第40話
1.
一二二九年十月。クリルタイは終わった。終わったものは、たいてい片づいた顔をする。
草原の空は高く、白かった。祝いのあとの白さというのは、酒が回ったあとの赤ら顔より、よほど人の胸の内を冷やすことがある。
オゴデイ様はカアンとなられた。称名は揃い、諸家もそれぞれ座るべきところへ座り、杯も礼も、いまさら取り落とすには遅いところまで来ていた。
金への征討も、西の方角へ向けた大きな遠征も、もう止まらぬ顔で紙へ書かれ始めている。
秩序は立ったのである。
だが私は、こういうときほど椀の置き方を見る。片づけの手つき、下げられた器の数、残った肉がどこへ回るか。決まった話ほど、あとで人の癖がよく出る。
その夜のトルイ家は、妙に静かであった。祝いの名残はある。笑いもまだ遠くに残っている。だが近くでは、女中どもが杯を引き、器を重ね、贈答の残りを別の包みへ移していた。
誰も慌てぬ。誰も取りこぼさぬ。白い静けさのなかで、全部がちゃんと収まってゆく。
若様――成安は、その収まり方を見ておられた。
前なら、よく整っている、で済んだかもしれぬ。だが今の若様は、整いの向こう側まで見る。何が収まり、何が見えなくなったか、その順まで勘定へ入れてしまう。
贈答は按分され、妃衆の座は乱れず、先に立つべき者は先に立ち、脇へ入る者の値も落ちなかった。
トルイ様は大きくおられ、ソルコクタニ様はその大きさが家を裂かぬよう縫い、ドレゲネ様は受けるべき顔を取り落とされなかった。
それは、まことによく出来ていた。
よく出来ていたからこそ、若様の顔は晴れなかった。
理想郷ではない、と、もう見えてしまっているのであろう。ぬめった政治の上に立ち、主の大きさを奥向きが縫い、諸家への恩と警戒のなかで使われてゆく家である。
殿お一人の大きさだけで立っているのではない。家そのものが、もう帝国の秩序を支える働きとして見られ始めている。
その見え方へ、若様ご自身の手も、ずいぶん入っていた。
2.
私は少し離れたところで、女中に返すべき包みを点けていた。若様は火の届かぬ外れに立ち、下げられてゆく器の音を聞いておられた。
そこへ、足音も重くせず近づいてきたのが、也速哥様であった。
私は思わず顔を上げた。あの方は、人を追い詰めるときほど、追い詰める顔をなさらぬ。片づける顔で、人の重みだけを静かに減らしてゆく。
也速哥様は、若様の少し脇で足を止められた。酒の匂いも、祝いの熱も、もう声へは残しておられぬ。
「若いのによく働かれたな」
それだけであった。
若様はすぐには答えられなかった。私にはそれが、よく分かった。何に対して頭を下げればよいのか、分からぬ一言だったからである。
トルイ家のために苦労したな、とも聞こえる。帝国の秩序のために働かされたな、とも聞こえる。あの大きい家を、ずいぶん見栄えよく整えてしまったな、とも聞こえる。
どれで受けても、腹が立つ。だが、どれも外れてはいない。
若様は、ようやく低く言われた。
「……身に余ることです」
礼ではない。否定でもない。ただ、それ以上どこへも踏み込ませぬための言い方であった。
也速哥様は笑われもしなかった。若様の顔を少し見て、それから器の下がってゆく方へ視線を移された。
「ご苦労が絶えぬのも、
才があるゆえだろう」
その声音は、まことに穏やかであった。穏やかであるぶんだけ、私は腹の底が冷えた。
才がある。だから使われる。使われた先で、場はきれいに収まる。収まった場は、次にはそのまま力として読まれる。あの方の言葉は、そういう順を、慰めの顔でひとつに束ねてしまう。
若様は何も返されなかった。
返せぬのである。見透かされたと思うのも癪であろう。労いとして受け取るのも嫌であろう。だが、全て違うと切って捨てるだけの根拠も、もう胸のうちには残っておらぬ。
也速哥様はそれ以上は言われなかった。少しだけ会釈を残し、片づきかけた灯のあいだを、何でもない顔で去ってゆかれた。
私は、その背を見送りながら、やはりこの人は嫌だと思った。人を責め立てぬ。傷つけたとも見せぬ。ただ、本人がまだ言葉にしておらぬ苦い勘定だけを、先に帳面へ入れてしまう。
3.
也速哥様が去ったあとも、若様はしばらく動かれなかった。
風が一つ、幕の端を鳴らした。遠くで笑いが起き、こちらでは器の当たる小さな音がした。それだけである。
天下の秩序が決まり、諸家の重みが按分され、次の戦の紙まで動き始めている夜に、耳へ入るのはそんな音ばかりであった。
やがて若様は、ほとんど独り言のように言われた。
「……巻き込まれただけでは、
なかったのだろうな」
私は返事をしなかった。そういうとき、こちらが口を出せば、若様はすぐ理屈へ逃げられる。いま要るのは、逃げ場でなく、自分の中の嫌な勘定が固まるまでの間だけであろう。
若様は火の届かぬ方を見たまま、低く続けられた。
「按分も、贈答も、奥向きの見せ方も……」
そこで少し言葉を切り、また続ける。
「守るつもりでやった」
その通りである。若様はいつでも、損耗を減らすつもりで手を入れる。場が裂けぬように、家が痩せぬように、誰かの大きさがそのまま破れにならぬように。そういうつもりで、紙も人も動かしてこられた。
だが、守るために整えた手つきは、別のところから見れば、その家をより政治的に重く、より使いやすいものとして見せる手つきにもなる。
若様はいま、ようやくそこへご自身で触れたのであろう。
監国の家として、トルイ家はあまりに見事に収まった。その見事さのなかへ、若様の手もまた、確かに入っていた。
被害者でいられぬ、と私は思った。
李家でも、燕京でも、若様は当たるほど居場所が狭くなった。北狄の犬と呼ばれ、家へ戻ればやりすぎと冷やされ、それでもなお、損を減らす方へ手を出さずにおれなかった。
今夜の苦さは、それに似ていた。ただ今度は、外から押しつけられた立場だけではない。ご自身の正しさそのものが、あの家を一層重く見せる力にもなったのだと、ようやく腹へ落ちたのである。
若様はそこまで行って、なおトルイ家を悪く言われなかった。それが、いちばん苦いところであった。
4.
片づけはほぼ終わっていた。贈答の箱は積み直され、器は引かれ、灯は少しずつ遠くなる。白い静けさのなかで、トルイ家の幕だけが、まだ人の気配を残していた。
若様は、その方を見ておられた。
根が切れているのだ、と私は思った。中華へも、草原へも、もうまっすぐには帰れぬ。李家へ素直に戻れる若旦那でもない。燕京で禄を食むだけの若い書記でもない。
ただ一つ、深く惹かれた家があった。
だがその家もまた、理想郷ではなかった。殿の大きさだけで立つのではなく、奥向きが縫い、諸家との恩と警戒のあいだで使われ、帝国の秩序のなかへ重く組み込まれてゆく家である。
若様は、それを見てしまった。
見てしまったのに、目を逸らされなかった。
「離れた方がよいのかもしれぬな」
ふいに、そう言われた。私へ向けた声ではない。ご自分の胸へ置いてみただけの仮の言葉である。
だが、そのあとが続かなかった。
離れたい、とまでは言えぬのである。限界が見えたから離れられるなら、もっと話は安かったであろう。限界まで見たうえで、なおあの家の側へ立ちたい。それが若様の胸へ、もう言い逃れの利かぬ形で残ってしまっていた。
私はその横顔を見ていた。達成の顔ではない。祝賀の熱の残りでもない。どこにもまっすぐ帰れぬと知った者の顔であった。
それでも視線だけは、あの家の灯の方へ向いていた。
人というものは、理で見切れぬものにいちばん深く捕まるのかもしれぬ。
若様はこの夜、トルイ家の限界を知った。自分の手が、その家を支えるだけでなく、政治の上で重く見せる方へも働いていたと知った。
巻き込まれたのではなく、当事者の一部でもあったと悟った。
それでもなお、先に数えるのは、あの家の傷みの方であった。
祝いのあとの白い静けさのなかで、若様はただ立っておられた。どこへも帰れぬまま、それでもなお、あの家の側へ傾いたままで。




