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家譜 ~中書省員外郎 李成安の生涯  作者: 早瀬 構
第二部

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第16話

1.


 一二二七年十二月中ごろ。燕京の冬は、風より先に紙を冷やす。


 朝まだきの書記部屋は、火桶の熱が回りきる前から筆の音だけが細く続き、誰も余計なことを口にしない。息を吐けば白くなり、指先は墨を含んだまま少しずつ鈍る。


 そういう朝に限って、若様はよく働いた。


 晋卿様に呼ばれてからというもの、若様は前より静かになった。いや、もともと口数の多い方ではない。だが前は、見つけた破れをそのまま紙へ出す静けさだった。


 今は一度どこかで止まり、誰へ渡すかを先に勘定へ入れる静けさである。


 徴発帳簿を左へ置く。補給要請を右へ置く。倉別残数の控えを真ん中へ寄せる。その順は変わらぬ。ただ、前ならすぐ朱を入れたところで、今は別紙へ控えを取る。筆を止め、行の間を見て、また別の帳へ戻る。


 古参書記が、その手許を見て言った。


「李成安」


「はい」


「補給筋の遠回りと、退蔵の筋、どう見る」


 若様はすぐには答えず、控えの端をそろえた。


「三案あります」


 その場の空気が、そこで少しだけ動いた。


 若い書記が三案出すと言えば、たいていは一つの言い方を三つの衣に着せたようなものになる。だが若様の三案は、ちゃんと三つとも別の顔をしていた。


 一つは、近郊倉の在庫を先に吐かせる穏当案。補給筋の面子をなるべく削らず、今ある塩と穀だけを少し前へ回す。


 一つは、補給要請の起票順を改める実務案。近村から徴る前に、城外倉の在庫消化を照合へかける。面倒だが、筋は通る。


 最後の一つは、聞いた途端に私でも喉のあたりが少し冷えた。


 遠距離搬送を担当した筋へ、不足責任まで一つに負わせる。今季の再徴発権を止め、近郊倉からの補給へ一本化する。要するに、無駄の出た流れを切るだけでなく、その無駄が次に逃げる道まで塞ぐのである。


 古参書記は、一つ目と二つ目では顔色を変えなかった。だが三つ目まで来たところで、筆を持つ手がほんの少し止まった。


 周りの書記どもが、控えの受け渡しを装いながら、ちらちらこちらを見る。


「おい……」


「静かになったと思ったら」


「あの若造、前より冷えてないか」


 声は低い。だが低いからこそ、よく通る。


 若様は聞こえていない顔で、紙の端を指で押さえていた。前なら、そのまま一番きれいに締まる三つ目を一枚の報告へして上へ出したろう。だが今は違う。三案を古参書記の机へ置き、その先のことは何も言わぬ。


 古参書記はしばらく三枚を見比べ、それから三つ目を裏返した。


「上へ出すのは二つ目だ」


「はい」


 若様はそれだけ答えた。答えたが、納得の早い顔ではなかった。


「三つ目は正しい」


 古参書記は低く続けた。


「正しいが、正しすぎる。

  今それを出せば、

  塞ぐ前に皆が身構える」


 若様は黙っていた。私は湯を置きながら、その横顔を見た。返す言葉を選んでいるのではない。腹の中で、まだ三つ目の方がきれいに締まると思っている顔だった。


 そういうところである。静かになった。だが静かになった分だけ、紙の奥へ置く刃が見えやすくなった。


2.


 昼過ぎ、若様はいつにも増して口を利かなかった。


 元締めの使いが来ても、控えを渡すだけで終わる。若い書記が筆洗をひっくり返しても、前のように「そこが後で腐る」とは言わぬ。ただ黙って布を寄越し、濡れた紙を先に拾う。


 周りはそれを見て、なおさらひそひそ言った。


「本当に静かになったな」


「晋卿様に何を言われた」


「静かなのに、前より嫌だ」


 最後の一言には、私は少し笑いそうになった。たしかにその通りだったからである。


 日の傾くころ、ようやく人の出入りが細った。若様は紙束をひもでまとめ、私へ渡した。


「先に戻っていてよい」


「若様」


「何です」


「三つ目は、

  上へ通す気はなかったのでしょう」


 若様の指が、そこで止まった。


「……なかった」


「晋卿様の教えも、古参殿の癖も、

  もう見ておられる」


「だから三つ出した」


 答えはまっすぐである。嘘ではない。だが、それだけでもないと私は思った。


「ええ」


 私は紙束を抱え直した。


「二つは見せるためでしょう」


 若様は顔を上げた。少しだけ、嫌な予感のした子の顔になる。


「何が言いたい」


「三つもあったら、

  ひとつは本音を出したいだろ、

  という顔をしておいででした」


 若様は、すぐには何も言わなかった。


 いつもなら、理屈が一つ返ってくる。違う、あれは再発防止のためだ、見えている筋を控えぬ方が危うい、そういう筋の立った返しが来る。


 だが来なかった。


 若様はただ、机の木目でも見るように視線を落とし、しばらく動かなかった。


 その沈黙で、私は言いすぎたかと思った。だが、次に出た言葉で、やはり図星だったのだと知れた。


「……私はそんなにわかりやすいか」


 低い声で、半ば独り言のように言う。


 私は少しだけ肩をすくめた。


「分かりやすいのではありません。

  長く見ておりますので」


 若様はなお黙った。怒った顔はしなかった。ただ、図星を刺された若い者らしい、どうにも納まりの悪い顔をしていた。


「そういうところですよ、若様」


 それだけ付け足すと、若様は小さく息を吐いた。


 この方は十七である。見えるものだけは嫌に老いているくせに、こういうときの黙り方はまだ若い。私はそれが少し可笑しく、少し気の毒でもあった。


3.


 その夜、若様は珍しく自分から、帰りに羊肉を食うと言った。


 私はてっきり腹いせだと思った。図星を刺され、三案目も切られた。そういう夜に、若い男が酒や肉へ流れることくらい珍しくもない。


 裏路地へ入ると、炭火の赤が低く滲み、煙が冬の空気の下の方へたまっていた。いつもの屋台である。羊脂の落ちる匂い、塩の粒がはぜる音、客の荒い息。政庁の墨臭さとは、まるで違う世界であった。


 若様は腰を下ろすなり、串を三本取った。一つ目を食い、二つ目を食い、三つ目の途中で、もう一本追加した。


 私は思わず眉を上げた。


「今日はよく召し上がりますな」


「腹が減った」


 若様は短く言った。


 だが、腹だけではあるまい。考えが腹へ落ちぬとき、人はこういう食い方をする。


 隣の卓では、炭の値がまた上がったと誰かが愚痴を言い、別の男が宿継ぎの藁が薄いと吐き捨てた。若様は前のように口を挟まなかった。だが聞いていない顔でもない。串を食いながら、やはり人の財布の軽さと、愚痴の向く先だけは拾っている。


 まったく、どこへ行っても損耗を食って生きる人である。


「若様」


「何です」


「三案目、そんなに惜しかったですか」


 若様は串の先を皿へ置き、少しだけ考えるような顔をした。


「惜しいというより」


「ええ」


「……あれがいちばん、

  きれいに止まる」


 私は苦笑した。


「ほら、やはり本音ではありませんか」


 若様は、そこで何も返さなかった。代わりに盃を取り、ひと口だけ飲んだ。


 若いくせに、妙に可愛げのない本音である。もっとも、若いからこそ、その可愛げのなさがまっすぐ出るのかもしれぬ。


 帰り道、若様は少し歩みが遅かった。酔ったのではなく、考え込んでいるのである。羊肉を四本食っても、腹より先に頭が重いらしい。


 私は横で黙って歩いた。こういう夜は、下手に慰めぬ方がよい。若様は慰められると余計に腹を立てる。


 ただ、ひとつだけ思っていた。


 静かになった。たしかにそうである。だが、静かになったから丸くなったのではない。前は場の真ん中で人の顔色を冷やした。今は紙の奥へ、人の逃げ道がなくなる案をそっと忍ばせる。


 どちらがましかは、私にもまだよく分からなかった。


4.


 翌朝、若様の机の上に、見慣れぬ木簡が一本置かれていた。


 紐も飾りもない。公文の顔でもない。だが誰の手で載せられたものか、考えるまでもない気配があった。


 若様はそれを取り上げ、裏返した。私も横から覗き込む気はなかったが、若様の目の動きだけで、短い文だと分かった。


 しばらく、若様は動かなかった。


 苦笑ともため息ともつかぬ息を一つ吐き、ようやく木簡を机へ戻す。その顔は、昨夜の三案目を切られたときより、むしろ困っているように見えた。


「何と」


 私が訊くと、若様は少しだけ顔をしかめた。


「読むか」


 木簡をこちらへ寄こす。私は受け取り、刻まれた文字を見た。


――羊は悪くない。過ぎるのが悪い。 ひげ


 私は危うく吹き出しかけ、慌てて口を結んだ。


 若様は私の顔を見て、ますます困ったような顔になった。怒るにも怒れぬ種類の負けである。


 昨夜の羊を食いすぎたことまで、もうあの方の手のうちへ入っているらしい。


 若様はしばらく木簡を見ていたが、やがて小さく息を吐いた。


 それは降参でも、感心でもない。ただ、敵わぬ相手を知った者の、乾いた苦笑いに近かった。


 私は横で黙っていた。黙っていたが、胸のうちでは同じことを考えていた。


 昨夜の羊まで咎められるなら、あの方はいったい、目と耳と手足をどこまで伸ばしているのだろう。

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