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家譜 ~中書省員外郎 李成安の生涯  作者: 早瀬 構
第二部

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第14話

1.


 一二二七年十二月初め。勝ち戦の報せというものは、冬へ入るころにはもう人の口の中で干からびている。


 誰それがどこを抜いた、何頭の馬を得た、どれだけの穀を収めた。そういう話は早い。早く届き、よく膨らみ、膨らんだぶんだけ帳面の外へこぼれる。


 そのあとで、ようやく残るのは、どこで何が足りず、誰がその穴をどう埋めたかという、乾いた話ばかりである。


 このごろの書記部屋へ回ってくる紙束も、まさにそうであった。徴発帳簿だけでは足りぬ、糧秣補給要請も合わせて見よ、と元締めが言い出したのである。


 軍へ回した穀、馬具、塩、草料。取った帳面はある。だが、それがどこへ行き、どこで足りず、どこで余ったかは、また別の紙に散っている。


 人は、取ったときの勢いはよく覚える。だが運んだあとの始末は、たいてい誰かの袖の下へ潜る。


 成安は、その散った紙を一つところへ集め始めた。


 徴発帳簿を左へ置く。補給要請を右へ置く。間へ簡単な地図を広げ、軍営と倉、宿継ぎの筋を細い線で結んでゆく。穀、塩、馬、その三つだけでも、線はすぐに重なり、しかも妙なところで遠回りしていた。


「若様」


 私が湯を置きながら言うと、成安は顔も上げなかった。


「何です」


「まるで軍師ですな」


 成安は鼻を鳴らした。


「軍師なら、勝つ道を考える」


 そう言って、補給要請の端を指で押さえた。


「私は、無駄の道を見ているだけだ」


 その日の若様は、いっそう嫌なほど冴えていた。


 近場の倉に塩が残っているのに、わざわざ遠い筋から馬で引いている。十日前に徴した穀が城外の倉で寝ているのに、別の補給要請では新たに近村から徴っている。帳簿だけなら、どちらも辻褄は合う。だが二つを並べると、運ぶ距離と寝かせた日数のぶんだけ損が膨らんでいた。


「ここです」


 若様は地図の上へ細い筆でしるしを付けた。


「近郊倉の塩三十駄を動かさず、

  十日遅れで遠方から十五駄を引いている。


  こちらは一月前に徴した穀が

  まだ城外倉にあるのに、

  今朝の補給要請では

  近村からまた徴っている」


 元締めは報告書を受け取ると、すぐには何も言わなかった。長い指で紙の端を押さえ、しばらく沈んでいた。


 古参書記どもは、皆あまりよい顔をしていなかった。徴発の帳面だけなら、見つからずに済んだ無駄である。補給要請まで並べられては、誰がどこで面倒を先送りし、誰が遠い倉へ責を逃がしたかまで見えてしまう。


 若様は、それを平気で一枚へまとめた。


 勝った話の腰を折るのが好きなのではない。ただ、あとで倉が空になる順を、先に紙へ書き出しているだけである。


 だが、そういう若い書記は、人に好かれぬ。


2.


 その夜、若様は珍しく、自分から帰りに屋台へ寄ると言った。


 私はまた羊串かと思い、半ば呆れ、半ば安心した。若い男が酒肆や妓楼へ流れるよりは、炭火の前で肉を食う方がまだよい。


 裏路地へ入ると、冬の夜気はもう骨へ入る冷たさであった。だが炭火のまわりだけは、脂の匂いと湯気で少しぬるい。


 いつもの屋台へ腰を下ろすと、店主はすぐに串を並べた。火の上で羊脂が落ち、炭がぱちりとはぜる。若様は一本目を口へ運ぶ前に、焼き色を見て、小さく息をついた。


「羊肉が大層気に入られたようですね」


 私がそう言うと、成安は少しだけ眉を寄せた。


「……気に入ったというより」


 そこで一拍、言葉を探すように串先を見た。


「軍需物資搬送の帰り荷に

  羊毛を積んでくれたら、

  華北での需要増に間に合うかもしれぬと、

  そう思っただけだ」


 言い終えてから、若様はわずかにはにかんだ。


 私は思わず苦笑した。


 肉を食ってうまいと思うより先に、帰り荷の積み替えを考える。この人は、とことん仕事本位である。


 そこへ、あのひげの男が卓へ着いた。前にも二度ほど顔を合わせた、街場の番頭めいた男である。衣は上等ではないが、くたびれ方が汚くない。


 男は私と若様へ、それぞれ軽く会釈をした。それから盃を受け取る前に、先に口を開いた。


「先日は礼を失しました」


 若様は串を置いた。


「商いの話なら、答えは変わりません」


 男は口角を上げた。


「無粋は致しません」


 それから腰を落ち着け、ひげを器用によけながら続けた。


「ただ、不思議に思うことがある。

  色目人と漢人が共に羊を食う図も

  なかなか面白いが、

  それより、あなたのお話だ」


 若様は黙っていた。男はそれを急かさず、しばらく串の焼ける様を眺めてから、ふいに言った。


「あなたは、何のために

  政庁で働いておいでかな」


 若様は一瞬、言葉に詰まった。


 帳面の綻びや倉の空き方なら、すぐに答える人である。だが自分のために何を求めるかとなると、途端に口が重くなる。


「……食べるためです」


 やがて、そう言った。


 男は目を細めたが、賛意も否定も返さなかった。


「食い扶持以外に、

  なにも求めないのですか」


 今度は若様が黙り込んだ。私は盃を持つ手が少しだけ冷えるのを感じた。こういう問いは、若様にとって薄い刃のようなものだろう。


3.


 男は視線を外し、炭火の向こうを見たまま言った。


「蓄財を好む人は、他人に好かれたがる」


 一本、串を返す。


「酒色を好む人は、程よい余幅を見せる」


 それから、若様へ向き直った。


「あなたからは、そのどちらも

  感じられなかった」


 肩をすくめ、少し笑う。


「名誉を重んじたいですかな」


「あるいは、神仙の境に

  魅入られましたかな」


 若様は、すぐには答えなかった。炭火の赤が横顔へ揺れ、目の下の影が少し濃く見えた。


「……買いかぶりです」


 ようやく、そう言った。


 男は細く長く息を吐いた。


「そういう方は、嫌いではありません」


 それだけ言うと、別の客の愚痴へ耳を向けた。炭の値が上がった、宿駅の藁が薄い、役所の書付は遅い。いつもの屋台の口である。男は相槌を打ち、笑い、やがて勘定を済ませて去った。


 若様はその背を追わなかった。ただ、盃の底を見ていた。


「若様」


 私が声をかけると、成安は顔を上げた。


「何です」


「気の抜けぬ客でしたな」


「そうだな」


 それだけであった。


 私は、それ以上聞かなかった。若様はたぶん、あの男の問いにうまく答えられなかったことの方を気にしていた。商いを断ったことでも、値踏みされたことでもない。自分が何のために働くか、その答えを持たぬまま問われたことの方を重く見ている顔であった。


 人はたいてい、欲を訊かれれば少しくらい飾る。出世だの、家のためだの、己の名のためだの、その場に収まりのよい答えを置く。


 だが若様は、それができぬ。


 食べるため、としか言えぬ。しかもその言葉が、半分は本当で、半分は逃げであることを、自分でも知っている。


 私は歩きながら、ああ、この人は損耗の数え方ばかり覚えて、自分の欲の言い方は置き忘れてきたのだ、と思った。


4.


 翌朝、書記部屋はいつもより早く冷えていた。


 軍需物資の配送見直しと、春先の不足見通し。若様はその二つを並べ、昨日の報告の続きを書いていた。近場の徴発先を動かさず遠路の輸送を重ねれば、春には馬も人足も保たぬ。塩を冬のうちに寝かせれば、湿りと目減りが先に出る。そういう嫌な算段ばかり、紙の上へ静かに積んでゆく。


 そこへ元締めが来た。


「二人とも、出頭せよ」


 短い声で、それだけ言う。


 私と若様は顔を見合わせた。訝しみながらも従って、元締めの部屋へ入る。


 その瞬間、私は足が止まった。


 元締めの椅子に、昨夜のひげの男が座っていたのである。


 炭火の前で羊串を回していたときと、顔そのものは変わらぬ。だが座る高さが違えば、人は別の生き物に見える。


 今朝は、書記部屋の空気そのものを沈めていた。


 私は思わず固まった。


 若様は、ほとんど無表情のまま一礼した。その横顔を見て、私はかえって背筋が寒くなった。驚いていないのではない。ただ、驚きを先に脇へ置いた顔だった。


 元締めが口を開きかけたが、その人物の方が先に、卓の上の紙から顔を上げた。


 そこには、若様の書いた報告書があった。徴発帳簿と補給要請を並べ、遠距離搬送と退蔵の無駄を書き出した、あの紙である。


 男はその紙の端を軽く押さえ、口角を上げた。


「昨夜来であるな」


 やわらかな声で、そう言った。


 それから、わずかに肩を引き、笑ったのかどうかも分からぬ薄い表情で続けた。


「……紙墨で食い扶持を稼ぐ、

  耶律晋卿じゃ」

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