第42話
1.
一二三〇年九月。燕京の政庁では、秋に入っても風が抜けぬ。草原の冷えなら、まだ人の胸も少しは鎮まろう。だがここでは、熱は紙と壁のあいだへ籠もり、籠もったまま人の声だけを尖らせる。
その日の寄り合いも、最初からよくなかった。
「三千人です」
西域上がりの実務官が、帳面の端を指で叩いた。
「十日で三千。馬は六百。
先に押さえればよろしい」
向かいの漢地の役人が、顔をしかめた。
「十日で三千を出せば、
来月の残存戸口が死にます」
「死ぬ戸は、次で埋めればよい」
「次を埋めれば、その次が空きます」
言い方が、もう最初から噛み合っておらぬ。
片や、いま動く理である。片や、あとまで持つ理である。どちらも理ではある。だから、余計に始末が悪い。
「戸を数えるから遅いのです」
別の男が、薄く笑った。
「頭で取れば早い」
「頭で取れば、里正が崩れます」
漢地側の一人が言った。
「里正が崩れれば、次の徴も立ちませぬ」
「次の徴まで待っておられるほど、
帝国は暇ではない」
私は横で控えを持ちながら、若様の顔を見た。成安は、最初から誰の肩も持たぬ顔で座っていた。いや、持てぬのである。どちらも分かるからだ。
やがて、問いが若様へ飛んだ。
「李成安」
西域の男が顎を上げた。
「お前はどう見る」
若様はすぐには答えられなかった。帳面へ一度だけ目を落とし、それから低く言われた。
「今月だけなら通ります」
その場が少し動いた。漢地側の役人どもが、面白くなさそうに眉をひそめる。だが若様は、そこで切らなかった。
「三千を十日で出し、
馬六百を先に押さえれば、
今月の筋だけは立ちます」
「ほう」
「だが、翌月の逃散が増える。
倉別残数も痩せる。
馬腹も落ちます」
若様はそこで、別の紙を出した。
「この村々は、先月の徴で
すでにもう一度痩せている。
ここへ重ねれば、
戸口を隠すより先に、人が消えます」
西域の男は鼻で笑った。
「消えるなら、
残る者から取ればよい」
若様はそのときだけ、少し顔を上げた。
「そのやり方では、
次に取る地まで痩せます」
「荒れてなお取れれば足りる」
そこへ、上座から乾いた声が落ちた。
「まだ終わらぬのか」
私は思わず背筋を伸ばした。モンゴル貴族である。名は出ぬ。出ぬが、誰もが顔色だけは窺う相手だ。
その人は、片肘をついたまま、面倒そうに言った。
「どちらでもよい。遅らせるな。
取れる形にして出せ」
怒鳴りもしない。だが、その一言で場の重みが変わった。やるかやらぬかではない。やるのは決まっている。争うなら、遅らせぬ範囲で争え。そういう倦みである。
そのときであった。西域の男のひとりが、思いついたように言った。
「ならば、北の御営の話に
寄せればよろしい」
皆がそちらを見た。
「いずれ王城を定めるなら、人足帳が要る。
倉を置くなら倉別台帳が要る。
道を通すなら宿継ぎも引き直す。
税のためと言うから揉めるのです。
造営準備と言えばよろしい」
私は、その場の空気が少しだけ変わるのを見た。漢地側は黙り、西域側は薄く笑い、上座の方は、ようやく面倒が半歩減った顔をなさった。
若様だけが、帳面へ落とした指先を止めたまま、すぐには口を開かなかった。誰より先に、その言葉の意味が分かってしまった顔であった。
2.
寄り合いが終わったあとも、書記部屋の空気は少し濁っていた。
若様は戻ってすぐ、帳面を開いた。だが筆は進まぬ。行のあいだを見、余白を見、さきほどの言葉をどこへ置くか量っておられる顔である。
私は湯を置きながら言った。
「ずいぶん便利な話になりましたな」
若様は、すぐには答えられなかった。
「便利、か」
「税の話は揉める。
だが王城の準備と言えば通る。
たいてい、そういう名で通ります」
若様は紙の端を揃えた。
「……そうだ」
「お気に召しませぬか」
若様は低く言った。
「正しいから通すのでなく、
必要だから通す」
「世の中は、たいていそう回ります」
ついそう返したが、若様の顔は少しも軽くならなかった。
「昔の私なら、嫌った」
ぽつりと、そう言われた。
私は返す言葉を探したが、うまく見つからなかった。嫌ったであろう。若様はそういう人である。筋を筋として通したがる。名目の衣を被せた時点で、理が濁るように感じる人だ。
だが、いまの若様は、その濁りを嫌うだけでは済まぬところへ来ていた。
若様はしばらく黙っていたが、やがて帳面を閉じた。
「外へ出る」
「羊串ですか」
「たぶん、そうなる」
言い方が、あまりに若様らしかったので、私は少しだけ笑いそうになった。
3.
屋台の炭火は、政庁の灯りより人の顔をよく見せる。羊脂が落ち、炭が小さくはぜるたび、昼の乾いた議論が、急に俗な腹の話へ戻るからであろう。
若様は一本目の串を受け取っても、すぐには食わなかった。焼き色を見て、それからようやく口へ運ぶ。うまいともまずいとも言わぬ。ただ、その向こうにある話の方を先に待っている顔である。
そこへ、晋卿様が来られた。
高官の顔ではない。くたびれた四十男が、炭火へ引かれて腰を下ろしただけの顔である。だが若様の背は、わずかに正された。
「ずいぶん静かだな」
晋卿様は串を受け取りながら言われた。
「昼に言い足りなかったか」
若様は少し黙り、それから答えた。
「言い足りたからです」
「ほう」
「税を通したいなら税と言うな。
そういう話でしょう」
晋卿様は肩をわずかに揺らした。笑ったのかどうか分からぬ程度である。串を返し、落ちかけた羊脂を指先で避けてから言われた。
「お前は、言葉を真っすぐ取りすぎる」
「違いますか」
「違わぬ」
あっさりとそう言って、串の先を見た。
「だが、真っすぐすぎる」
若様は盃を置いた。
「王城を建てる気なら、その前に帳が要る」
「そうだ」
「人足帳も、倉別台帳も、宿継ぎも」
「そうだ」
「では、税制のためではない」
晋卿様はそこで初めて、若様の顔を見られた。
「税制のためでもある」
それだけであった。
若様は黙った。私は横で、炭火の音だけを聞いていた。晋卿様は串を一度皿へ置き、低く続けられた。
「都は一冬では立たぬ。
立てる前に、
人と倉と道を数えねばならぬ」
そう言って、また一本、串を返す。
「数えれば、あとで残る」
「名目を借りてでも、ですか」
「借りねば残らぬなら、借りよ」
若様の顔が、そこで少しだけ強ばった。
「理が濁ります」
「濁らぬ理で、何が残った」
その一言は、叱責ではなかった。あまりに静かで、だからこそ逃げ場がなかった。
晋卿様はなお言われた。
「税のためと言えば、皆、腹で拒む。
だが城のためと言えば、
同じ帳でも手を出す」
「それでは――」
若様は、そこで止まった。嫌いな言葉を飲み込んだ顔である。晋卿様が先に言われた。
「方便だ」
私は、その言葉が若様へどう刺さったか、横で見ていても分かった。昔なら、その場で顔をしかめたであろう。だが今夜の若様は、しかめる代わりに、ただ黙って串を見ていた。
4.
帰り道、燕京の夜風はようやく少しだけ涼しかった。
若様はすぐには何も言われなかった。屋台の灯が遠のき、羊脂の匂いも薄くなったころ、ようやく低く言われた。
「臨時の衣で、恒久の骨を入れる」
独り言のような声であった。
「いまの話は、そういうことですね」
私はそう返した。若様はうなずきもしなかった。ただ、前を見たまま歩いておられた。
「昔なら、嫌った」
もう一度、同じことを言われた。
「ええ」
「いまも、好かぬ」
「ええ」
それでも若様は、止まらなかった。
「だが、嫌うだけでは残らぬ」
その声は、ひどく乾いていた。悟った声ではない。諦めた声でもない。ただ、嫌なものを嫌なまま呑み込んだ声である。
私は横を歩きながら、この人はとうとうそこまで来たのだと思った。正しいことを見つける人では、もう足りぬ。正しいことを、どの名で差し出せば残るか、そこまで見ねばならぬところへ。
書記部屋へ戻ると、若様はすぐに紙を広げた。
最初に書いた見出しは、徴発でも税でもなかった。
――北の御営造営準備につき、
人足帳・倉別台帳・宿継ぎ控えを
別紙にて早急に起こすべし。
私はその字を見て、少しだけ背筋が寒くなった。
同じ帳面である。昼までなら、漢地を守るための帳とも言えた。いまは、王城を建てるための帳である。名が変わっただけで、通る筋も、届く先も変わる。
若様は筆を置き、しばらく紙を見ておられた。
「……理の勝ちではないな」
ぽつりと、そう言われた。
私は答えなかった。答えれば、いかにも綺麗になりすぎる気がしたからである。
勝ちではあるまい。だが負けとも違う。理に衣を着せ、別の門から中へ入れる。そういう勝ち方を、若様はいま初めて、自分の手で書いたのだ。
火の上で、湯が小さく鳴った。
私はその音を聞きながら、ああ、この若旦那は、紙の白さのままではもう通らぬと知ったのだ、と思った。




