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家譜 ~中書省員外郎 李成安の生涯  作者: 早瀬 構
第四部

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第37話

1.


 一二二九年六月。草原の風はもう春の硬さを抜き、幕の継ぎ目へ入っても、前ほど骨へは残らなくなっていた。


 だが、空気だけは軽くなかった。


 クリルタイが近い、と、誰も口にはせぬ。口にせずとも、幕舎の内にも、燕京から届く指図にも、もうその前触れが満ちていたからである。


 次のカンは誰か、などという話ではない。そこはもう、半ば済んだ顔で皆が動いている。


 問題は、その座へ誰をどう見せるかであった。


 妃衆の並び、子らの置き方、どの幕からどの顔を出し、どこへ礼を返し、誰を先に立てるか。進物も衣も、もう単なる贈答ではない。見せ方そのものが、次の秩序の縫い目になっていた。


 若様――成安は、その縫い目の方を見ておられた。私はその脇で、布を運び、寸法を取り、燕京へ回す指図を整えた。


 仕事としては、まことによく出来ていた。


 誰にも露骨な不満を抱かせず、しかも座の重みだけは崩さぬ。ドレゲネ様は妃衆の中心へ、あまりに自然な顔で収まり、ソルコクタニ様はその脇へ、少しも退いたようには見えぬまま入られた。


 先に立つ者の格は高く見え、脇へ入る者の値も落ちぬ。しかも、それを見ている周りまで、最初からそう決まっていたことのような顔になってゆく。


 私はその出来を見て、まず息を吐いた。


 これなら、角は立たぬ、と。


 だが、その息は長く続かなかった。


 こういう整い方は、見える者には見える。


 自然に収まったのではない。誰かが、家の外も内も、衣も順も距離も、まとめて整えてみせたのだと。


 しかも一つひとつは小さい。帯の色、覆いの重ね、誰が半歩前へ出て、誰がそこで止まるか。騒ぎ立てるほどのことではない。だが、騒ぎにならぬまま全部が噛み合うと、それはもう偶然には見えなくなる。


 私は布の端を揃えながら、胸のあたりが少しずつ冷えていくのを感じていた。


2.


 殿――トルイ様ご本人が、前へ出て何かをねじ伏せられたわけではない。


 むしろ逆である。あの方は相変わらず、肉が来れば場へ流し、進物が来れば抱えず、人の顔を見て笑っておられた。それだけ見れば、野心の顔など少しもない。


 だが家は、別のところで動いていた。


 奥向きで衣が決まり、先に立つべき者が先に立ち、脇へ入る者は脇へ入る。その順が乱れぬまま、全体が一つの景色として出来てしまう。


 そして出来た景色は、オゴデイ様の即位にまことにふさわしかった。


 だからこそ、まずかったのである。


 オゴデイ様の座を立てるために整えたはずの景色が、そのまま「ここまで整えられる家が脇にいる」と天下へ見せることになる。


 私は布の端を揃えながら、腹の底が少しずつ冷えていった。


 前にも見たことがある。若様の才が当たるほど、家の中での重みが勝手に読み替えられてゆくあの感じである。


 福海大人の、あの苦い顔がふと胸へ戻った。長男様は家を保たせ、若様は破れを見つける。そう言い切ったときの、あの乾いた声である。


 同じ卓へ二つの才を並べれば、卓は軋む。


 今度はもっと大きい卓で、同じことが起きていた。


 しかも今回は、一人の才ではない。家が家として、表も裏も使って、場そのものを収めてしまっている。


 殿の大きさだけではない。ソルコクタニ様の縫い目も、ドレゲネ様の受け方も、燕京の仕立ても、全部が一つの働きとして見えてしまう。


 受けた方も、ただ受けて終わるわけではない。誰が自分をどう立て、どこで引き、どのように脇へ入れたか、その順を覚える。忘れぬ者が上へ残るのは、草原でも燕京でも同じである。


 それは、うまく行くほど怖い仕事であった。


 殿は何も奪っておられぬ。家も露骨に何かを求めてはおらぬ。なのに、周りの方が先に、この家へ別の重みを足してゆく。


 私はそのとき、若様が前にぽつりと洩らされた言葉を思い出していた。殿ではなく、周りがうさん臭い、と。あれは悪口ではなかったのである。


 人は大きいものを見ると、そこへ勝手に次の願いを重ねる。その重ね方の方が怖い、という意味であったのだろう。


3.


 若様もまた、その怖さをもう見ておられた。


 仕事が一段落したあと、火のそばで、しばらく何も言われなかった。私は黙って湯を置いた。こういうとき、若様に要るのは慰めではない。言葉にならぬざらつきの置き場だけである。


 やがて若様は、低く言われた。


「上出来すぎたな」


 私は返事をしなかった。


 上出来であることは、私にも分かっていた。女たちの顔は柔らかく、礼は軽すぎず重すぎず、誰も損をした顔をしていない。


 それでも、腹の底では皆がもう次を量っている。


 ドレゲネ様は、この整いを恩として受け取られたであろう。だが、恩は受ければ終わるものではない。誰の手で整ったかまで、きちんと覚えておられるはずだ。


 ソルコクタニ様もまた同じである。ご自分が脇へ収まることで全体の格が上がると知ったうえで、静かにそこへ入られた。譲ったのではない。次の場で損をせぬ位置へ、ご自身を置かれたのである。


 あの方は、殿の大きさを削がず、そのまま家として持たせる。今回もまた、それをなさっただけなのだろう。だが、持たせる手つきがこれほどきれいに見えてしまえば、それ自体が力になる。


 女たちの笑みは柔らかかった。


 だが私は、その柔らかさの裏に、もうクリルタイのあとが見えている気がしてならなかった。


 若様は杯を持ったまま、火を見ておられた。


「理を通したいだけなら、

  燕京で足りた」


 ぽつりと、そう言う。


「だが家の中は……違う」


 そこで言葉が切れた。


 違う、で足りる話ではなかったのであろう。家の中で理が息をするには、衣も順も、誰が先に笑い、誰が一歩退いて見せるかまで要る。


 帳面の上なら、正しい筋は一つで済む。だが家の中では、一つの正しさをそのまま置けば、人が痩せる。誰かの面子を削り、誰かの立つ場所を奪い、そこで初めて理の値段が見えてしまう。


 だから若様は、人を立て、角を立てず、ただ損を減らすつもりで手を入れたのである。だが、角を立てずに全体を整えられる家は、それだけで帝国の重みになる。


 若様の仕事は、もう帳面の外へ出ていた。


 しかも悪いのは、こちらにその気がないことだった。その気がないのに見えてしまう。奪う気もないのに、支えうる家に見えてしまう。そういう景色ほど、後で人の胸へ残る。


4.


 その夜、私は一人で幕舎の外へ出た。


 風は弱く、遠くで馬が鼻を鳴らしていた。どこかの幕ではまだ笑い声が残っている。穏やかな夜である。だが、穏やかな夜ほど、後で思えば怖いことが多い。


 私は昼の座を思い返した。


 誰が先に立ち、誰がその脇へ入り、誰が礼を返し、誰がそれを当たり前の顔で受けたか。その一つひとつは、騒ぎにするほどのことではない。だが、騒がずに済むことの方が、後でよほど大きく効く。


 家を守るために整えたはずの衣と配置が、結果として「この家はここまで回せる」と見せてしまう。


 私はようやく、その意味を骨で知った。


 若様がこの家の内側へ一歩入ったのではない。


 私どもはただ、座を乱さぬよう手を入れただけだ。だが、そうして出来た景色の向こうで、帝国にとっての重みとして立ち上がるのは、我らではなくトルイ家の方であった。


 役に立った、で済むなら安かった。


 だが実際には、役に立つたびに、あの家の政治的な値まで上がってゆく。しかも、その値は殿お一人の大きさだけではない。奥向きまで含めて家として回る、その手の長さに付く。


 私はふと、若様のことを思った。


 あの方は昔から、正しいことを正しい順で言ってしまう。今も本質は変わらぬ。ただ少し、表と裏を分けて通すことを覚えただけである。


 私はこれまで、その進歩をよいことだと思っていた。実際、よかったのである。


 燕京で理だけを振り回していた頃より、若様の手は遠くへ届くようになった。届く相手も増えた。奥向きへも、幕舎の外へも、前よりずっと安く入れるようになった。


 だが、分けて通せるようになったからこそ、今度はその通し方自体が家の署名になる。


 働きがよく見えれば、その働きを持つ家もまた見える。人が一人で有能なのではない。表も裏も使い、遠くの燕京まで繋ぎ、誰を立て誰を脇へ置くかまで揃えられる家なのだと、そう見えてしまう。


 人は進歩すると、別の面倒を背負うものらしい。


 私は幕へ戻りながら、胸の内で小さく息を吐いた。


 見えた瞬間、それは政治になる。


 若様はまだ、その重みを言葉にはしきれぬであろう。だが私は知った。この六月、我らはただ座を整えたのではない。整えることで、あの家の重さを、天下へ半歩だけ見せてしまったのである。

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