第22話
1.
一二二八年四月の末。草原の春は、燕京のそれより少しだけ手荒かった。風は乾いているのに、夜に入ると骨へ残る。
若様は、前に入った時より言葉を少なくしていた。トルイ家へ出入りの筋がついたからといって、気を許した顔は少しも見せぬ。むしろ逆である。入れたからこそ、今度は家そのものの運びを見ている顔だった。
表では、相変わらずトルイ様が大きかった。座に遠く構えず、自ら歩き、笑い、受け、そしてその場で流す。人も物も、一度その手へ入ると、抱え込む前に役のあるところへ流れてしまう。
惜しむ気配がない。見栄で撒くのでもない。ただ、ご自分のもとへ集まるものは、そこへ留めておくためのものではないと、最初から決めているように見えた。
その脇で、若様は子らの方も見ておられた。
長男のモンケ様は、父君に似ておられた。座にじっと留まるより、次に何を動かすかへ気が向く顔である。人が足りぬと見れば、自分で立つ。細々したことも分からぬわけではない。だが、分かったうえで腰を落ち着けるより、先に働く方へ重みが移る。父君の大きさを、少し細く、少し鋭くしたような印象であった。
それに対し、次男のクビライ様は妙であった。
賢そうな少年など、世に珍しくもない。だがこの方は、人の顔色より先に手順を見る。
酒宴でも、誰がどこへ座ったかより、何をどう運び、どこで話が切れ、誰が何を飲み込んだか、その順だけをじっと追っているような目をなさる。しかも、感心した顔も、退屈した顔もせぬ。ただ静かに見ておられる。
私はその時、腹の底で少しだけ身構えた。こういう目は、たいてい後で厄介になる。何を好きかより、物事がどう回るかを先に覚える子は、長じてから人の温度だけでは動かぬ。
2.
五月に入ると、若様は燕京から持参した控えと、幕舎で見られる受領記録とを突き合わせ始めた。軍需や献上の筋は、名目だけならいくらでも立つ。
だが私はもう知っている。若様が見るのは名目ではない。どこで減り、誰がそれを当たり前として呑んでいるか、その流れである。
帳面は、思ったより分厚かった。だが厚みのわりに、手元へ残るものの顔が薄い。
若様は何枚かを並べ、指先を止めた。紙の端を揃え、もう一度だけ見返す。その癖が出た時は、たいてい嫌なものが見えている。
「三割が……消えている」
低くそう言ってから、若様は少し黙った。
「不正ですか」
私は思わず尋ねた。若様はすぐには答えなかった。紙から顔を上げかけて、そこで言葉を切ったのである。
「いや――」
その時、若様の目がふと横へ逸れた。つられて私も振り返ると、少し離れたところにクビライ様がおられた。
少年は、こちらをじっと見ていた。帳面そのものを覗き込みたい顔ではない。若様の指先と、いま言葉を切った一拍と、そのあとの沈黙の方を見ている目であった。
疑っているのではない。怯えているのでもない。何かを確かめる者の目である。調べ、見比べ、言いかけたことを飲み込み、それから別の言葉へ置き換える。そういう運びそのものを見ているように、私には見えた。
若様はすぐに顔を戻した。
「不正ではありません」
そう言って、もう一度帳面へ指を置く。
「ばらまきです」
私は息を呑んだ。盗みなら怒ればよい。横領なら切ればよい。だが、配ってしまうのがこの家の当たり前なら、話はまるで違ってくる。
若様は、燕京の献上控えと、ここの受領記録とをさらに並べた。
「普通に持てば、もっと残る」
「残っておりませぬか」
「残らぬのではない。残さぬのだ」
その言い方は、妙に静かだった。責める声ではない。もう分類が済んだ声である。
私はその時、昼に見たトルイ様の手を思い出した。肉が来れば流し、贈り物が来れば役のあるところへ回し、受けたものを抱えぬ手である。
あれが帳面の上でも同じ顔をしているのなら、この三割はたしかに盗まれたのではなく、最初から留まる運命になかったのであろう。
3.
五月半ばに入るころ、若様の腹はもう決まっていた。
「按分の結果しか見せてはならぬ」
火のそばで、短くそう言われた。
私は思わず顔を上げた。若様はもう、次の紙を書き始めている。燕京その他、華北の政庁へ回す指図である。
トルイ様へ上がる品のうち、四割をこの家へ残し、二割ずつをトルイ様の名でジョチ家、チャガタイ家、オゴデイ家へ流す。名目は立つ。面目も立つ。しかも家は痩せ切らぬ。
「そんな勝手なことをして
よろしいのですか」
私がそう言うと、若様は筆を止めなかった。
「そのまま渡せば、もっと勝手に減る」
「ですが、知られれば」
「知られて困るのは、不正をした時だけだ」
相変わらず、可愛げのない言い方である。だが理は通っていた。トルイ様を止めるのではない。トルイ様らしさが、そのまま家を削り切らぬよう、流れの手前で形を変えるだけだ。
私は低く言った。
「お妃様には、
うまく呑んで頂けるかもしれませぬ」
「そうだろうな」
若様はそこで初めて手を止めた。
「だが、奥向きへ通す手は別に要る」
私はその時、ようやく話の先が見えた。数字と紙だけでは、この家は変わらぬ。外から按分を変えても、内でそれが暮らしの手つきにならねば、いずれまた同じところから漏れる。
奥向きへ入るなら、暮らしの方から入るほかない。
軽く、重ねやすく、贈っても見栄えが立ち、しかも格を落とさぬもの。帳にも衣にも覆いにも下ろせる品。草原の女たちは、便利で、見た目の立つものには正直である。
そういう手を通せば、配り方の癖そのものは変えずとも、家の内で残し方を覚えて頂けるかもしれぬ。
若様は、私の顔を見た。
「分かった顔をしているな」
「少しは」
「少しでよい」
それだけ言って、また紙へ戻る。人に頼みごとをする前の顔ではなかった。もう、そこへ置くと決めた者の顔であった。
4.
その夜、風は昼より冷えた。幕の外では馬が小さく鼻を鳴らし、火の上では湯が細く音を立てていた。
若様は、書き終えた紙を一つずつ乾かし、順に重ねた。私はそれを横で見ていた。こういう時の若様は、もう大きなことを言わない。何をどう動かすか、その順だけが静かに固まってゆく。
昼に見たクビライ様の目が、ふと胸へ戻ってきた。
あの少年は、帳面の中身より、若様の止まり方を見ていた。調べ、照らし、切り分け、言葉を選び、それから手を打つ。その一連の運びを見ていた。そういう子は、あとで必ず何かを覚える。
私は湯を注ぎながら、何となく言った。
「次男君は、妙なお方ですな」
若様は杯を受け取った。
「帝国の王族には珍しい」
「賢い、ということですか」
「それだけではない」
そこで若様は少し考え、低く続けた。
「手順に興味をお持ちのようだ」
私はうなずいた。まったく、その通りだった。疑いでもなく、反抗でもなく、ただ物事の運びに目が留まる。ああいう少年は、あとで人に使われる側で終わりそうにない。
若様は杯を置いた。
「ヨハンナン」
「はい」
私は姿勢を正した。風が一つ、幕を鳴らした。
若様は、火の向こうから私を見た。いつものように短く、無駄なく、もう半ば決まった声である。
「お前に、お願いしたいことがある」




