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家譜 ~中書省員外郎 李成安の生涯  作者: 早瀬 構
第三部

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第28話

1.


 一二二八年七月末。夏営地へ移ってからというもの、草原の風は少し乾き、幕舎どうしの距離はかえって人の気配を近くした。


 監国家トルイ様は、亡き大カンの兵馬と家産の重みをそのまま背に負いながら、なお兄君オゴデイ様を立てようとしておられる。理だけ言えば、それは家を割らぬための、まことに正しい運びであった。


 だが草原では、強い者は退いても暗くならぬ。


 むしろ、自ら取れるところを取らず、兄を押し立て、兵馬を休ませ、諸家の顔を立てる。その姿そのものが、貴人どもの目には一つの光として映る。欲が薄いからこそ、かえって大きく見える。


 そういう種類の厄介さが、この地にはある。


 誰も露骨には言わぬ。だが、視線というものは、口より先に寄る。


 トルイ様の幕へ出入りする者が増え、挨拶の順も、贈り物の包み方も、少しずつ丁寧になった。そういう細い変化が、夏のあいだじゅう、塵のように積もっていた。


 そして、その寄り方は、まず子息たちのまわりへ滲み出た。


 とりわけモンケ様のところには、父君の大きさへそのまま寄ってくるような追従が、目に見えぬ形で少しずつ増えていた。


 御前で大仰に媚びるのではない。串を渡す順が早く、羊を追う役にも自分から付き、雑談の折にも先に笑う。誰も咎めぬ薄い寄り方である。


 対して、オゴデイ家の子らは、どうにも座の重みが薄かった。


 長子グユク様もおられる。だが草原の貴人どもは、露骨には言わぬまま、うっすらと軽く見ている。そのくせ口では、


「トルイ家のお子たちは揃って

  英邁の気質、さすがは

  ソルコクタニ様のご内助よ」


 などと、いかにも感じ入った顔で申す。


 そのあとに来るのは、微かなため息と、流し目ひとつである。


 それで足りる。誰もオゴデイ家を貶してはおらぬ。だが、誰を高く見ているかだけは、はっきり残る。


 グユク様ご本人も、それを感じておられるように見えた。けれど、じっと呑んでおられるのか、胸のうちで後日を期しておられるのかまでは、成安にも私にも量りかねた。


 トルイ様ご本人は清く、周りの方が脂っぽい。


 そのことが、私には何より気味が悪かった。


2.


 若様――成安もまた、その脂を見ておられた。


 この方は、露骨な敵意より、誰も敵意と思わぬ形で残る借りや寄りを嫌う。帳面に載らぬ負債ほど、あとで家を軋ませると知っているからである。


 その日も、幕舎の外で湯を冷ましながら、若様はふと低く言われた。


「トルイ様が何を望まれようと、

  周りは別の勘定で動く」


 私は黙って続きを待った。


「清い人ほど、厄介だ」


 私は思わず苦笑した。


「濁っておられた方が、

  まだ話は早いということですか」


「濁って見えれば、

  皆それなりに疑う」


 若様は火の具合を見るように、少し目を伏せた。


「だが今は違う。

  私心なく兄君を立てておられるから、

  貴人どもはかえって

  次を見たがる」


 私はその言い方に、妙に得心した。


 もし偽善が見えれば、名を取りにいっておられると片づけられる。だが実際には、そうは見えぬ。本当に家を割らぬ方へ動いておられるように見える。だからこそ、貴人どもの生臭さが余計に浮くのである。


 その折、少し離れたところから、静かな声がした。


「何が、かえってなのだ」


 振り向くと、クビライ様がお立ちであった。


 モンケ様のように気安く肩を叩く方ではない。いつも少し離れたところから、人の言葉の継ぎ目を見ておられる。あの方は、誰かの結論より、その結論へ至る手順の方に目が留まる。


 若様はすぐに礼を執った。私もそれにならう。


「失礼を」


「よい」


 クビライ様はそれだけ言われ、若様の前へ腰を下ろされた。目つきに、子どもらしい苛立ちと、妙な冴えとが混じっていた。


「余には分からぬ」


 そう、単刀直入に言われた。


「父上は監国だ。皆が父上を見る。

  ならば、取るなら取ればよい。

  取らぬなら、本当に退けばよい。


  叔父上を立てると言いながら、

  立てるそのことで父上が

  ますます大きく見えるのは、

  何なのだ」


 私は胸のうちで、ああ、やはりそこか、と思った。


 正しいか邪か、ではない。


 取れるのに取らぬ。そのくせ、取る者より重く見える。その回りくどさが、十四の王子には気持ち悪いのである。


3.


 若様は、すぐには答えられなかった。


 この方は、分かっていることほど一拍置く。軽々しく言えば、正しさだけが先に立って、人の腹へは落ちぬと知っているからだろう。


 やがて、低く言われた。


「斉桓公と晋文公のことを、

  王子様はお聞きですか」


 クビライ様の目が、そこで少し動いた。面白い話の匂いを嗅いだ時の目である。


「少しは」


「では、斉から申しましょう」


 若様はまるで帳面を解くように、静かに言葉を置いていった。


「斉桓公は、ただ立ったから

  覇者となったのではございません。

  公子どうしの争いを越え、

  管仲を用い、諸侯の順を立てたからです。


  しかも管仲は、もとは

  斉桓公に矢を放った男でございました」


 クビライ様は、そこで身を乗り出された。


「射た者を、なお用いるのか」


「覇を唱える者は、

  好悪だけで人を捨てませぬ」


 若様は平らに答えた。


「立つことと、

  立ってから家や国を束ねることは、

  別だからでございます」


 クビライ様は黙っておられた。だが、その黙り方は退屈している者のそれではない。話を呑み込み、次にどこへ繋がるかを待つ黙りである。


 若様は続けられた。


「晋文公も同じでございます。

  あの方は、ただ戻ったから

  重かったのではありませぬ。


  流浪のあいだに、人と恩と借りを積み、

  位の前に、先に重くなっていた」


 クビライ様の視線が、若様から少し外れた。外れて、どこか遠くの幕舎でも見るように細くなった。


 たぶん、父君を見ておられたのである。


「では」


 やがて、低く言われた。


「父上も、そうだと言うのか」


 若様はすぐにはうなずかなかった。


「トルイ様が斉桓公である、と

  申すのではございませぬ」


「では何だ」


「位そのものより先に、

  位を支える力が人へ見えることがある、

  と申し上げております」


 草原の風が、幕の綴じ目を鳴らした。


「監国家は、兄君を立てることで、

  帝国の順を立てておられます。


  しかも、その順を立てられるだけの

  兵と名と人望を、すでにお持ちです。

  ゆえに、取らぬのに重く見える。


  回りくどいのではなく、

  強い者が私心なく退いても、

  周りが勝手に覇の匂いを

  嗅ぎ取るのでございましょう」


 私は横で聞きながら、ぞくりとした。若様の言葉はいつも、きれいに骨へ入る。入るぶんだけ、あとで痛む。


4.


 クビライ様は、しばらく何も言われなかった。


 あの方は、分からぬことをその場で流さぬ。


「父上は、偽ってはおられぬ」


 やがて、ぽつりと言われた。


「はい」


「それでも、周りは

  次を見たがるのだな」


「そういうことでございましょう」


 クビライ様は、そこでようやく私どもの方を見た。だが、見ているのは顔ではない。顔の奥、そこへ至る筋を見ておられるように私には思えた。


「ならば」


 その問いは、少年のものにしては少し重かった。


「家を保つ者は、どうすればよい」


 若様は、今度はほとんど迷わず答えられた。


「殿お一人で保とうとなさらぬことです」


 クビライ様の眉が、わずかに動く。


「強い家とは、

  一人が何もかも持つ家ではありませぬ。

  立つ者、流す者、受ける者、

  それぞれ役の違うまま続く家です。


  外へ強く向くほど、

  内は別に保たねばなりません」


 そこまで言ってから、若様は一度だけ言葉を切った。


「さもなくば、清い方のまわりへ、

  生臭い者ばかり集まります」


 私は思わず目を伏せた。まったく、その通りだったからである。


 クビライ様は、長く黙っておられた。


 やがて立ち上がり、巻物も何も持たぬ手で幕口を押さえた。その横顔は、少し年より上に見えた。


「……面白い」


 それだけ言われた。


 だが、その一言の下には、面白いだけでは済まぬものが沈んでいた。


 クビライ様が去ったあと、若様はしばらく火を見ておられた。私は湯を注ぎ足しながら、低く言った。


「刺さりましたな」


 若様は、少し遅れて答えられた。


「面白がられた」


「それだけではありますまい」


 すると若様は、珍しく小さく息を吐かれた。


「だとよいが」


 火の上で、湯が細く鳴っていた。幕の外では、まだ人の行き来が絶えぬ。誰がどの家へ寄り、どの光へ体重を掛けるか。そういう生臭い勘定が、夜になっても草の上を行き来していた。


 トルイ様ご本人は清い。


 だが、清い人のまわりほど、周りは勝手に濁る。


 そのことを、十四の王子は、今夜ようやく覚えたのかもしれぬ。

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