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家譜 ~中書省員外郎 李成安の生涯  作者: 早瀬 構
第四部

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第33話

1.


 一二二九年二月。燕京の風はまだ冷たかったが、政庁の紙束はもう冬の言い訳を使わなくなっていた。


 人が減る。戸口が痩せる。倉は空き、替え馬は薄くなる。そういうことが、もう珍しくもない顔で帳面へ書かれ始めると、若様――成安は、かえって執務の外で口数が減った。


 仕事が終わると、若様はときおり、城門近くの書肆を回るようになった。名目は、草原へまた赴く折の土産選びである。


 私は最初、そのまま受け取った。


 だが二軒目で気づいた。あれは土産選びではない。若様は何を買うかより、何を持って行ってはならぬかを量っておられるのである。


 最初の店で、主人は笑って『論語』を出した。若い王子なら、まず筋の通ったものを、と言う。若様は見もせずに首を振った。


 次の店では、『史記』が出た。人物を知るによい、帝王の先例を学ぶにも悪くない、と。


 若様は、その巻の端へ一度だけ指を置いたが、すぐに離した。


「それも、要りません」


 主人は怪訝そうに眉を動かした。


「では、何をお探しで」


「役に立つものを」


 若様は短くそう言った。


 だが、その言い方がもう普通の贈答ではなかった。相手を喜ばせるためではない。相手の先へ、どこまで自分の手を差し入れてよいかを量る声であった。


 私は横で聞きながら、ああ、若様はクビライ様のことを考えておられるのだ、とようやく悟った。


 ほかの子らなら、ここまで若様の指は止まるまい。だが、あの次男君だけは違う。手順を見る目をした少年に、何を渡せばよいか。いや、何を渡したらまずいか。


 若様は、そこばかり見ておられた。


2.


 それからの選びようは、ひどく偏っていた。


 制度、戸口、運送、農政、倉、地理、暦、記録法、実務様式。そういう、読んで胸の昂る類ではない書物ばかり、若様は抜いてゆかれる。


 書肆の主人も、さすがに顔をしかめた。


「旦那、それでは贈り物になりませんぞ」


 若様は答えなかった。ただ別の棚へ手を伸ばし、暦算の本を一冊取り、また戻した。


 主人はなお食い下がった。


「王子様相手なら、せめて史書か名臣譚でしょう。そうでなければ、治道を説くものとか」


「要りません」


「そこまで外すなら」


 主人はとうとう苦笑いした。


「いっそ政庁の記録でも写して、

  持って行かれたらどうです」


 私は思わず主人の顔を見た。半分は嫌味で、半分は本気である。若様の選び方が、もう本の顔をしておらぬからだ。


 若様は、その場で怒りもしなかった。ただ一瞬だけ、指先が止まった。


 図星なのである。


 若様が避けておられるのは、よくない本ではない。相手の頭へ、帝王学や大義や人物の型を入れてしまう本である。では何が残るかといえば、役所で使う形、倉を保たせる形、人と物を回す形ばかりであった。


 主人は冗談のつもりで言ったのであろう。だが若様は、その冗談を胸のどこかへ入れてしまったらしかった。


 店を出たあとも、何も言わなかった。私は黙って後ろを歩いた。こういうときの若様は、たいていもう先を考えている。


 案の定、その二日後である。若様はしかるべき筋へ願いを出し、公開に差し支えぬ実務記録の写しを取る許しを得てしまわれた。


 戸口整理の様式、倉別残数の付け方、宿継ぎの日程控え、運送の基本雛形。軍機でも機密でもない。帝国の政庁が、帝国の紙として持っている記録である。


 理屈の上では、何の不都合もない。


 だが私は、その時点でもう、ろくでもないことになるのが分かった。理屈の上で白いことほど、人の腹の内では黒く見えることがある。


3.


 写本を始めて三日目、書記部屋の空気が変わった。


 若様が何を書き写しているかくらい、同じ部屋にいれば誰の目にも入る。しかも、ただの控えではない。草原へ持って行くための束と知れれば、なおさらである。


 水場で、廊下で、筆洗のそばで、声が落ちた。


「……本当にやるのか」


「北へ持って行く気だぞ」


「漢地で磨いた手を、

  あちらへ売るつもりか」


 若様は聞こえぬ顔で筆を動かしておられた。聞こえておらぬはずがない。あの方は、黙るときほどよく聞いている。


 やがて一人が、面と向かって言った。年かさの書記であった。


「李成安」


 若様は顔を上げた。


「それは、誰のための写しだ」


「許された用途のためです」


「北の王子のためだろう」


 若様は少しも退かなかった。


「帝国の王子です」


 その場が、しんとした。理は通っている。ここはモンゴル帝国の政庁であり、トルイ家もまたその内である。誰にも分かる理であった。


 だが相手は、それで退く顔ではなかった。


「帝国の名を借りて、

  誰の家を肥やすつもりだ」


 若様の手が、そのときわずかに止まった。


 私はふと、通州で福海大人が帳面を閉じたあとの顔を思い出した。あれも、若様が当たっているからこそ冷える顔であった。


 次の言葉は、もっと冷えた。


「……売国奴め」


 私は腹の底が熱くなった。言い返しかけたが、若様の手が先に止まったので、飲み込んだ。


 若様はしばらく黙っておられた。怒った顔ではない。むしろ、よくないときの静かさである。


「国、ですか」


 ぽつりと、そう言った。


「私は帝国の禄を食んでおります」


 相手は鼻で笑った。


「面の皮の話をしているのではない」


 それだけ言って去った。残ったのは、書記部屋の冷えだけであった。


 私は筆を洗うふりで若様の横顔を見た。助かった顔ではない。理が立ったから勝った、という顔でもない。ご自分が正しいことくらい、若様は最初から分かっておられる。


 だが、その正しさがどう見えるかまで、今はもう分かってしまっているのである。


 漢地の紙を、北の血肉へ変える手つき。


 そう見えることを、若様は否定しきれぬのであった。


4.


 その夜、宿舎へ戻ってからも、若様はすぐには包みを作られなかった。写し終えた紙を前にして、火のそばでじっと座っておられた。


 私は横で包み紙を整えた。湯を置き、紐を切り、書付の外題だけを軽く書く。若様はそのあいだ、一度もこちらを見なかった。


 やがて、低く言われた。


「『論語』は論外だ」


 私は黙っていた。


「『史記』も危うい」


 若様は火を見たまま続けられた。


「思想を渡すのではない。

  型を渡すのでもない。


  そんなことをすれば、

  私が何を仕込む気かまで、

  向こうへ持ち込むことになる」


 そこまで言ってから、少しだけ息を切られた。


「だが、何も渡さぬのも違う」


 私はそこで初めて顔を上げた。若様は、紙の束へ目を落としておられた。


「役に立つものを渡したい」


 その声音は、ほとんど独り言であった。


「思想ではなく、形で」


 私は返事をしなかった。返せば、余計なことになる気がしたのである。


 若様はこの頃、正しい帳面が人を減らすことに冷えておられた。なのに今は、その正しさの一部を、自ら草原へ運ぼうとしている。


 おかしな話である。いや、おかしくはないのかもしれぬ。若様は、もうあの家の未来に手を入れたいのであろう。露骨な大義ではなく、倉と戸口と運びの形で。


 帝王の型ではなく、まず使える形を渡す。若様は、その順を選ばれたのである。国でもなく、家でもなく、まだその中間に立ったまま。


 若様はやがて、ようやく紙の束へ手を伸ばした。包み紙を引き寄せ、私の整えた紐の上へ置く。その手つきは静かで、迷いがないくせに、どこか少し後ろ暗かった。


 私はその横顔を見ながら、思った。


 この人は、まだ「仕えたい」とは言わぬであろう。


 だが、役に立つものをあの家へ揃えたい、その欲だけはもう隠せぬ。正しいかどうかより先に、手がそちらへ伸びる。そういうところまで、とうとう来てしまったのである。


 火の上で、湯が小さく鳴った。


 私は包みの端を押さえながら、ああ、書を選ぶという静かな行いまで、若様には政治になってしまうのだ、と思った。

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