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家譜 ~中書省員外郎 李成安の生涯  作者: 早瀬 構
第三部

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第24話

1.


 ソルコクタニ様のオルドへ通された時、私は一歩目で足を止めた。


 幕の内におられたのは、お妃様お一人ではなかったのである。


 もう一人、女主人の座にいて少しもおかしくない気配の方がおられた。


 衣は華やかに過ぎず、だが人の目を避ける作りでもない。座の取り方が自然で、自然であるぶんだけ、こちらの膝が勝手に低くなりそうな相手であった。


 けれど私は、その顔を知らなかった。


 迷いが見えたのであろう。ソルコクタニ様が、やわらかく言われた。


「オゴデイ様の内を預かる、

  ドレゲネ様です。

  見知りおきなさい」


 私はそこで、腹の底が冷えた。


 ただの客ではない。オゴデイ様の内を預かる、と言われたのである。


 家の奥を預かるとは、椀や針や女中の並びを見ているというだけでは済まぬ。誰が残り、誰が減り、どこへ物が流れ、どこで家の顔を立てるか、その一つひとつを預かるということだ。


 私は深く礼を執った。だが、膝の角度が少しでも浅ければ首が飛ぶ、というほどの話でもない。かえって、その柔らかさの方が怖かった。


 幕の内の空気は張りつめてもおらず、緩んでもいない。穏やかなのに、余計な一言だけはどこにも落ちておらぬ。そういう座であった。


 ソルコクタニ様が笑われた。


「この色目人、

  絹布に妙に詳しいんですのよ、ほほほ」


 軽い口ぶりである。だが私は、その時点でもう、物差しとしてここへ差し出されたのだと分かっていた。


2.


 先に立たれたのは、ドレゲネ様であった。


「では、こちらから」


 仰せは短い。私は布を広げ、肩、袖、裾の長さを見、肌に映える色をうかがった。


 濃すぎる青は重い、浅い緋は春には軽すぎる、だが沈みすぎた色は好まぬ――そういう好みの言い方が、ただの好き嫌いではなかった。どう見られたいかの言い方である。


 私は内心、舌を巻いた。


 衣の趣味を聞いているようで、来春にどのような顔で座るかを聞かされているのだ。


 しかも、ソルコクタニ様はそのあいだ、まったく急がれなかった。ご自身の幕で、ご自身の布もあるはずなのに、先に立つのはあくまでドレゲネ様である。


 その自然さが、私にはいちばん恐ろしかった。譲っているのではない。誰を先に見せるかを、もう決めておられるのである。


 ひと通り済むと、ソルコクタニ様が袖を軽く払われた。


「わたくしは、さほど違いは

  いたしませんのよ、ほほほ」


 それだけであった。


 真似ではない。別筋でもない。先にドレゲネ様の輪郭を立て、その隣へご自分を静かに収める。私は採寸の手を動かしながら、背中の方が冷えてゆくのを感じた。


 採寸は草原で済む。だが仕立ては燕京である。いま取った寸法と好みは、秋に燕京へ戻る私どもの手へ載って、その先で形になる。


 布の話をしているようで、実際には来春へ向けて順を縫っているのだと、その時の私はようやく知った。


 ソルコクタニ様は布の端を指でなぞり、何でもないことのように言われた。


「来春には、国母様に

  お似合いのものを

  整えねばなりませんわね」


 ほほほ、と。


 私は危うく、指先の力を誤るところであった。


 国母。


 冗談の形を取っておられた。だが、冗談では済まぬ語である。来春の座を、もう笑いの中へ置いておられるのだ。私は思わずドレゲネ様を見た。


 すると、その方はただ嫣然と微笑まれた。驚きも、咎めも、照れもない。ただ、受けるべき呼び名を受ける人の微笑みであった。


 その一瞬で、私はもう、誰が何を分かってここへ座っているのかを思い知った。


3.


 話はそれで終わらなかった。


 ソルコクタニ様は、布を畳ませながら、何でもないように言われた。


「ジョチ家へも、失礼のないように

  なさってくださいましね。

  遠くても、遠いままでは

  済みませんもの」


 なるほど、と思った。そこは外せぬ。外せば、あとで響く。


 だが、その先がなかった。


 チャガタイ家のことは、と私は内心で待った。若様の按分では、トルイ家に四を残し、オゴデイ家、ジョチ家、チャガタイ家へ、それぞれ二ずつ流す。建前としては、まことにきれいな按分であった。


 だが、ソルコクタニ様はそこで、くすりと笑われただけである。


「まあ、建前は

  そうでございましょう? ほほほ」


 私は喉の奥がからりと鳴るのを感じた。


 否定なさらぬ。無礼とも仰せにならぬ。間違いとも言わぬ。


 ただ、建前として受けられるのである。若様が危ない橋を渡って整えた比率を、表へ見せる筋として、そのまま受け取ってしまわれる。しかも、その先の重みは別に動いている顔で。


 そして、チャガタイ家については、ようやくもう一言だけ落ちた。


「ヤサの番人でございましょう」


 悪口ではない。貶してもいない。だが、どこへ置いているかは、それで十分であった。国母と呼ばれる座とは、同じ列にないのである。


 私はその時、はっきり悟った。若様の按分は、理として正しい。だが、この女たちはもう、その正しさを表の顔として受け取ったうえで、別の重みで家々を見ている。


 退出の折、先にドレゲネ様が言われた。


「色々と、お気遣いをありがとう」


 私は一瞬、何のことか分からぬふりをしようとした。だが、その次の瞬間には腹の底がすうっと冷えた。色々、の中に何が入っているかくらい、私にも分かったからである。


 布の見立て、採寸の順、燕京での仕立て、そして若様があらかじめ変えておいた按分まで。


 ソルコクタニ様もまた、笑って言われた。


「ええ、本当に。

  助かりましたわ」


 ほほほ、と。


 見抜いていたのである。しかも、不快にも思わず、使える気遣いとして受け取っていたのである。


4.


 私は幕を出るまで、どうにか顔を崩さずに済ませた。だが外気へ触れた途端、膝が少し笑った。普通なら、あの場で漏らしていてもおかしくなかった。

 按分は見つかれば言い逃れの利かぬ越権である。それを、あの二人は礼で返した。見抜いたうえで、飲み込んだのである。


 若様のもとへ戻ると、私はすぐには言葉を継げなかった。若様は火のそばで紙を見ておられたが、私の顔を見て、何かあったことくらいはすぐに察されたらしい。


「どうした」


「……若様」


 私は声を低めた。


「全部、分かっておられました」


 若様の指先が、紙の端で止まった。


「そうか」


 短く、それだけ言われた。だが、その静けさのうちに、こちらと同じ冷えが混じったのを、私は見逃さなかった。


 その夜、若様は長く黙っておられた。やがて火の向こうを見たまま、低く言われた。


「私は、あの比率を崩せない」


 私は黙って聞いた。


「崩せば負ける」


 若様は続けられた。


「あの比率は、建前としては

  もっとも崩れにくい。

  そこを自分から崩したら、

  私は自分の足場を失う」


 火が小さく鳴った。


「だが、あの方たちは、

  その建前を建前として受けたうえで、

  もう別の重みで見ている」


 そこで、若様はようやく私を見られた。


「晋卿様の置き方は、正しかった」


 私は息をひそめた。


「私は、トルイ様のおそばへ

  付けられたのだと思っていた。

  だが違う。

  あの家へ置かれたのだ」


 若様の声は低く、いつもより少しだけ遅かった。


「理を通すだけなら、

  晋卿様の下でも足りた。

  だが、家の中で理を息づかせる術は、

  ここでしか見えぬ」


 私は返す言葉を持たなかった。


 昼の二人の笑いが、まだ耳の奥に残っていた。ほほほ、と軽く笑いながら、来春の順を縫う女たちである。若様はその笑いの重さを、私と同じように思い知ったのであろう。


 その時の私は、ようやく分かった。


 若様は、トルイ家という大きな家が、誰の手で、どう次へ繋がれているかを知れという意味で、ここへ置かれたのだ。

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