第15話
1.
私はすぐには頭が回らなかった。
昨夜まで羊串の脂をひげへ付けていた男が、今朝は元締めの席で、若様の報告書を指先ひとつで押さえている。
耶律楚材――紙墨商のふうをしていた耶律晋卿その人である。同じ顔である。だが座る高さが違えば、人は別の生き物に見える。
元締めが、我ら二人へ座を勧めた。若様は一礼し、私も遅れて頭を下げた。
晋卿様は、こちらの狼狽など最初から勘定の外に置いているような穏やかな顔で、
「君の報告書を読ませてもらった」
と言った。
若様は何も言わなかった。顔つきは硬いままである。褒め言葉の先を待つ者の顔ではない。何を削られるか、どこを咎められるか、先にそちらを数えている顔だった。
晋卿様は紙から目を離し、いったん瞼を閉じた。
「よく見えている。兵站の破れが、
一枚で分かる」
そこで少し間を置いた。
「だが、明快が次の破れを生むこともある」
私はその一言で、昨夜の屋台の炭火を思い出した。若様の言葉は、いつでも火力が強い。よく焼けるが、そのぶん脂も早く落ちる。
若様はなお黙っていたが、眉間だけがわずかに動いた。意味が分からぬのではあるまい。分かるからこそ、すぐには返せぬのである。
晋卿様はそれ以上そこで詰めなかった。人を追い詰めるのに慣れた者ほど、必要なところで手を止める。そういう止め方だった。
2.
晋卿様は自ら立ち、棚から小さな壺と茶碗を出した。
「これは茶という」
静かにそう言って、湯を注いだ。
「いずれ、帝国の内で当たり前になる品だ」
細い湯気が立ち、昨夜の羊脂とはまるで違う香りが部屋へ広がった。麦湯でも乳酒でもない。苦いとも甘いともつかぬ、細い匂いである。
晋卿様は私と若様へも杯を勧めた。若様は一瞬だけためらい、それから受け取った。私もそれにならう。舌へ触れたときの熱さは強く、あとから香りだけが喉の奥へ残った。
「麦湯や乳酒とは違う趣があろう」
晋卿様がそう言うと、若様は小さくうなずいた。
「人も、荷も、土地も同じだ」
晋卿様はご自分の杯へも茶を注ぎ、旨そうに一口すすった。
「流れに沿って明らかにせねば、
あらぬ方向から爪が立つ」
私はその言葉を、半ば分かり、半ば分からずに聞いていた。若様の報告は、まさに明らかすぎたのだろう。
倉の無駄、徴発の遠回り、退蔵の筋。破れを塞ぐ者が見れば役に立つ。だが、まだ削れる、まだ取れる、と読む者の手に渡れば、別の破れの地図にもなる。
晋卿様はそこまで言うと、元締めの方へも茶を渡した。どうやらこの人は、茶を点てながらも講義をしているのではない。湯の通り方や、茶の行き先の話まで含めて、すでに帝国の絵図面を見ているのである。
3.
「漢土は広い」
晋卿様は杯を置き、若様を見た。
「草原の理だけでは収まらぬ」
その声に、怒りはなかった。だが、長く骨を折ってきた者の重みだけはあった。
「西では西の理が通ろう。
勢いで足りる地もある」
そこでわずかに口元をゆるめたが、笑いにはならなかった。
「だが、ここは違う」
「私はオゴデイ様のもとで、
紙と人を回す」
若様の肩が、ごくわずかに動いた。誰のもとで、という言い方に意味がないはずがない。政庁とは、書記部屋の帳面だけで成り立つ場所ではない。誰の名で紙が回り、誰の印で人が動くか、その順がすべてである。
晋卿様は続けた。
「そなたはトルイ家へ入れ」
私は思わず顔を上げた。若様も、そこで初めてはっきり晋卿様を見た。
「あの方は、まだ働きが届く」
「西の筋へ置くものではない。
そなたの目と筆は、
あちらの方が無駄にならぬ」
若様は口を開きかけ、また閉じた。嬉しい顔ではなかった。だが、怯えた顔とも少し違った。自分の置き場を、本人より先に見切られるとき、人はたいていそういう顔をする。
「今のそなたは必要だ」
晋卿様はそこで、若様の報告書へもう一度指を置いた。
「だが、そのままでは害にもなる」
若様はわずかに息を呑んだ。私は横でそれを聞きながら、妙に納得していた。李家でも、書記部屋でも、若様はいつもそうだった。破れを見つける。先に数える。当たる。だが当たるほど、人の顔色を冷やす。
晋卿様は若様を買っている。だが同時に、置き方を違えれば壊れるとも見ている。だからこそ、この短い言葉になるのだろう。
「ゆえに、使い方を覚えよ」
それが最後であった。
若様は深く頭を下げた。私もそれにならった。茶の香だけが、まだ薄く部屋へ残っていた。
4.
政庁を出ると、冬の空気は朝よりもいっそう乾いていた。
若様はしばらく何も言わずに歩いた。私は横目で顔を見たが、昨夜の屋台で羊串を前にしていたときより、かえって考え込んでいるようだった。
必要であり、害でもある――その言葉を、どう腹へ落とすか量っているのだろう。
やがて、若様が小さく言った。
「……明快に書けばよいわけでもない、
ということか」
私は答えなかった。こういうとき、若様は返事より先に自分で言い直す。
案の定、数歩ののち、
「いや、違うな」
と続けた。
「書く順と、見せる相手か」
そこでまた黙る。私は少し待ってから、
「若様は、買われましたな」
と言った。
「買われたくて行ったわけではない」
「では、嫌でしたか」
若様は少しだけ眉を寄せた。
「嫌ではない」
それから、ほとんど独り言のように、
「面倒なことだ」
と付け足した。
私は苦笑した。褒められた若者の顔ではない。重い帳面を一束、余計に背負わされた者の顔である。だが、若様にはそういう顔の方がよく似合うのかもしれぬ。
しばらく歩くうち、先ほどの茶の香がまだ喉の奥に残っているのに気づいた。あれは妙な飲み物である。熱いくせに、飲み下したあとも形だけ残る。
若様はふいに口を開いた。
「で、そもそも、茶は――」
そこで言葉が切れた。私は横目で若様を見たが、その先は続かなかった。たぶん若様の頭の中では、もう別の帳面が広がっているのだろう。
仕方なく、私は自分の分かるところで拾った。
「若様、宋はまだ健在ですぞ」
若様は少しだけ眉を寄せた。
「……分かっている」
それから、低く言った。
「だから面倒なのだ」
私はそれ以上、何も訊かなかった。若様が何をどこまで考えたのか、その全部を今ここで言葉にさせてしまうのは、何となく惜しい気がしたのである。
冬の燕京は、息を吐くたび白くなる。遠くで荷車のきしむ音がした。帝国の帳場も、草原の風も、南のまだ落ちぬ国も、そのきしみの先でどこかにつながっているのだろう。
若様はその先をもう考えていたのだろうが、私は訊かなかった。




