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家譜 ~中書省員外郎 李成安の生涯  作者: 早瀬 構
第二部

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第18話

1.


 一二二八年一月。春節前までのあいだ、若様は草原入りに備えて、ひたすら帳面と地図の上で人と家の流れを見ておられた。


 政庁の書記部屋で扱う紙は、冬になるといっそう性質が悪い。乾いているくせに、冷えた指では思うようにめくれぬ。筆先はすぐ鈍り、墨は濃く出すぎる。そういう朝ほど、若様は妙に静かで、妙に冴えていた。


 左に置くのは、北辺から上がってきた補給控え。右に置くのは、近ごろようやく手に入るようになった宿継ぎの記録や、北筋商人どもの書付である。真ん中には、粗い地図が一枚だけあった。


 そこへ若様は細い筆で小さな印をつけ、線を引き、また消した。


「まず家だ」


 と、若様はある朝、ぽつりと言った。


「何がです」


「見ねばならぬ順だ」


 それだけ言って、また紙へ目を落とす。


 若様が見ていたのは、トルイ家の家産であった。馬群、冬営地、従う家人の数、倉の位置、奥向きの出納。もちろん、まだ草原へ入ってもいないのだから、全部が手元で分かるはずもない。


 だが若様は、分からぬなりに輪郭だけでも先に立てておきたかったのである。


「家のものが分からねば、

  どこまでが持ち出しか分からぬ」


 そう言って、若様は地図の端を指で押さえた。


 次に見ていたのは、東モンゴルウルスそのものの役割であった。どこで何が出るか。どこが人と馬の溜まり場になるか。どこが通るばかりで蓄えの厚くならぬ土地か。


 若様の目は、版図の広さや聞こえのよい威勢へは向かわぬ。産品、宿継ぎ、草、塩、革、そして人足の疲れ方へばかり向く。


 さらに、他の家との出入りも見ておられた。誰がどこへ何を出し、どこから何を受けるのか。


 名目のうえでは互いに助け合っているように見えても、いざ後始末の帳面へ落としてみれば、片方ばかりがよけいに疲れることがある。若様はそこを見ていた。


 最後に若様が紙へ書いたのは、もっとも嫌な仮の一行であった。


「本家ゆえの先行負担、か」


 声に出して読み、それきりしばらく黙った。


 私はその字を見て、少しだけ背筋が寒くなった。収奪とまでは書かぬ。そういう置き方をするときの若様は、たいてい後でよく当たる。


2.


 春節が近づくと、政庁の人間どもも少しばかり落ち着かなくなる。表では年の改まりを口にするが、腹の底では、いつどこへ帰れるか、何を持ち帰れるか、そこばかり気にしている。紙の流れも人の足も、どこか浮き足立つ。


 だが若様だけは、そういう熱の外にいた。


 ある夕刻、私は湯を運びながら訊いた。


「若様は、西の方はご覧にならぬのですか」


「西とは」


「ジョチ家やチャガタイ家です」


 若様は筆を置かず、


「今は騒音だ」


 と言った。


「遠い」


 それだけで済ませたので、私は少し笑いそうになった。あれほど大きな家々を、遠い、で切る若者も珍しい。


 だが、若様の言うことも分かるのである。いま若様が見ようとしているのは、帝国の果てまで含めた大きな地図ではない。


 これから自分が入る家が、どこで痩せているか、その流れである。遠いところでいくら派手に騒ぎがあっても、それがただちにトルイ家の倉や、東モンゴルの馬腹へつながらぬなら、先に勘定へ入れる気はないのだろう。


 代わりに若様は、オゴデイ様とトルイ様の位置だけを比べ始めた。


「どちらが強いかではない」


 若様はそう言った。


「どちらが配る側で、

  どちらが持つ側かだ」


 それは、いかにも若様らしい見方であった。人柄でも威勢でもない。誰が命じ、誰が帳尻を払うか、その流れだけを見る。


「オゴデイ様の方が、

  配る側でございますか」


「名目を持ちやすい」


 若様は短く答えた。


「トルイ様の方は、

  不足を先に呑む家に見える」


 私はそこで黙った。若様の目には、たぶんもう見えているのである。トルイ家は大きい。強い。だが、その強さのわりに、流れる物の旨味をきれいに吸えていない。流れの近くにはいるが、利の中心にはおらぬ。


 本家だから出す。中心に近いから持つ。その理で家が少しずつ痩せる。若様には、それが紙の上からでも半ば見えているのだろう。


「家の内を預かる者なら、

  もう気づいているはずだ」


 若様はふいにそう言った。


「何にです」


「割に合わぬことに」


 それきりまた黙る。


 私は、そのとき、まだその先までは考えていなかった。若様の頭の中では、もうトルイ家の当主だけでなく、その家を内から見る者の目まで、勘定のうちへ入り始めていたのである。


3.


 春節前の最後の執務日だったか、あるいはそのひとつ前だったか、そこはもう曖昧である。とにかくその日、若様は珍しく、人に見せるための控えとは別に、自分だけのための紙を一枚作っていた。


 粗い字で、四つの見出しだけが並んでいる。


――トルイ家の家産。

――東モンゴルウルスの役目。

――他家との出入り。

――本家ゆえの先行負担。


 その四つのあいだへ、若様は細い字で短く注を入れていた。断定ではない。みな「か」「の恐れあり」「現地照合要」といった留保つきである。見えたからといって、まだ現地も見ぬうちから言い切らぬ。そのあたりは、さすがに若様も少しずつ使い方を覚えたらしかった。


 私は横からその紙を見て、


「若様」


 と声をかけた。


「何です」


「これは、帳面ではなく、腹の中身ですな」


 若様は、すぐには何も言わなかった。


 図星だったのであろう。前なら、違う、これは事前調査だ、再発防止の筋だ、といくらでも理屈が返ってきたはずである。だが今の若様は、そういうときすぐには返さぬ。


「……腹の中身でもある」


 やがて、低くそう言った。


 私は少しだけ笑った。見えるものだけは老いているくせに、こういうときだけ妙に若い。


「トルイ様を買っておいでですか」


「人を買う買わぬではない」


 若様は眉を寄せた。


「立ち位置の話だ」


「はい」


「持つ側ばかりが痩せるなら、

  いずれ帝国そのものが保たぬ」


 その言い方に、私はまた少し寒くなった。この若旦那は、誰か一人の損得を語っているつもりではない。だが、いま心が引かれているのはたしかにトルイ家の方なのだ。


 出すのが当然と思っている家。持つのが当然と思っている当主。その当たり前の下で、黙って割に合わぬものを呑んでいるであろう家。


 若様はその紙を折り、袖へ入れた。


「草原で見る」


 とだけ言った。


 私は湯の冷めた椀を片づけながら、その横顔を見た。もう家に入る前から、若様は半ばトルイ家の帳面の続きを考えている。そう見えた。


4.


 その日の帰り、廊下で晋卿様に呼び止められた。


 大げさな用向きではない。従者も少なく、声も低い。若様が一礼すると、晋卿様はその顔を少しだけ覗き込み、


「春節前まで、よく紙を繰ったな」


 とだけ言った。


 若様は短く頭を下げた。私は一歩後ろへ退いて控えた。


 晋卿様は、若様が何か抱えていると最初から分かっている顔であった。人の腹の内を暴くのでなく、置きどころだけ見ている顔である。


「見立てはどうだ」


 そう問われて、若様は少しだけ黙った。だが、やがて答えた。


「トルイ家は、持つ側に見えます」


「うむ」


「本家ゆえに先に出し、

  そのまま呑んでいる恐れがあります」


 晋卿様は、そこで初めて口元をゆるめた。笑いというほどではない。筋は悪くない、とでも言うようなわずかなゆるみである。


「悪くない」


 やはり、そう言った。


「ただし、家を見るなら、

  当主だけ見ていては足りぬ」


 若様の肩が、かすかに動いた。私はそのとき、何を言われるのか半ば分かった気がした。


 晋卿様は廊下の薄い灯りの下で、静かに続けた。


「オゴデイ様を見るなら、

  ドレゲネ様を抜くな」


 それだけであった。


 若様はすぐには返事をしなかった。分からぬのではあるまい。ただ、そこまでは見ておられなかったのだろう。自分の見立てに、まだ抜けていた一手があったと、その場で知った顔であった。


 やがて、深く一礼した。


 晋卿様はそれ以上、何も足さずに去っていった。いかにもあの方らしい置き方である。全部は教えぬ。ただ、次に見るべき場所だけを示して去る。


 廊下に残ったあと、若様はしばらく動かなかった。私は声をかけなかった。こういうときの若様は、返事より先に、自分の帳面を頭の中で繰り直している。


 やがて若様は、小さく息を吐いた。


「……家を見るなら、妻を抜くな、か」


 独り言のようにそう言って、また黙った。


 冬の燕京は、息を吐くたび白い。春節は近い。だが若様の頭の中では、もう年の改まりより先に、草原の大きな家と、その家を内から量る女たちの顔が並び始めているのだろう。


 私はその横で、何となく、次の帳面は前よりも、紙の外まで見ねばならぬ帳面になるぞと思った。

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