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家譜 ~中書省員外郎 李成安の生涯  作者: 早瀬 構
第二部

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第17話

1.


 一二二七年十二月末。政庁へ入ってから、そろそろ二月が過ぎようとしていた。


 その朝も、私は若様と向かい合って帳面を繰っていた。徴発帳簿を左へ、補給要請記録を右へ置き、合うはずの数がどこで合わなくなるかを一つずつ拾ってゆく。


 火桶の熱は弱く、指先はすぐ鈍る。だが若様だけは、こういう朝ほど妙に冴えていた。


 私はその横で、久しぶりに深いため息を吐いた。


 漢土の常識でもない。西域の常識でもない。もっと雑で、もっと強引で、それでいて妙に広く動く理が、そこにはあったからである。


 帝国は、カンの子らがそれぞれ一家を構え、それぞれが兵と馬を備えている。だが、どこまでが家の持ち分で、どこからがウルスの持ち分で、どこからが帝国そのものの持ち分か、その境がひどく曖昧だった。


 足らぬところがあれば、他所から埋める。


 言葉にすれば、それだけである。家の馬を借り、別の倉の塩を回し、誰かの人足を少し前へ出す。そうして一つの戦を押し切るぶんには、この雑さはむしろ強い。


 若様は帳簿から目を離さぬまま、ぽつりと言った。


「一つなら押し切れる」


 私は黙っていた。若様はさらに続けた。


「だが、二つ三つと膠着すれば、

  融通そのものが損耗になる」


 筆先が止まり、細い指が帳面の余白を押さえる。


「家のもの、ウルスのもの、

  帝国のものが分かれていない。

  だから、どこも自分の勘定を

  最後まで持たない」


 その言い方に、私はまた少し寒くなった。


 この若旦那は、勝ち戦の景気も、皇子たちの威勢も見ていない。誰が最後に帳尻を払わされるか、その流れだけを先に見ている。


 しかも今見ているのは、まずモンゴルの内輪である。内輪の論理としては強い。強いが、広がれば広がるほど、誰の持ち分で何を食わせたのかが曖昧になる。


 若様は地図の端を指でなぞった。


「内輪で回しているうちは、まだいい」


 その低い声で、私は次に来る言葉を半ば知った。


2.


 若様が朱を入れた箇所は、どれも似た臭いを放っていた。


 近郊倉に残る穀を使わず、別筋から新たに徴っている。家の馬を出したことになっているのに、補給要請では帝国側の草料が付いている。徴発の名目は皇子家の軍営にありながら、実際の補いは別の倉へ逃がされている。


 取るときは皆、勢いがよい。


 だが取ったあとの責は、誰もきちんと抱えたがらぬ。


「問題は、その理を外へ出すことだ」


 若様は、一本の細い線を地図の上へ引いた。


「モンゴルの内輪で足りぬところを

  埋めるのと、

  征服地から同じように取るのとでは、

  話が違う」


 私は顔を上げた。若様はようやくこちらを見た。


「埋める、という言い方は便利だ。

  だが埋めるとは、結局、

  どこかから取ることだ」


「ええ」


「取れば、村が痩せる。畑が荒れる。

  逃げた者は、もう作らない」


 そこまで言って、若様は一度口をつぐんだ。私はその沈黙の先を、もう半ば知っていた。


「内輪の融通なら、

  まだ同じ帝国の内で回せる。


  だが征服地にまで同じ理を

  押しつければ、

  徴発と略奪が同じになる」


 低い声で、それだけ言った。


 若いくせに、嫌なほど筋の通った言い方であった。勝った負けたの話ではない。土地が痩せ、人が逃げ、あとで税を取る相手そのものが消えてゆく。その腐り方ばかり先に見ている。


 私は、書きかけの控えへ目を落とした。たしかにこれは、ただの兵站の綻びではない。帝国が大きくなればなるほど、モンゴルの内輪では便利だった融通が、そのまま征服地を痩せさせる理へ変わってゆく。


「略奪の記憶だけ残れば、

  民は面従腹背になる」


 若様は最後の行へ筆を置いた。


「それゆえ、

  税と行政は確立されねばならぬ」


 帳面の上へ、はっきりそう書いた。


 そのとき部屋の戸が鳴った。私はてっきり元締めか古参書記の使いかと思った。だが入ってきたのは、もっと重い人であった。


3.


 晋卿様である。


 しかも、堅苦しい顔ではなかった。従者に小さな包みを持たせ、こちらを見るなり、


「火桶の前で干からびる前に食え」


 とだけ言った。


 包みを開けば、羊串であった。あの屋台のものほど脂は強くないが、冷えた書記部屋には充分うまそうな匂いが立った。


 若様はすぐには手を出さず、筆を置いて一礼した。晋卿様は勝手知ったる顔で火桶のそばへ座り、帳面の束を見た。


「まだ合わぬか」


「合いません」


 若様は短く答えた。


「合わぬ、というより、

  合ってはならぬものまで

  合っているように見せています」


 晋卿様の目が、少しだけ細くなった。若様はそこで止まらなかった。


「各家産とウルスと帝国の境が

  立っておりません。

  足らぬところを他所から埋めるから、

  局地では強い。


  だが版図が広がれば、

  融通そのものが損耗になります。


  しかも、その理を征服地へ

  押しつければ、

  徴発は略奪と変わらなくなる。


  民が逃げ、畑が荒れれば、

  税も立ちません。


  ゆえに税と行政を

  確立せねばなりません」


 一息にそこまで言い切って、若様はようやく黙った。


 私は横で、少しばかり気が遠くなった。羊串を差し入れに来た相手へ、そのまま帝国の病理を投げつける。若いにもほどがある。


 だが晋卿様は、怒りも笑いもせず、串を一本取り上げた。指の脂を布でぬぐい、ゆっくりひと口噛んでから、低く言った。


「それが、私やビチクチどもの苦闘だ」


 若様の肩が、ごくわずかに動いた。晋卿様は続けた。


「家のもの、ウルスのもの、

  帝国のもの、その境を立てる。

  言うは易い。

  だが私は最初、取られる側にいた」


 部屋が静まった。火桶の炭の音だけが、小さくはぜた。


「焼かれる土地も見た。

  荒れたあとの静けさも見た。

  それから帝国の内で、

  紙と人を回してきた。


  人を殺し、畑を焼き、

  草を生やして羊を殖やすか。

  領土を治め、税を立て、

  国に付く民を増やすか。


  この十二年は、

  結局その二つのあいだで

  引き裂かれてきた」


 若様は何も言わなかった。言えなかったのだろう。見えたからといって、通せるわけではない。しかも通りかけたところで、カンが崩じた。


 私はその先の言葉を、晋卿様がどう置くか待った。


4.


 晋卿様は串を皿へ戻し、若様をまっすぐ見た。


「三男は、立つ」


 ぽつりとそう言った。


「四男は今、国を預かっている。

  だが、あれは末子の座ゆえだ」


 そこで一度切り、わずかに息を吐く。


「話が通る者はいる。

  だが、誰一人まだ、草原の習いの外へ

  出たわけではない」


 若様の目つきが少しだけ変わった。ここから先は、もう帳面の愚痴ではない。配置の話、人の置きどころの話になる。


 晋卿様は、卓上の帳簿へ指を置いた。


「帝国を、一息に変えられると思うな」


 声は静かで、だからこそ重かった。


「まず家だ。最も大きな家の内で、

  家産を家産として立てねばならぬ。

  そこへ税と行政の筋を

  通さねばならぬ」


 若様は、そこで初めて少しだけ息を呑んだ。もう何を言われるか、半ば見えたのだろう。


 案の定、晋卿様はためらわなかった。


「お前を、ソルコクタニ様の側近に付ける」


 その一言で、部屋の寒さが別のものに変わった気がした。


 若様はすぐには返事をしなかった。だが顔色が悪くなったのではない。むしろ逆である。やっと自分の帳面の続きが、別の場所へつながったと知った顔であった。


 私はというと、胸の底が少しだけ冷えた。ソルコクタニ様の側近に付く。それは若様にとって栄えでも何でもない。もっと厄介な帳面へ移される、ということだ。


 晋卿様はもうそれ以上、何も言わなかった。言わずとも足りたのだろう。若様もまた、ようやく深く頭を下げた。


「……承りました」


 低い声で、そう答えた。


 羊串の匂いは、まだ少し部屋へ残っていた。だがそのぬくみより先に、私は次に見ることになるだろう大きな家の帳面を思っていた。


 家のもの、ウルスのもの、帝国のもの。


 その境の立たぬまま、最も大きな家が動いているのなら、たしかに厄介である。


 若様はもう、その厄介の中へ送られる。


 私は冷めかけた串を一本取り、ようやく口へ運んだ。脂はまだ残っていたが、味わう余裕はなかった。

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