第34話
1.
一二二九年三月。燕京の風はまだ乾いていたが、政庁の紙束とは別のところで、もう一つの支度が静かに動き始めていた。
草原から戻ってきた私――ヨハンナンは、韓家と手を組み、次に若様が草原へ赴く折に持参する布と衣と贈答の一式を整えていた。
名目だけ言えば、旅支度である。だが実際は、そんな可愛らしいものではない。誰に何を渡すかではなく、誰をどう見せるか、誰の手へ何を残すか、その順を縫う仕事であった。
政庁では、帳面の上で家が痩せる。こちらでは、衣一つで家の近しさが増えも減りもする。
私はその違いを、草原で嫌というほど見てきた。
韓家の土間には、春先の布がいくつも積まれていた。薄絹、裏地、縁取り用の細布、帯に向くもの、覆いに回せるもの。女中どもがそれを運び、畳み、仮に重ね、また別の山へ移す。
その流れの中で、韓家の娘――韓玉蓮だけが、やけに静かであった。
派手に指図はなさらぬ。声も高くない。だが布の置き場が乱れかけると、先に空いた台を作る。疲れた女中が出れば、いちばん軽い仕事へ回す。口の悪い古参には、機嫌を損ねぬ短い言葉だけを置いて、場の手を止めさせぬ。
私はしばらく、その娘を見ていた。
ああ、こういう人は家を痩せさせぬ、とすぐ分かった。
若様に言おうとは思わなかった。若い男はそういう予告を受けると、まだ起きてもいない安堵を胸へ入れてしまう。軽くなるのだ。軽くなれば、見えていた綻びまで見えなくなる。
それでは困る。
だから私は何も言わず、ただ韓家の手つきを横で見ていた。
2.
若様――成安は、そのあいだ別室で土産の仕分けを進めておられた。
書肆を回って選んだ実務書の束、燕京で流行りの衣の見本、塩の包み、細工物、帯留め、燕京仕込みの飾り。私は途中で何度か覗いたが、その選びようは相変わらず偏っていた。
モンケ様には、絹の髪留めと宝剣、それに大量の塩。
クビライ様には、制度、倉、戸口、運送、そういう類の本ばかり。
フレグ様には、燕京でいま流行りの服と装飾品。
妙といえば妙である。だが、よく見ればよく当たっている。年頃だけを見てもおられぬ。役目だけでもない。その二つが、若様の中ではもう分かたれずに並んでいるのであろう。
私は荷の脇へ立ち、しばらくその手つきを見ていた。
若いくせに、人を役目と年頃で分け始めている。
それ自体は、感心すべきことかもしれぬ。だが同時に、まだ一人、視界の外へ落ちている者があった。
アリクブケ様である。
誰でも最初は、よく働く者と、利口な者から先に見る。
だが大きい家は、それだけでは保たぬ。幕舎の隅で物を欲しがる子、奥向きで場を縫う女たち、誰が何を言わずに受け取り、誰が受け取れずに座を冷やすか。そういうところで、家の空気は先に決まる。
若様はまだ、そこまで見ておられぬ。
だが見えぬまま踏み込もうとしておられるから、危うくもあり、見ているこちらには少し面白い。
私は口を挟まず、韓家の方へ戻った。戻って、布の山の前で韓玉蓮へ低く言った。
「末の子へ回す一揃えを、別に頼みたい」
娘はすぐには問い返さなかった。まず私の顔を見、それから周りの手が止まっていないのを確かめて、ようやく短く問うた。
「玩具ではなく、衣でございますか」
「ええ」
私はうなずいた。
「まだ子どもだが、子どもにだけ見えては困る。肩と襟の置き方ひとつで、この家の末の子ではなく、王子に見えるようなものを」
韓玉蓮は笑いもせず、驚きもせず、ただ布の端を指で揃えた。
「それなら、少しだけ大きめに取ります」
「なぜ」
「すぐ育ちます。
それに、少し余る方が、
子どもでも『預けられている衣』に
見えます」
私はその返しに、内心ひそかに舌を巻いた。
なるほど、話が早い。
3.
その日の夕刻、若様はようやく一通りの仕分けを終えられた。
私は荷を見回すふりで、わざと末の一包みだけを別にして置いた。若様はすぐ気づかれた。
「それは何だ」
「韓家へ頼みました」
「頼んだ?」
「末の子へございます」
若様は少しだけ眉を寄せられた。忘れておられたのではない。おそらく、後回しにしておられたのである。必要がないと思っていたわけでもあるまい。ただ、三兄弟の手応えが強すぎて、その外へ指が伸びなかったのだ。
「玩具か」
「いいえ」
私は包みの上へ手を置いた。
「衣でございます」
若様は一瞬、何も言われなかった。その沈黙で、私はだいたい分かった。理屈はもう、半分は通っている。
「末の子に衣を渡して、どうする」
「どうもいたしません」
私は低く答えた。
「ただ、ああいう大きい家では、言葉を持たぬ子ほど、どう見えるかで隅へ押しやられます。抱かれる前に、座の重みを決められる」
若様は火のそばへ視線を落とされた。反駁の前の顔ではない。胸の内で、誰の顔へその言葉が当たるか見ておられる顔であった。
「……王侯らしく見せるのか」
「少なくとも、
雑に扱ってよい末子には見えぬように」
若様は、そこで小さく息を吐かれた。呆れか、感心か、そのどちらともつかぬ息であった。
「お前は、そういうところを見る」
「役得でございます」
私は肩をすくめた。
若様はなおしばらく黙っておられたが、やがて包みへ目を戻し、短く言われた。
「……よい」
それだけで済んだ。褒めもせず、深くは訊かぬ。だが退けもなさらなかった。
私は内心、少しだけ可笑しかった。後から思えば、あれはまことに妙な話である。自分を大きく見せる夢を抱く子がいるとして、その芽へ、こちらはただ家の空気を整えるつもりで、王侯らしい衣を一つ足したのだから。
もちろん、そのときの私は、そんな先までは考えていない。
ただ、大きい家は末の子まで家の輪郭へ入れておかねば、どこかで空気が歪むと知っていただけだ。
4.
夜には、韓家から仮縫いの見立てが届いた。
派手すぎぬが、薄くもない。子どもの肩にまだ少し余る寸法で、襟だけは甘くならぬよう取ってある。抱かれれば幼い。だが座へ置かれれば、家の子として目に留まる。そういう衣であった。
若様は包みを開き、黙ってそれを見ておられた。私は横で火の具合を見た。声を掛けるほどのことではない。こういうとき、若様は物そのものより、その先で何が変わるかを見ておられる。
「政庁の帳面とは別の政治だな」
ふいに、若様が言われた。
「ええ」
「衣一つで、近しさが変わる」
「変わります」
若様は布の端を指で押さえ、それから手を離された。
「家へ入るというのは、
主と長子と利口な次子だけを見れば
足りる話ではないのだな」
私は答えなかった。答えずとも、もう若様は半分ご存じだったからである。
草原の家は大きい。大きい家ほど、表で決まることより、何でもない顔で受け取られた物の方が後まで残る。殿のおおらかさ、お妃様の縫い目、奥向きの手順。そのどれもが、家を削りも保ちもする。
若様はまだ、すべてをご存じではない。
だが知らぬままでも、そこへ手を伸ばそうとしておられる。思想でなく、形で。大義でなく、使えるものの順で。
私はその若さを、止める気にはなれなかった。止めてもどうせ、別のところから手を伸ばされる方だからである。
ならば必要なところだけ、こちらで少し補うほかない。
私は包みを結び直し、末の子の衣をいちばん崩れぬ位置へ置いた。若様はもう何も言われなかった。ただ荷の並びを見て、どれが誰の前へ出るか、その順だけを目で量っておられた。
火の上で湯が小さく鳴った。
私はその音を聞きながら、ああ、この方はまた一つ、家の広さへ手を掛けてしまったのだ、と思った。
善意と実務だけで渡り切れるほど、トルイ家は小さくない。だが、善意と実務の両方を持ったまま踏み込む若い男というのは、見ているぶんにはなかなか面白い。
だから私は、この夜も余計なことは言わなかった。
必要なところだけを、手で補った。そうして若様の若さを、ほんの少しだけ先へ延ばしてやることにした。




