第23話
1.
一二二八年五月。草原の春は、青く見えても、油断するとすぐ人の喉を干した。
若様は、按分の書付を仕上げてからも、なお紙を伏せたまま考えておられた。燕京から上がる品を、そのままトルイ家へ差し出せば、また別の形で薄まる。形を先に作ってから通せば、家は痩せにくい。
理としてはそうである。だが、理が通ることと、その家に根づくことは別だ。
火のそばで黙っていた若様が、やがて私を見た。
「ヨハンナン」
「はい」
「お前に、お願いしたいことがある」
私は姿勢を正した。前の晩にも同じ言葉を聞いたが、その先を急かさず待った。若様は、こういう時だけ少し間を置く。
「布や生活の品は、奥向きへ回してくれ」
「承知しました」
「だが、それだけではない」
私はそこで顔を上げた。若様は火を見たまま続けられた。
「お妃様が、殿のなさりようを
どう見ておられるか、知りたい」
私は少し考え、それから言った。
「呆れておられるのか、
苦労しながらも呑んでおられるのか、
ということですか」
「それでは浅い」
若様はすぐに切られた。
「気持ちの話だけではない。
あの方が、お家をどういうものとして
見ておられるかだ」
私は黙った。若様は、なお言われた。
「殿の大きさを、そのまま
家の大きさと思っておられるのか。
別に支えるものが要ると
見ておられるのか。
子らを、父の脇に並ぶ者と
見ておられるのか、
それとも別の役に
分けておられるのか」
それを聞いて、ようやく腹へ落ちた。
若様は、お妃様お一人を知りたいのではないのだ、と私はそこでようやく分かった。
「……冷たいお願いでございますな」
思わずそう言うと、若様はわずかに眉を寄せられた。
「そうか」
「人となりを知りたいのではなく、
その方の視座を量りたいのでしょう」
「そうだ」
若様は否定なさらなかった。
「見誤れば、後で困る」
その言い方が、いかにも若様らしかった。好く好かれるの話ではない。後でどこが裂けるか、その筋を先に見たいのである。
2.
翌日から私は、奥向きに近い者どもの口を拾うよう心掛けた。
だが探るといっても、女房衆の噂を集めれば足りる類の話ではない。誰が何をこぼしたかより、何を先に整えているかの方がよほど当てになる。
私は、同じ教えを奉ずる宦官の口から、いつ誰が呼ばれたか、何がどこへ運ばれたか、どの贈り物が内へ残り、どれが外へ回ったか、そういう細いところを見た。
若様は私に、急ぐなとも、深く入りすぎるなとも言わなかった。ただ一つだけ、
「気分ではなく、手つきを見てくれ」
と言われた。
それで十分であった。
その日の昼、若様はまた受領記録を広げておられた。先日の「不正ではありません。ばらまきです」という言葉が、あの方の中でまだ片づいていないことくらい、横で見ていても分かる。
前なら、減る、残らぬ、だから変えるべきだ、とそこで終わったであろう。
だが今は少し違った。
減っている。たしかに減っている。けれど、それをただ「劣ったやり方」と見た瞬間に、別の理が見えなくなるのではないか――そういうところまで、目が向いているように私には見えた。
私はその横顔を見ながら、妙な心持ちになっていた。若様は、中華の理で世界をよく切る人である。責任の流れ、物の留まり方、家の持ち方。その切れ味で、これまで多くを見抜いてきた。
だが、切れることと、尽くせることは違う。
トルイ家には、あの家なりの運びがある。殿が流し、妃が支え、子らが別々にその影を受ける。その違いを、ただ粗い、未熟だ、と先に片づけてしまえば、見えるはずのものまで痩せる。
若様の目つきは、前より少し違っていた。切る前に、一度どこかで止まる目つきであった。
その時である。幕の外に人の気配がした。
小者の取次もなく、すっと入ってこられたのは、クビライ様であった。
3.
少年は一人であった。
まだ幼いといってよい年頃だが、あの方には人に守られて来る幼さがない。自分で見、自分で確かめに来る足取りである。若様は紙を伏せ、私は湯を引いた。
クビライ様はすぐには座られなかった。若様の手元を見、それから顔を見た。その目つきで、私はもう嫌な予感がした。帳面の数字より、そこに至る言葉の運びを見に来た目である。
「李成安」
「はい」
若様は、声の温度を変えなかった。
「先日、おまえは申したな」
少年はそこで、ほんの一拍だけ置いた。
「不正ではない、ばらまきだと」
やはり、そこへ来られたか、と私は思った。盗みでも横領でもない。なのに、残らぬ。若様がそう切り分けた、その刃の形そのものが、少年の胸へ引っかかったのであろう。
「申しました」
若様は逃げなかった。
クビライ様の目が少し細くなった。
「父上が、ばらまいておられるとは、
どういうことだ」
怒った声ではない。私はむしろ、その静けさの方が怖かった。父を庇うための感情ではなく、若様の見方そのものを取りに来る問いだからである。
若様はすぐには答えられなかった。一度だけ息を置き、それから言われた。
「殿は、抱えずに流しておられます」
「それを、ばらまきと呼ぶのか」
「私には、そう見えました」
そこで少年は、若様をまっすぐ見た。
「そなたは、
父上をそう評してよい立場にあるのか」
私は背のうしろが冷えた。そこまで見ておられたか、と思ったのである。父を悪く言うな、ではない。家の外から来た若い実務者が、自分の父を見切る位置に立っているのか、と。
若様は少しだけ眉を寄せられた。だが、弁解はなさらなかった。
「見切ったつもりはございません」
「では、何だ」
その問いに、若様は逆に返された。
「では、王子様は、
トルイ家がどのようなお家であるのを
お望みですか」
4.
クビライ様の顔が、そこで初めて少しだけ動いた。
問い返されるとは思っておられなかったのであろう。父上をどう見るか、という話のまま押せると思っていたところへ、家の姿そのものを返されたのである。
「余は、当主にあらず」
低く、そう言われた。
その一言に、逃げと制度感覚の両方があった。まだ自分は定める者ではない。だから答えを持たぬ、と。
だが若様は、そこで引かなかった。
「当主だけが英邁で、その他が愚鈍、
それでよろしいでしょうかな」
幕の内が、すうっと冷えた気がした。
若様の声は平らであった。叱るでも、言い負かすでもない。ただ家は一人で保たぬ、という理を、そこへ置いただけである。その一言が、妙に重かった。
クビライ様は何も言われなかった。
怒ったのでもない。拗ねたのでもない。ただ、その問いを自分の立場の外へ押し返しきれず、どこへ置くべきか考えておられる顔であった。
私はその横顔を見ながら、薄ら寒かった。若様はたしかに冷たい。子供相手に気を遣って座を丸くする人ではない。
だが同時に、王子を飾り物とも見ておらぬ。家のことを問うなら、家を担う者として扱う。その厳しさが、あの問いに出ていた。
クビライ様はしばらく若様を見ておられたが、ついに何も返されなかった。
ただ一度だけ視線を落とし、それからもう一度、若様を見た。
「余は、当主にあらず」
さきほどと同じ言葉であった。だが響きは少し違っていた。自分はまだその席にない。けれど、だからこそ考えずに済むとは言い切れぬ――そういう重みが、その二度目にはあった。
私は息を詰めたまま、二人を見ていた。
若様もまた、それ以上は何も言われなかった。
火が、小さく鳴った。幕の外では草原の風が布を揺らしていた。私はその時、トルイ家の強さが、ただ殿お一人の大きさだけではないことを、改めて思った。
殿が流し、妃が受け、子らがそれぞれ別の形でその影を継ぐ。その全部が噛み合えば、家は恐ろしく強いであろう。だが、どこかが別の方へ伸びれば、その強さそのものが裂け目にもなる。
クビライ様は、まだ若い。だが今夜、何か重いものを胸へ入れられたように見えた。




