第13話
1.
一二二七年十一月の末。燕京の政庁では、勝ち戦の報せほど当てにならぬものはない、と私はもう知っていた。
誰それがどこを抜いた、何頭の馬を得た、どれだけの穀を収めた。そういう話は早い。早く届き、よく膨らみ、膨らんだぶんだけ帳面の外へこぼれる。
実際に遅れて届くのは、減った馬の数と、足りなくなる穀の方である。
成安はその減り目ばかり見ていた。
没収品目録を開く。徴発帳を突き合わせる。軍需控えを繰る。倉別残数へ朱記を入れる。勝ち戦の報では埋まっているはずの数が、別の帳へ回ると妙に薄い。
若様は、そういう薄さを嗅ぎつけるのが早かった。
「ここで数が合いません」
そう言って示した先には、だいたい誰かの都合がある。馬を二十頭取ったことになっているのに、飼葉の控えがそれほど減っておらぬ。穀を三百石収めたはずなのに、倉出しの継ぎ目が二月先で急に痩せる。
盗んだ、と言い切れるほど露骨ではない。だが、このまま積めば春先に必ず腹が減る。そういう破れである。
周りの実務者どもは面白くなさそうだった。
「細かすぎる書記だ」
「若造が水を差す」
「勝った話の腰を折って、
何が楽しい」
通詞の役は便利である。表で交わす立派な文句より、水場や廊下で漏らす本音の方がよく聞こえる。私は湯を運び、控えを渡し、ついでにそういう罵りまで拾った。
だが成安は、別に堪えた顔をしなかった。褒められぬことにも、疎まれることにも、少しは慣れたらしい。ただ、勝ち筋の話へ酔う者どもの気分だけは、最初から勘定に入れていない顔であった。
この若旦那は、勝ち戦を見ぬ。
勝ったあと、どこが先に痩せるかを見る。
それが政庁では役に立った。役に立つがゆえに、人に好かれぬ。その順は、李家の帳場と大して変わらぬように私には思えた。
2.
もっとも、役に立つ者をまるで見ぬほど、政庁の古参書記どもも鈍くはなかった。
若い書記を褒めるなど、あの連中は滅多にせぬ。よくできたと言えば、その場の軽口に聞こえる。褒めた分だけ、周りの面子も軋む。だから彼らは、大げさな是認をしない。
代わりに、重い帳面を寄越す。
最初は徴発帳の継ぎ目だった。次は倉ごとの残数控え。さらに軍需の流れと没収品の照合。どれも、少し間違えれば春の補いが狂う類の帳面ばかりである。
成安の机へ、そういう束が一つ、また一つと増えていった。
「若様、増えましたな」
私がそう言うと、成安は束の紐を解きながら、
「そうだな」
とだけ答えた。
「認められたのでしょう」
「働かせやすいと思われただけだ」
言い方が、いつものように可愛げなく硬い。
だが私は知っている。あれが承認なのである。褒めぬ代わりに、より難しい帳簿を回してくる。それで潰れぬなら、次を積む。書記部屋の人間どもは、そういう手つきでしか相手を値踏みしない。
成安もまた、その意味くらいは分かっていたはずだ。
それでも、嬉しそうな顔はしなかった。むしろ逆である。帳面の束が増えるほど、若様の顔は険しくなった。働きが認められた喜びより、そこへ載ってくる責の方を先に見てしまうのだろう。
人はふつう、認められれば少し柔らぐ。肩の力も抜ける。口数が増えることすらある。
だがこの若旦那は、認められるほど黙り、認められるほど目つきが尖った。
まるで、褒められたのではなく、次に壊れる場所を一つ余計に背負わされたような顔になる。
私はそれを少し可笑しく思い、少し哀れにも思った。
必要とされることが嬉しくない人間など、そう多くはない。けれどこの若旦那は、必要とされるとまず損耗の増え方を数える。人の喜び方として、どこか外れている。
いや、外れているからこそ、こういう場所で使われるのかもしれぬ。
3.
十一月の末になると、成安はすっかり羊串屋台の常連じみていた。
手当が入ったあと、一度連れて行かれて以来、ときおり帰りにあそこへ寄る。私は最初、ただ肉が気に入ったのだと思っていた。
実際、若様はあの羊串をうまそうに食う。政庁の賄いより火力が違う、と前に言っていたが、たしかにその通りなのだろう。
だが今では、肉だけではないと分かる。
炭の値が上がれば、串屋の愚痴が変わる。銅が足りねば、客の払い方が渋る。徴発が重なれば、酒の席の口が荒くなる。若様は串を食いながら、そういう世間の綻びがどこで音を立てるか見ている。
賄いでは世情が見えぬ、と言ったのは本気だったのである。
もっとも、私にはときどき、それが世情拾いではなくあら捜しに見えた。
人の暮らしの厚みを見ているのではない。炭の減り、銭の渋り、口利きの気配、帳面の外で動く薄い便宜、そういうものばかり拾っている。
世に混じっているつもりで、結局は細かい悪事や綻びばかり集めているように見えるのだ。
それではいつか、正しいことを言っても、嫌な目つきの役人として見られぬか。私はそれを懸念した。
例えば、ひげを蓄えたあの男だ。前にも二言三言、言葉を交わしたことがある。衣はさほど上等でなく、だが汚くもない。市場の空気にはよく馴染む。紙墨商らしく、指先の脂気が妙に乾いていた。
今夜の男は、常より少し慇懃だった。
「紙墨の商売をしておりますと、
政庁とのお取引がどうしても
魅力的に映るものです」
羊串を一本、ゆっくり回しながら、そう言う。
「いかがでしょうか。
お試しに私共へご用命を
頂けませんかな」
成安は串の先を見たまま答えた。
「私は軽輩で、
便宜を図る立場にありません」
それから盃を置いて、続けた。
「それに、屋台でする話でもない」
男はそこで口角を上げた。軽い誘いを軽くいなされたときの顔である。怒ったのではない。まだ冗談のうちで押せると思っている顔だった。
「羊串の煙より、
白粉の香があるところの方が
お話もしやすいでしょう」
私は思わず眉をひそめた。あまり上等な誘いではない。こういう安い世故は、燕京の政庁勤めにいくらでも寄ってくる。若い書記なら、酒と女をあてがわれ、ついでに口を利かされることくらい珍しくもない。
だが、成安の顔つきは少しも崩れなかった。
4.
「どこへ案内されても、
私の立場と志向は変わりません」
成安は穏やかに言った。
「試供品を持って、
しかるべく政庁に手続きを
お願いします」
それだけであった。
大仰に叱るでもない。清廉を説くでもない。ただ、役目の外へ一歩も出ぬ理屈で、するりと切る。
ひげの男は一瞬だけ黙り、それから肩をすくめて笑った。
「ごもっとも」
言い置いて、勘定を済ませ、あっさり去った。未練のある顔でもない。こういう口は、駄目なら次へ回るだけである。
私はその背を見送りながら、妙な気分になっていた。
職責を利得に売らなかったことを、別に意外とは思わぬ。あの若旦那なら、そうするだろう。そういう男だ。
だが私が薄ら寒く感じたのは、そこではなかった。
この程度の世故まで、最初から役目を汚す垢として切って捨てるのか、と、そこに引っかかったのである。
大きな賄賂なら話は別だ。露骨な便宜なら、拒むのも分かる。けれど酒席の誘いと、紙墨商の軽い口利きの匂いまで、ひとまとめにして勘定の外へ置く。
人と役目のあいだにある薄い遊びも、曖昧さも、みな同じ瑕疵として拾ってしまう。
それでは、拾える世情も拾えなくなるぞ、と私は思った。
人の暮らしの機微を見ているつもりで、結局は細かい悪事ばかり拾い集めている。瑕疵に鼻の利く目つきで屋台へ通えば、いずれ市井そのものまで疑い始める。そういう若い役人は、年を取ると息苦しい。
昔の酷吏というものは、何も大悪をなした者ばかりではあるまい。
人の世に混じる薄い垢まで罪科のように数え始める者も、また別の意味で人を詰まらせる。
若様は羊串の最後の一本を静かに食い、串先を皿へ置いた。うまいとも、まずいとも言わない。
もう次に何を考えているのか、私にはだいたい分かった。政庁へ持ち込まれる紙墨の値か、今夜の男の口ぶりか、そのどちらかであろう。
だが私の胸に残ったのは、別のことだった。
この若旦那は、職責を利得に用いぬ。結構なことである。
ただ、その結構さが少し過ぎる。
過ぎた正しさというのは、ときに不正より息苦しい。私は羊脂の匂いの残る夜気のなかで、そういう種類の危うさを、若様の横顔に見た。




