第25話
1.
一二二八年六月の初め。草原の陽は長くなったが、風はまだ夜ごとに骨へ残った。
その日、若様は帳面ではなく、珍しく冠を正して幕舎の外へ出ておられた。トルイ家の子らが、昼のあとで羊を焼くというのである。私は半ば付き添い、半ば見張りのつもりで後ろに立った。
先に声を掛けてきたのは、モンケ様であった。
「来たか、成安」
そう言うなり、若様のそばへ歩み寄り、何の気なしに、その頭をばちんと叩いた。
乾いた音がした。
若様は一瞬で蒼白になり、殴られた頬より先に、飛びかけた冠へ両手をやった。私は思わず息を呑んだ。
あれは、痛いより先に恥ずかしいのである。漢地の男にとって、冠はただの飾りではない。人前でそれが落ちかけるというのは、顔が剝がれるようなものだ。
だがモンケ様は、きょとんとしておられた。
「なんだ、そんなに大事か」
若様は冠を押さえたまま、ようやく顔を上げた。そこでモンケ様は、ご自分の耳取りの辮髪をつかみ、ぐいと引き寄せて見せた。
「これみてえなもんか。引っ張るか?」
若様は反射で言い返した。
「引っ張れるか!」
私はその場で目を剝いた。若様が、礼も語尾も忘れて、まるで年相応の若い男のように叫んだのである。言った本人も、言い終えてから一拍おいて固まった。しまった、という顔であった。
だがモンケ様は、そこで大きく笑った。
「そうか。そりゃ悪かった」
謝っているのか笑っているのか、よく分からぬ声である。横で見ていたフレグ様は、兄の辮髪と若様の冠とを見比べて、声を上げて笑っておられた。
私は胸の内で、まことに勘弁して頂きたいと思った。だがその一方で、若様が本気で嫌がったことだけは、モンケ様にも伝わったらしい。雑だが、悪意ではなかった。
そういう近づき方なのだろうと、その時の私はようやく知った。相手が本気で嫌がるなら、そこで止める。草原のやり方は荒いが、分かれば引く。その荒さの中に、子どもじみたまっすぐさも混じっていた。
2.
羊串は、思っていたよりひどい勝負になった。
モンケ様が一口食って、若様の方を見た。
「つくづくお前、羊肉、好きだな」
「燕京では、よく食べておりましたから」
それを聞いて、モンケ様は笑った。
「話せるじゃねえか」
そこから先は、もはや会話ではなかった。本場の焼き方がどうだの、脂はこのくらい落ちた方がいいだの、草原で食うなら塩はもっと強くてもよいだの、誰も頼んでいないのに勝手に競い始める。
若様も若様で、最初は静かに付き合っておられたが、途中からは意地になったらしい。串を取る手が妙に早くなった。
フレグ様は横から口を挟んだ。
「それは本場の食い方じゃないぞ」
「お前は黙ってろ」
「兄ちゃんこそだ。
脂を落としすぎるんだよ」
兄ちゃん、と来たので、私は少し安心した。ここの家の子らは、どうやらそういう呼び方をするらしい。いちいち格式ばらぬ。兄弟げんかの延長で、羊の焼き方まで争うのである。
モンケ様は串を噛みちぎりながら、ふと若様を見た。
「なんだ、お前、まだなのか」
若様の手が止まった。
「何がです」
「何がって、女だよ」
私は危うく咳き込みそうになった。フレグ様も目を瞬いた。だがモンケ様は悪びれもせず、そのまま続けた。
「俺はフレグの年には知ってたぞ?」
「兄ちゃん!」
フレグ様がたちまちむきになった。
「俺はまだ十だぞ!」
「十でも何でも、知るやつは知るだろ」
「そんなので張り合うな!」
草原では、こういう話題に妙な仰々しさがないらしい。禁じられたことをわざと口にする、という空気でもなく、ただ兄弟のあいだで成長の順を測る物差しの一つとして、無造作に出てくる。その無造作さが、若様にはいちばん堪えたのであろう。
若様は羊串の時より露骨に困っておられた。口を開きかけては閉じ、ようやく、
「……そういう話を、
この場でなさいますか」
とだけ返された。語尾だけ整っている。余計に困っている証拠である。モンケ様はそれを面白がるでもなく、ただ本気で不思議そうな顔をされた。
「なんだ。知らねえなら、
そのうち教えてやるよ」
私は腹の底で頭を抱えた。若様も、さすがにそれには何も返せなかった。だが、その居たたまれなさのわりに、場そのものは妙に明るかった。
兄弟は兄弟で騒ぎ、若様は若様でそこへ混ざっている。あの冠の一件以来、妙に壁が薄くなったのである。
3.
食い終えるころには、モンケ様はすっかり若様を気に入られたらしかった。
「成安」
串の残りを放り出しながら、そう呼ぶ。
「お前、義兄弟になろうや」
私はその場で目を閉じた。モンケ様にとっては、羊を食えた、話が通じた、嫌なら嫌とはっきり言う、その延長なのであろう。まるで「また来い」と同じ軽さである。
だが軽いのは口ぶりだけで、本気で言っている顔だった。
若様にとっては、軽く受けてよい話ではない。相手はトルイ様の長男である。北の家の子と義を結ぶなど、中華の男には冗談では済まぬ話だ。
若様は案の定、言葉に詰まった。
「……それは」
「なんだ、嫌か」
「嫌では」
そこでもう詰まる。嫌ではない、と言った時点で、余計に逃げ場が狭くなる。フレグ様は横から面白がって見ていたが、すぐに割り込んできた。
「じゃあ俺も入る」
「お前はまだ早い」
「なんでだよ!」
兄弟で騒ぎ出したおかげで、若様はどうにか助かった。だがモンケ様は、本当にその気だったらしい。冗談の顔をしておらぬ。
私はその大きさに、少しだけ眩暈がした。こういう家の子なのだ。人を試し、よければその場で近くへ置く。面倒はそのあとで考える。若様が引き寄せられるなら、たぶんこういうところなのだろう。
その折である。遠目に、こちらを見ているもう一人の姿に気づいた。
クビライ様であった。
あの方だけは、笑っておられなかった。羊串にも、義兄弟の軽口にも、兄弟げんかにも乗らず、ただこちらを見ていた。
だが見ているものが違うのだ。若様が何本食ったかではない。冠を押さえた一拍、義兄弟という言葉に詰まった間、そういう運びの方を見ている目であった。
私はそこで、妙な寒気を覚えた。今度の厄介は、たぶん、別の形で来る。
4.
その晩、私は火の具合を見ながら、若様へ湯を差し出した。冠の一件も、羊串の勝負も、義兄弟の軽口も、すでに若様の内では厄介な帳面の一枚に変わっているであろうと思ったからである。
ところが、幕の口が静かに開いた。
「李成安」
声は低く、整っていた。私は振り向いた。クビライ様である。
モンケ様やフレグ様とは違い、最初から呼び方が違った。兄ちゃんでもなければ、あの雑な親しみでもない。この方だけは、座に入る前から語の順を外さぬ。
手には、漢籍があった。
私は思わず眉を寄せた。羊串の余熱も冷めぬうちに、今度は本である。クビライ様はためらいなく火のそばへ進み、若様の前へその巻を置いた。
「先日、そなたは申したな」
若様が顔を上げた。
「父上は、抱えずに流しておられる、と」
「申しました」
「だが、流してなお家が保つのは、なぜだ」
矢継ぎ早であった。こちらが答える間を測っているのではない。問いたいことが先に積まれていて、それが順に口を突いて出てくるのである。
「兄上は、人へ出すのが早い。
父上もそうだ」
クビライ様はそこでわずかに巻物へ目を落とした。
「この書では、
家を保つ者と、
国を広げる者とを
分けて書いてある」
そのまま、また若様を見る。
「だが、父上と兄上は
そういう分け方ではないように見える。
そなたなら、どう読む」
若様はすぐには答えなかった。クビライ様は、それすら見ていた。
若様はしばらく黙っておられた。クビライ様の目は、兄上や父上と呼ぶ時と同じようにまっすぐで、しかも逃げ場がなかった。懐いているのではない。
この少年は、若様の見方そのものが、どこまで家を読めるのかを確かめに来ているのだと、私はそこでようやく分かった。
火が小さく鳴った。
私はその夜、羊串の勝負より、義兄弟の軽口より、この静かな質問の連射が、よほど後まで響くだろうと思った。クビライ様だけは、家の雑な明るさの外から、若様の考えの入り口を、静かに確かめに来たのである。




