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家譜 ~中書省員外郎 李成安の生涯  作者: 早瀬 構
第四部

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第32話

1.


 一二二九年一月。年が改まったからといって、兵站の紙束が軽くなるわけではなかった。


 むしろ逆である。机へ積まれる書付は、実報よりも言い逃れの方が厚くなった。


 徴発を命じれば戸口が減る。減った戸口を埋めるために別の村へ手を伸ばせば、そこが先に逃散する。


 段取りを急がせれば隠匿が増え、猶予を与えれば横流しが増える。馬を先に押さえれば人足が散り、人足を先に繋げば替え馬が痩せる。


 どの案も、帳面の上ではよく出来ていた。草はどこで集め、荷はどこで継ぎ、足りぬ分はどの倉から回すか、筋だけを見れば、いかにも通りがよい。


 だが若様――成安は、もうその通りのよさを褒める目をしておられなかった。


 紙の端を指で押さえ、里正どもの文面を見、届く報せの遅速を量り、どこが先に壊れ始めているかばかり嗅いでおられる。


「ここは、もう持たぬ」


 ぽつりと、そう言われる。


 私は横で控えを取っていたが、その声の低さで、だいたい分かった。若様が持たぬと言うところは、たいてい後で本当に持たぬ。


 この頃の若様は、帳面の余白まで見ていた。


 誰それ何戸、とある。何石不足、とある。何頭見込み薄、とある。だがその一つひとつの向こうには、消えた人間がおるはずであった。


 夜のうちに逃げた男手。戸口を隠した老女。倉の裏から少しずつ穀を抜いた者。皆、次の帳では、ただ不足分とだけ書き換わる。


 若様はそれが堪えたらしい。


「余白ではない」


 あるとき、書付の端を見たまま、低く言われた。


「そこには名も顔もあったはずだ」


 情に流される人ではない。むしろ逆である。情をそのままにはせず、勘定や制度へ変えようとする方だ。


 だが、その若様でさえ、紙の上では足りぬ数へ落ちてゆく人の方を見てしまうのである。見てしまうくせに、なお自分は、その帳面を整える側にいる。


 正しい計算をすればするほど、人は減り、帳面だけが整う。若様の顔つきは、この頃そういう苦さで固まっていた。


2.


 周りの書記どもは、あまり気にした顔をしなかった。


「戦はそういうものだ」


 古参の一人が肩をすくめた。


「どこかが痩せねば、どこかは動かぬ」


 別の者は、もっと露骨であった。


「若いのは、いちいち顔を

  思い浮かべるから面倒ですな」


 その言い方に、私は腹が立った。顔が消えたあと、それを不足分とだけ書く手つきの方が、よほど面倒であろうに。


 だが若様は、何も言い返されなかった。返せぬのである。紙の上だけなら、向こうの言うこともまた正しいからだ。


 消えた人足の分をどこで埋めるか。逃げた戸口の穴をどの村へ付け替えるか。いま残っている者をどこまでならまだ潰さずに使えるか。


 若様は、それを考えぬわけにはいかなかった。


 考えれば考えるほど、筋は立つ。筋が立つほど、若様は北に都合のよい若造に見える。漢地の痛みをよく知るがゆえに、なお上手に搾る者に見える。


 この頃の若様は、誰に疎まれているかくらい、もう分かっておられた。それでも紙を置けぬのは、置いたところで損耗が止まるわけではないからである。


 雑な帳面は、ただ余計に人を減らすだけだ。ならばせめて、無駄な減りだけでも止めるほかない。


 そういう苦い正しさで、若様は働いておられた。


 その折である。晋卿様――耶律楚材殿のもとへ呼ばれた。


 部屋へ入ると、晋卿様はすでに別の役人どもと話しておられた。高官らしい威儀はある。だが威儀だけで立っている人ではない。


 上にはなおモンゴル貴族がいて、横には西域上がりの行政官らがいる。そのあいだで、この広い漢地を、草原の勢いだけで焼き切らぬよう、どうにか理屈を噛ませている。そういう人に見えた。


 その席にいた西域の行政官が、帳面を一瞥して言った。


「東のやり方はぬるいですな。

  戸で税を取るからそうなる。

  頭で税を取られたらいかがか」


 ひどいことを、ひどいとも思わずに口へ出す声音であった。脅しでもない。冗談でもない。ただ、そうすれば取りこぼしが減るだろう、というだけの理屈である。


 晋卿様はすぐには返されなかった。その沈黙のうちに、上から降りる無茶と、横から来る乾いた合理と、下で減ってゆく戸口とが、一つに重なって見えた。


3.


 やがて晋卿様は、静かに言われた。


「それでは、地が荒れる」


 声は強くない。だが、そこに線を引く人の言い方であった。


「荒れてなお取れればよろしいのでは」


 西域の男は肩をすくめた。


「取れるうちに取る。

  帝国とは、そういうものです」


 私は横で息を詰めた。こういう手合いは、こちらが人の顔を思えば思うほど、勘定の方を軽くする。


 だが若様は、その男より、晋卿様の方を見ておられた。この人は高い人だ、ではない。この人もしんどいのだ、と、そういう顔であった。


「戸を見よ」


 晋卿様は若様へ向き直られた。


「人の残る形で取れねば、

  次にはもう取れぬ」


 若様は深く頭を下げた。だが、ただ教えを賜った弟子の顔ではなかった。


 十九にもならぬうちから、北に都合のよい若造だの、売国奴だの、そういう目で見られ始めている若様である。その若様が、もっと長く、もっと大きな規模で、同じ誤解と悪評を受け続けてきた先達を見たのだ。


 だから、見ていてつらかったのである。


 その日の帰り、若様は珍しく自分から屋台へ寄ると言われた。私はまた羊串かと思ったが、案の定であった。


 炭火の前へ腰を下ろすと、そこへ四十前の男がやって来た。前にも見た、あの紙墨商のふうをした男である。衣は上等でないが、汚くもない。場に溶ける手つきだけが妙にこなれていた。


 男は何でもない顔で串を受け取り、食いながら自分の肩を揉んだ。凝っているのであろう。そうしているうち、羊脂がぽたりと袖へ落ちた。


「おや」


 男はほんの少しだけうろたえ、袖を摘んだ。高官の顔ではなかった。ただ、くたびれた四十前の男の顔であった。


 その瞬間、若様の手が先に動いた。


 言葉より先であった。男の後ろへ半歩寄り、その肩へ手を当て、ひとつ押した。


 男が振り返った。若様も、やってから気づいたらしい。


「……何をする」


「凝っておいでです」


 若様は真顔でそう言って、今度は両の親指で肩の付け根を押し込んだ。


「そういうことではない」


「そういうことです」


 若様は引かなかった。私は横で、危うく吹き出しそうになった。若様はこういうとき、気遣いをうまく言葉に出来ぬ。だから手が先に出る。しかも、見とがめられてもやめぬ。まことに不器用な方だ。


 男――晋卿様は一瞬きょとんとされたあと、肩を回し、少しだけ口元を緩められた。


「お前は、そういうところがあるな」


 それだけ言って、また串へ戻られた。若様も、そこでようやく手を離された。


4.


 屋台を出たあと、若様はしばらく何も言われなかった。外気は冷たく、燕京の冬はまだ骨へ残った。


 やがて、若様が低く言われた。


「晋卿様は……」


 そこで一度、言葉を切られた。


「正しいだけでは足りぬと、

  もう知っておられる」


 私は黙って聞いた。


「だが、正しくなければ、

  もっと早く人が減るとも

  知っておられる」


 その声音に、若さのいらだちはもうあまりなかった。代わりに、重い疲れだけがあった。


 若様は今月になってから、何度も同じところへぶつかっておられた。正しい計算をすればするほど、人は減り、帳面だけが整う。その構図に腹が立つ。だが、帳面を崩したところで、人が助かるわけでもない。


 晋卿様は、その袋小路を若様より先に歩いておられるのであろう。


 戸別税を守ると言う。漢地のやり方を通すと言う。だがそれは、きれいな理想ではない。帝国の無茶と、西域の苛烈な勘定と、そのどちらにも押されながら、まだ少しだけましな線を残そうとする防衛戦に見えた。


 若様はなお歩きながら、ぽつりと言われた。


「だから、あの方は……」


 また止まる。


「いや、まだ分からぬ」


 それだけであった。


 分からぬ、と言われたが、半分はもう見えていたのであろう。あの方は神でもなければ、すべてを見通す大政治家でもない。ただ、自分より少し先を歩き、ずっと大きな帳面と、ずっと多くの人の消耗を受けている人である。


 その夜、書記部屋へ戻ると、若様はいつものように紙を広げられた。


 だが前のようにただ朱を入れるだけではない。どの言い方なら通るか。どこまで書き、どこから先は別紙へ回すか。誰の名で言えば、まだ人が減りすぎずに済むか。


 そういう順まで、量っておられた。


 火の上で湯が小さく鳴った。私は筆を洗いながら、妙な心持ちで若様を見ていた。あの方は今夜、晋卿様を高い人としてではなく、疲れた肩を持つ実務者として見たのである。


 その見え方だけは、たぶん後になっても消えぬ。

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