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家譜 ~中書省員外郎 李成安の生涯  作者: 早瀬 構
第三部

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第21話

1.


 一二二八年四月。草原の風は、燕京の春よりひと足早く、人の頬を荒く撫でた。


 晋卿様の一行と別れてから、私と若様はトルイ家の幕舎へ向かった。牌を示し、取次を願う。応じたのは色目人の宦官であった。衣の端まで気を配る、奥向きに近い者の身なりである。


 その男が口を開いた時、私は思わず母国語で返した。男はわずかに目を見張り、それから声を低めた。


「あなたも、あちらの教えか」


 私はうなずいた。


 すると男は、少しだけ表情を緩めた。


「お妃様も、同じ教えを仰いでおる」


 私は腹の底で息を吐いた。若様は横で黙っていたが、何かしら筋が通ったことは察したらしい。


 数日後、私どもは比較的すんなりと引見を許された。


 幕内へ入り、若様とともに膝をつき、深く礼を執る。すると上から、思いのほか近い声が降ってきた。


「それでは、顔が見えないだろう?」


 はっとして顔を上げると、そこにいたのは、ひどく大きい人であった。偉丈夫、という言い方がいちばん近い。都の高官のように遠くへ座しておらぬ。自分からこちらへ歩み寄り、目の前まで来て、人の顔を見ようとする。


「で、お前が、ひげの言ってた細かい男か」


 若様は少しだけ目をしばたたかせた。ひげ、とは晋卿様のことであろう。あの方をそう呼べるのは、そう多くあるまい。


 トルイ様はそのまま私どもの脇を抜け、幕舎の外へ出た。若様が引いてきた荷車の幌を、ご自分の手でひょいと外す。


「また、大がかりな荷物を

  持ってきたものだ」


 呆れたように笑い、進物をひとわたり見て、それから朗らかに言った。


「ほう……かたじけないことだな」


 その一瞬後には、もう配下へ向き直っていた。


「すべてオゴデイ兄の幕舎へ運べ。

  按分はオゴデイ兄に任せる」


 若様が、そこで珍しく言葉を急がせた。


「これは、監国家のために

  用意したものでございます」


 礼を崩しかけて踏みとどまりながら、そう申し上げる。トルイ様は頭を掻き、若様の前にしゃがみこんだ。


「そうか。やはり、かたじけない」


 私はその時、そっとソルコクタニ様へ目をやった。胸を撫で下ろしたように見えた。ああ、この家でも、いつものことなのだ、と私は思った。


2.


 酒宴が始まった。


 馬乳酒が注がれ、羊肉のスープが回り、ほどなくして羊串まで並んだ。若様は勧められるままに口へ運び、別に顔をしかめもしない。


「ほう、漢土の人間とは

  一風変わっているな」


 トルイ様が面白そうに言う。


 若様は串を置き、短く答えた。


「燕京の屋台では、

  もっぱら羊串を食べておりました」


 それを聞いて、トルイ様は声を立てて笑った。


「ならば、まだ持って来い」


 そのひと言で、串がまたずらりと並ぶ。周りの者どもも、少し面白がった顔をした。


 だが若様は、気負うでもなく、見栄を張るでもなく、ただ普通に食べた。気取らず、卑しまず、出されたものを受ける食べ方である。


 こういう席で無理をする者は、たいていどこかで箸が止まる。だが若様の手は止まらなかった。


 私は横で見ながら、内心少し呆れていた。まったく、この方は帳場の外へ出ても、結局は屋台仕込みである。


 それより私の目を引いたのは、トルイ様の振る舞いの方であった。


 肉が来れば、ご自分の前へ抱え込まず、まず場の重みに応じて流してしまう。年長の者、近しい者、子ら、控える者へ、手が先に動く。


 見栄で撒いているのではない。気前のよさ、とも少し違う。得たものを、その場その場の役に応じて、先に振り分けてしまう人なのだろう。


 若様も、たぶん同じことを見たのだと思う。食べながら、何度かトルイ様の手の動きを目で追っておられた。


 この人は、寡欲なのかもしれぬ。だが、それより先に、役割に生きているのだろう。自分の取り分として抱える前に、あるべきところへ流してしまう。


 そういう大きさは、帳面の上では扱いにくい。だが、主君としては恐ろしく強い。


 私はその晩、初めて少し分かった気がした。若様が、この人には話が届くかもしれぬと感じるなら、たぶんそういうところなのだろう。


3.


 宴の熱が少し落ち着いたころ、私はさきほどの宦官とまた言葉を交わした。ネストリウス派の信徒同士、酒席の外れで低く話すぶんには、さほど不自然でもない。


「よく、あのまま収まりますな」


 私がそう言うと、宦官は苦笑した。


「悪いことだとは思っておりませんが……

  前触れのない方ですね」


 私は黙って耳を傾けた。


「お妃様は、いつも少し早めに

  数えておいでです」


 それだけで充分であった。


 なるほど、と思った。トルイ様は惜しまず、ためらわず、その場で正しいと思う方へ手を出す。だから大きい。だが、その大きさのあとを、誰かが縫っておらねば家は保たぬ。


 ソルコクタニ様は、たぶんその縫い目を受け持つ人なのだ。


 私はさりげなく若様へ目をやった。あの方は、まだ酒盃を置くふりで場を見ておられる。誰がどれだけ食べ、どの一言で座が和み、どこで人が動くか、そういうことばかり見ている顔であった。


 この家へ食い込むなら、筋はもう見えている。


 表はトルイ様だ。結論を先に、長く言わず、使える形で渡すのがよい。


 裏はソルコクタニ様だ。前触れのなさのあとで、何が足りなくなるか、どこに皺が寄るか、そこを先に整える者は重く見られる。


 若様お一人でも、いずれはここへ入れただろう。だが、もっと高くついたに違いない。土産も日数も、あるいは余計な借りも要っただろう。


 あの宦官の口が開いたのは、同じ教えの縁と、宦官同士の空気があったからである。


 私はそのことを、胸のうちで少しだけ誇った。役に立つというのは、こういう時のためにある。


4.


 自分たちの幕舎へ戻ると、若様はすぐには腰を下ろさなかった。荷の置き場をひと目見、火の具合を確かめ、それからようやく低く言った。


「今回は、

  お前がいなければ遠回りになった」


 私は荷をほどく手を止めた。


「若様お一人でも、

  いずれは入れたでしょう」


「入れただろう」


 若様はあっさり言った。


「だが、時間も土産も、もっと要った」


 そこまで言って、少し間を置いた。


「あの家は、表から押すだけでは入れぬ」


 私はうなずいた。


「表は若様でございましょう。

  私は裏で、口の軽い者と

  神の話でもしておきます」


 若様はわずかに鼻で息を吐いた。笑ったのか、呆れたのか、どちらともつかぬ顔である。


「そうだな」


 それから火のそばへ座り、膝へ肘を置いた。


「トルイ様には結論から申し上げる。

  長くは要らぬ」


「はい」


「お妃様には、

  そのあと何が足りなくなるか、

  先に見せる」


 私はそこで、少しだけ感心した。若様は理を変えたのではない。通す筋を曲げたのでもない。ただ、自分一人で全部を持って言わぬ方が早いと、ようやく腹へ落ちたのである。


 前世がどうであれ、今生の若様は少しだけ進んだのだろう。正しいことを正しい順で言い切るだけでなく、表と裏を分けて通す方へ。


 火は小さく鳴り、幕の外では草原の夜風が布を鳴らした。


 若様はしばらく黙っていたが、やがて低く言った。


「次は、もう少し早く入る」


「ええ」


「そのために、お前が要る」


 私は頭を下げた。礼を言われた気はしなかった。そうではなく、働きが働きとして置かれたのである。その方が、私にはよほど重い。


 幕舎の外には、まだトルイ家の宴の名残が遠く残っていた。


 だが私にはもう、酒の匂いより先に次の手順が見えていた。若様もたぶん同じであろう。あの家へ届くには、表へ出る言葉と、内へ回る手を分けねばならぬ。


 それが分かっただけでも、この夜は安くなかった。

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