きいところだけ見ていれば
よい男だろう」
私は黙っていた。若様がまだ怒っておられぬことが分かったからである。怒りではない。理屈へ落ちぬ嫌悪を、どこへ置けばよいか持て余しておられる声だった。
「なのに」
若様は、少しだけ眉を寄せられた。
「人足帳や倉別台帳のような台所仕事にまで、
あの男は妙に話が早い」
私はそこで、だいたい察した。
下を見ているのが嫌なのではない。見ている場所と、その男の座が、あまりに釣り合わぬのである。
高いところから降りてきて、ただ一瞥するのでもない。まるで最初から、その種の汚れ仕事の勘所を知っている者の手つきで口を差し挟む。
しかも、外れていない。
若様は、そこが腹に据えかねるのであろう。
「分からぬのが、嫌だ」
ぽつりと、そう言われた。
「はい」
「しかも勘所が合っている」
今度は、私もすぐ返せなかった。分かります、と言うのは軽すぎる。分かりませぬ、と言うのも違う。
「若様」
私は少し考えてから言った。
「下を見ておられるのが
気味悪いのではありますまい」
「では何だ」
「……私にも、うまくは申せませぬ」
若様は鼻で息を吐かれた。笑ったのでも呆れたのでもない。ただ、言葉の外へ残ったものを、そのまま胸へ戻した顔であった。
「そうか」
それだけ言って、また歩き出された。
4.
その夜、書記部屋へ戻ってからも、若様はしばらく筆を取られなかった。昼に通った議案の控えが机にあり、別紙には人足帳の様式、倉別台帳の引き方、宿継ぎの起こし直しの順まで揃っている。仕事はもう、山ほどあった。
だが若様は、その最初の一枚へすぐには手を出されなかった。
火の弱った灯りの下で、紙の余白を見ておられた。昼の寄り合いで通った理屈ではなく、あの生暖かい賛成の声だけが、まだどこかに残っているのであろう。
私は湯を置いた。若様は礼も言わず、しばらく湯気を見ておられた。
「ヨハンナン」
「はい」
「あの男は、理に外れてはおらぬ」
「ええ」
「不正を勧めてもいない」
「ええ」
「なのに、場が終わったあとでだけ、
妙に気分が悪い」
私は杯の底を見た。こういうときの若様は、励ましを欲しておられぬ。理屈を足しても、余計に気分が悪くなるだけである。
「座の重みが、どこか変に動きました」
私はそうだけ言った。
若様は、ようやくこちらを見られた。驚いた顔ではない。少しだけ救われた顔であった。説明はつかぬ。だが、変だったことだけは、自分だけが感じたのではないと知ったからであろう。
「そうだな」
低く、それだけ言われた。
それから若様は、やっと筆を取られた。王城建設準備の名で起こすべき帳、倉、宿継ぎ、人足、替え馬、糧食。昼までならただの臨時議案であったものが、夜にはもう恒久の骨組みへ変わり始めていた。
私は横で紙を揃えながら、思った。
若様は、まだ何も見抜いてはおられぬ。也速哥様の腹の底も、先の手も、どこまで見ているのかも、少しも分かっておられぬ。
ただ一つ、あの男が賛成したことが気味悪い。その感覚だけを胸へ残したまま、また帳面へ戻ってゆく。
まことに若様らしい。
理屈へ落ちぬ不快を抱えたまま、なお紙を整える。そういう人なのである。
火の上で、湯が小さく鳴った。私はその音を聞きながら、あの生暖かい賛成は、たぶん後で別のところから効いてくるのだろうと思った。
言わずとも、こういう違和感はたいてい後で形になる。今はまだ、帳面の余白ほどの薄さでしかなくとも。




