第35話
1.
一二二九年三月。草原へ向かう道の乾き方は、燕京の春よりも少し骨に近い。風は軽く見えて、頬へ当たると細かく痛む。
若様――成安は、荷車の幌を自分で確かめてから、また結び目を見直した。見直したところで中身が変わるわけでもない。だがこの人は、いったん勘定へ入れたものほど、最後にもう一度だけ指で確かめねば気が済まぬ。
今回の荷は、前のときより厄介であった。
塩、細工物、燕京風の衣、髪留め、宝剣、それに書の包み。ひとつひとつは土産である。だが若様の胸の内では、たぶんもう土産ではない。
誰へ何を渡すか。
その順ひとつで、こちらが相手をどう見ているかまで透けるからである。
モンケ様には宝剣と髪留め、それに塩を厚くした。フレグ様には、燕京で今流行りの衣と飾り。
クビライ様へは、書というより役所の紙束に近いものばかりである。制度、戸口、倉、運送、記録法。読んで胸の昂る類ではなく、使えば手が汚れる類の本であった。
若様はそれを「役に立つもの」と言った。たしかにそうであろう。だが役に立つものほど、渡した者の腹の内まで透ける。思想を避け、夢を避け、実務へ寄せた。その置き方まで、見ようとする相手なら見える。
私は荷の脇で手綱を直しながら、若様の横顔を見た。
前より少し静かで、前より少し欲が深い。
認められたいのではない。ただ、自分の手が届く相手へ、届く形のものを置きたいのである。そういう欲は、出世欲よりよほど始末が悪い。
草原の風は乾いていた。だが幌の内には、塩の包みと紙の匂いが、妙に重く残っていた。
2.
トルイ家の幕舎へ着くと、迎えの顔は前より近かった。前に一度通した者の手は、二度目には少し早い。こういう速さもまた、家へ入るということのうちである。
荷が下ろされ、包みが並べられると、まず先に声を上げたのはモンケ様であった。
「これは余へか」
声にためらいがない。宝剣の柄へ手が伸びるのも早い。鞘を少し抜き、光を見て、また戻す。その動きがもう嬉しい。しかも、ただ浮かれて騒ぐのではない。ひとしきり刃の具合を見たあとで、絹の髪留めを摘み上げ、
「剣の次にこれを出すのが、
おまえらしいな」
と笑われた。
若様は一礼しただけである。気の利いた言葉を返す方ではない。
だがモンケ様は、それで気を悪くするような人ではなかった。むしろ、こちらの不器用さごと受け取って、場へ熱を返して下さる。
「燕京では、こういう物も流行るのか」
髪留めを日に透かし、また笑う。その横で塩の包みが開かれると、今度は顔つきが変わった。
「……ずいぶんあるな」
その一言だけ、声が少し低くなった。
剣のときより、かえって本気の目であった。幕舎の内で塩がどう減るか、馬の乳や肉だけでは保たぬときに、これがどう効くか、そのくらいのことはもう腹へ入っているのであろう。
「かたじけない」
今度の礼は、先ほどの笑いより重かった。
私は横で見ながら、なるほど長子だと思った。嬉しさを人の前へ返すのも早いが、家を支える物の重さへ気づくのも早い。若いくせに、その二つが並んでいる。
フレグ様は、また別であった。
燕京風の衣と飾りを前にすると、まず目が素直に動いた。袖を取る。縁の細工を見る。帯へ手を当てる。その一つひとつが、年頃の少年の手つきである。
「これは……」
そこで言葉を切り、少しだけ口角を上げた。
軽くはない。はしゃぎすぎもしない。ただ、気に入ったことは隠しきれぬ顔であった。
しかも、その顔の底に、別の満足が見えた。自分がただの子どもではなく、一人前に見積もられたことへ、ひとまず得心した満足である。
「燕京では、こう着るのか」
袖を肩へ当てながら、そう問われる。
若様が短く答えると、フレグ様はもう一度だけ布の重みを確かめ、今度は少しだけ得意そうに胸を張られた。単なる玩具ではない。似合うかどうかを見られる歳の贈り物だと、ちゃんと分かっておられる。
モンケ様は場を温め、フレグ様は自分の像を受け取る。
兄弟でも、返り方はこうも違うのである。
3.
そこへ、ぬっと割って入ったのが、幼いアリクブケ様であった。
「余には?」
まっすぐで、少し高い声である。
若様の指が、そのときほんの一拍だけ止まった。私は横で、それを見た。
忘れていたのではあるまい。必要がないと思っていたわけでもない。ただ、二人の手応えが先に立ちすぎて、末の一人が勘定の外へ滑っていたのである。
こういうとき、場はすぐ冷える。
幼い子の不満は軽く見える。だが大きい家では、その軽さがそのまま奥向きの皺になる。
私はすぐ、別にしておいた包みを差し出した。
「こちらを」
若様は一瞬こちらを見たが、すぐ包みを受け取り、アリクブケ様へ差し出された。
中身は、韓家へ頼んだあの衣である。派手すぎぬが薄くない。肩へ少し余る寸法で、襟だけは甘くならぬよう取ってある。抱かれれば幼い。だが座へ置かれれば、家の子として目に留まる。そういう一揃いであった。
アリクブケ様は、目を丸くし、すぐさま着たがった。人が寄り、袖を通し、襟を直す。
その姿を見て、私は胸の内で一度だけ言い直した。
王子に見える衣だ。
だが、着た本人はそうは受け取っておられなかったらしい。
立ったときの顎の上がり方が、もう違う。歩幅まで急に大きくなる。誰かに見せる顔で、胸を張り、いかにも偉そうに周りを見回す。その得意満面の顔つきは、王子の気分では足りぬ。まるで王の気分でおられた。
「どうだ」
そう言いたげな顔である。
幕舎の内に、ふっと笑いがこぼれた。笑いはしたが、完全に笑い飛ばす顔でもなかった。衣がちゃんと役を果たしているからであろう。幼い末の子が、ただ可愛らしいだけでは済まぬ座の重みを帯びて見えたのである。
若様は、そこでようやく肩の力を抜かれた。
ああ、収まった、と、その顔に書いてあった。
その程度でよいのである。もともと勘定に入れていなかった相手の不満が消え、本人も機嫌よく胸を張っている。若様の目には、それで充分だったのだろう。
私はそれ以上、何も言わなかった。
大きい家は、主と長子と利口な次子だけで出来ているのではない。幼い子の不満も、得意顔も、奥向きの手も、その全部で空気が決まる。若様は今しがた、それをひとつ覚えた。だが、まだ全部ではない。
覚えかけたときの若さというものは、見ていて少し危うく、少し面白い。
4.
その夜、幕舎の外れを通りかかった折である。灯りの漏れる小さな幕が一つあった。
中におられたのは、クビライ様であった。
昼の席では、あの方だけが別に何も言われなかった。包みを受け取り、礼もなく無礼もなく、ただ静かに脇へ置かれただけである。若様も、そのときは何も読み取れぬ顔で引き下がった。
だが今、灯りの下で開かれていたのは、その包みの中身であった。
制度、倉、戸口、運送、記録法。あの役所めいた紙束が、床几の上へ何冊も重ねられている。クビライ様は膝を崩さず、その前へ座っておられた。
背中だけが見えた。
十四歳の背である。まだ細い。だが頁を繰る手が止まらぬ。同じところへ指を置き、次の冊子へ移り、また戻る。その動きに、飽きも、浮つきもない。ただ、読んでおられた。
好いたのか、面白かったのか、腹を立てたのか。
そういうことは、背中からは分からぬ。
ただ、読んでおられた。
私はしばらく幕の影で立ち、やがてそっと離れた。若様へ告げるべきかとも思ったが、言わぬことにした。言えば、きっとあの方の胸は軽くなる。軽くなれば、その軽さのぶんだけ、別のものが見えなくなる。
実際、この日の若様は少し軽くなっておられた。
モンケ様は遠慮なく喜び、フレグ様は素直に満足し、アリクブケ様も得意顔で収まった。
誰へ何を渡すか、その見立てが大きくは外れなかったのである。人へ物を渡し、その反応を見て、次の手を考える。そういう仕事が、ここではちゃんと返ってくる。
燕京では、正しい紙ほど人を減らした。
ここでは、役に立つ形へ変えたものが、そのまま人の顔へ返る。
それだけで若様の胸は、少し軽くなったのであろう。
だが、そういう軽さは甘い。
李家でも、政庁でも、あまり味わえなかった種類の甘さである。
自分の手が届き、しかも相手がただ受け取るのでなく、使える形で返してくれる。その手応えは、人を家へ近づける。近づくほど、ただの見物人では済まなくなる。
幕の外では、草原の夜風が布を鳴らしていた。
私は火の消えかけた匂いを吸い込みながら、静かに思った。
今夜の若様は、少しだけ軽い。
軽くなったぶんだけ、あとで傷む。




