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家譜 ~中書省員外郎 李成安の生涯  作者: 早瀬 構
第二部

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第19話

1.


 一二二八年二月半ば。春節を迎えるにあたり、若様はほんの数日だけ家へ戻られた。


 草原へ入る前に、一度は李家の戸をくぐっておくべきだと、父上が考えられたのかもしれぬし、若様ご自身にも、まだそこを外しきれぬ気持ちがあったのかもしれぬ。


 いずれにせよ、通州へ着いた日の家は、私の覚えている李家と同じ匂いをしていながら、前とは少し違う重みで回っていた。


 違いはすぐに分かった。長男様である。


 父上の横へ立つ位置が、もう自然だった。


 客が来れば、長男様は先に一礼して声を和らげ、父上が言いにくいことへ入る前に、ひと呼吸ぶん場を柔らかくする。


 帳場の小者が言い淀めば、名を呼んで先を促し、水場で揉めかけた女中には、どちらの顔も潰さぬ言い方で手を打つ。


 幼い者が廊下を走って叱られかければ、怒鳴るのでなく肩へ手を置いて止める。蔵番の老爺が耳の遠いまま返事を遅らせても、苛立たずにもう一度だけ名を呼ぶ。


 値切り気味の客へも、父上が眉を寄せる前に茶を勧め、腰を落ち着けさせてから話へ入る。そういう手つきが、もう家の中へ染みていた。


 家というものは、壁と屋根だけでは立たぬ。誰が誰の名を覚えているか、誰が誰の怒りを一つ手前でほどくか、その積み重ねでどうにか住める場所になる。


 長男様は、もうそれをやっておられた。


 若様も、それをご覧になっていた。敵を見る顔ではなかった。腹立たしげでもない。ただ、自分には持てぬものを持つ人を見るときの、妙に静かな目つきであった。


 私はその横顔を見て、ようやく腹へ落ちた。家を継ぐのは、たぶん、こういう者なのだろう。


 福海大人は、それを若様よりずっと早くから秤に掛けておられたに違いない。


 しかも長男様のその才は、派手なものではなかった。誰もが見て褒めるような大きな働きではない。ただ、家の空気が荒れぬ。使用人が次の日も同じ顔で持ち場へ立つ。客が帰ったあと、余計な悪口が増えぬ。


 そういう保ち方の方が、家にはよく効くのである。


 若様には、それが痛いほど分かったに違いなかった。


2.


 翌日には、草原入りの支度が始まった。


 長男様は若様へ、春先の草原はまだ風が鋭い、紙は乾く、塩は思うより早く減る、と穏やかに言われた。


 それから帳場へ声をかけ、紙、墨、筆、革袋、塩、替えの手綱、馬に持たせる細々したものまで、一つずつ揃えさせた。


 見ればどれも、草原で欠けやすいものばかりである。思いつきの情ではない。家の外で不足しやすいものを、先に埋めておく者の手つきだった。


 若様はすぐには受け取られなかった。


「ここまで要りません」


 と、まず言われた。


「草原で足りなくなったら、

  現地で何とかします」


 長男様は笑いもせず、怒りもせず、ただ紙束の紐を自分の手で締め直した。


「何とかならぬから持たせる」


 それだけ言う。


 若様はなお口を開きかけたが、父上が何も言わずにそれを見ておられるのが分かると、そこで止まった。誰も若様を責めてはおらぬ。恩に着せる顔もしていない。


 ただ、この家の外で立つなら、家の名に恥をかかぬよう持たせる、それだけのこととして進んでゆく。


 そういう親切ほど、受け取る側には堪える。


 押し問答の末、若様はとうとう深く頭を下げられた。長男様の前へ、父上の前へ、そして品を運んでいた下の者どもの前へも、見えるように深く下げた。礼は尽くした。顔も崩さなかった。


 だが頭を上げるまでが、ほんのわずかに遅かった。


 私はその遅れを見た。


 若様は兄を憎んでおられぬ。むしろ、あの柔らかい統べ方を、自分にはない資質として認めておられる。その理解があるからこそ、傷が浅く済まぬのである。


 出来ぬ者が退けられたのではない。出来るようになったときには、もう家の順が決まっていた。そういう遅れ方をする礼は、たいていあとまで残る。


 しかも長男様は、若様の才を軽んじてもおられぬのである。それがまた堪えた。軽く見ている相手なら、いっそ怒れる。だが長男様は若様が外で立つに足ると知っている。知ったうえで、外で困らぬよう整える。


 その穏やかさは優しさであると同時に、もう家の中の役が定まっていることの証でもあった。


 若様は、受け取った品をすぐには見なかった。ただ一度だけ、いちばん上の紙束へ目をやり、それからまた視線を落とした。物の実際を先に見る人が、そうして目を逸らすときは、たいてい胸の内の方が詰まっている。


3.


 その晩、父上は若様を奥の間へ呼ばれた。私も端へ控えたが、灯りは低く、いつもの帳場よりずっと息の詰まる部屋だった。


 福海大人はすぐには口を開かれなかった。大きな手を膝に置いたまま、若様を見、ついで昼に見た長男様の立ち居振る舞いを思い出しておられるような顔をなさった。


 家のことを決めるときの父の顔であって、商いの利を決めるときの顔とは少し違った。


 やがて、低い声で言われた。


「お前が悪いんじゃない」


 若様の肩が、ごくわずかに動いた。


 私は、その先を半ば知った。慰めの入り口に似た言葉ほど、商人はそこから甘くはしない。


「遅すぎたんだ」


 福海大人は、それだけ言われた。


 部屋が静まった。火のはぜる音が、妙に乾いて聞こえた。


 若様は何も言わなかった。言い返せぬからではない。父上の言葉が、家長として正しいと分かってしまったからである。


 長男様がもう人を残し、家を住める場所として保たせている。そのあとで次男が、帳面の破れを見つけ、損耗を止め、家の外で大きく立つ目を得た。どちらも要る。だが同じ座には置けぬ。


 家というものは、そういう順でしか続かぬときがある。


 私には、それがよく分かった。


 私が切られたのは、もっと分かりやすい理である。賊にさらわれ、売られ、去勢され、役に合わせて削られた。ただそれだけだ。珍しいことでもない。


 誰がどの値で売れるか、何に向くか、そういう理は露骨で、だからまだ飲み込みやすい。


 だが若様の傷は違う。父が正しいと分かる。兄も正しいと分かる。自分の才も、認められていないのではないと分かる。それでも、その正しさの置き方の外へ出される。


 若様は父上を恨みきれぬだろう。父上が家を守る側の理で言っておられるからだ。恨みきれぬまま深く入る刃物というものが、この世にはある。私はその重さを、あの沈黙で見た。


 福海大人もまた、楽な顔ではなかった。言い切っておられたが、切り捨てる者の顔ではなかったのである。もっと早く成安がこの目を持っていれば、あるいは違ったかもしれぬ。


 そういう「かもしれぬ」を飲み込んだうえで、それでも家の順を崩さぬと決めた者の顔だった。家長とは、たいてい後味の悪い正しさを引き受ける者である。


 私はそのとき、信仰のことも血のことも考えなかった。ただ、この家は長男様で回り、若様は外で立つ、と、それだけが分かった。家の外から来た私に見えたのは、その順の冷たさと、その順でしか保てぬ家の重さであった。


4.


 春節が明けると、若様は再び燕京へ戻ることになった。持たされた紙墨や塩や細々した品は、きちんと荷へ収まっている。長男様は見送りの場でも、余計な言葉を重ねなかった。


 ただ風はまだ冷えるから、とだけ言い、父上は先方に恥をかかせるな、といつもの短い声で言われた。


 どちらも、若様を外で立たせる者の声であった。


 馬を進め、通州の家並みが少しずつ後ろへ下がってゆく。行きの道では、私は若様の横顔にまだ張りつめたものを見ていた。だが帰りの若様は、妙に静かだった。


 腹が立っている顔でもなく、泣きたい顔でもない。ただ、何か重いものを内へ沈めた者の顔である。


 私も、もう何も言わなかった。


 こういうときの若様は、慰めても余計に固くなる。理屈を言っても傷が増える。ならば黙るほかない。家の外の者である私にできるのは、その沈黙の重さを量り損ねぬことくらいである。


 道の脇には、春を待つにはまだ早い色の畑が続いていた。風は乾いており、荷の革紐がときおり小さく鳴った。


 同じ道でも、行きとは違う重さがあった。


 若様は一度も後ろを気にするふうを見せなかった。前だけを見て馬を進め、燕京へ着けばまた帳面と人のあいだへ戻る顔をしておられた。だが、そういう静かな顔のときほど、この人は深いところで何かを抱え込んでいる。


 通州の城門が見えなくなる手前で、若様はふいに手綱を緩められた。


 それから、何も言わずに振り返った。


 冬の薄い光の向こうに、通州の町が小さく沈んでいる。李家の倉も帳場も、もうここからでは見えぬ。ただ、あちらに家があるということだけが分かる。


 若様はしばらくその方を見ておられた。


 私も振り返りはしたが、何も言わなかった。若様もまた、ついに一言も口になさらなかった。


 やがて手綱が戻され、馬はまた燕京への道へ向いた。

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