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家譜 ~中書省員外郎 李成安の生涯  作者: 早瀬 構
第二部

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第12話

1.


 一二二七年十一月半ば。書記部屋では、十日ごとの手当が配られた。


 元締めが革袋を一つずつ渡し、受け取る側は名を呼ばれるたび短く頭を下げる。政庁の金は商家の払いより乾いている。気前よく笑う者もおらず、恩着せがましい顔もない。ただ名と額と手触りだけが順に流れてゆく。


 私も自分の袋を受け取った。重さが、いつもと少し違った。


 銅の鈍い当たりの底に、銀の硬い重みが混じっている。


 横で成安も袋を受け取り、紐口を締め直した。その顔は、別に嬉しそうでも何でもない。余計に渡された分の出所まで、もう半分、勘定がついている顔である。


「若様」


 私は小さく言った。


「今回は、あなた様の手柄でしょう」


「私だけではない」


 成安は袋を袖へしまった。


「書記組へ回った以上は、

  お前にも回る」


「そういうものですか」


「そういうものと思いなさい」


 言い方が、いつものように可愛げなく硬い。


 徴発帳簿の綻びを見つけたのは成安だ。私も横で紙を運び、写しを取り、控えをそろえたが、銀が増える筋ではない。むしろ、若様の見つけた破れの余波で、ついでにこちらまで湿った銭を触らされている気がした。


「私は、あまり気が進みません」


「なぜ」


「見つかった不正の上前を、

  あとでこちらへ撒いたような金です」


 成安は少し黙った。それから、机の端に置かれた筆洗を見て、


「では、執務のあと外へ出るか」


 と言った。


「酒でも飲めば、銭の顔も少し変わる」


 私は思わず若様の顔を見た。


 こういう銭ほど、夜のうちに酒と女へ消えるものだ。私は幼いころから、その手の消え方を何度も見てきた。


 しかも若様はまだ若い。変な遊びを覚えさせて俸禄を食いつぶすような真似になれば、福海大人にも申し訳が立たぬ。


 だから私は、歯止めのつもりで付いてゆくことにした。


2.


 私はてっきり、城門近くの酒肆へでも入るものと思っていた。


 だが成安は、表の通りを外れ、裏路地へ折れ、さらに屋台の灯が連なる細い路地へ入っていった。冬の早い夕闇に炭火が赤く滲み、煙が低く流れている。脂の焼ける匂いが、濡れた土の匂いと混じって鼻へ入った。


 羊肉である。


 漢人なら、ふつうは豚を恋しがる。私が訝っていると、成安は一つの屋台の前で足を止めた。


「ここがいい」


 そう言って、細い卓へ腰を下ろす。


 私は立ったまま言った。


「こんなところで飯を食うなら、

  宿舎の賄いと大差ありますまい」


「賄いでは世情が見えぬ」


 成安は炭火の上を見たまま答えた。


「宿舎の飯は、腹へ入るだけだ。

  ここでは、人の金の使い方と、

  口の軽さが見える」


 理屈としては、分からぬでもない。


 私は仕方なく向かいへ腰を下ろした。店主が羊串を並べ、塩を振り、脂の垂れる音が続いた。炭がぱちりとはぜ、煙がひと筋、こちらへ流れてくる。


 成安は串を受け取ると、すぐには食わず、一度だけ焼き色を見た。それから口へ運び、珍しく素直な顔で、


「火力が違うな」


 と言った。


「宿舎の賄いは十把一絡げで、

  肉まで冷えている。

  これは、まだ肉汁が残っている」


「そうだろう」


 店主が笑った。


「役所の鍋とは火が違うさ」


 成安はうなずいて、また食った。うまいものをうまいと言うときの顔は、李家でも政庁でもほとんど見たことがない。私はそれだけで少し面食らった。


 しかも若様は、そのまま黙って食うのでなく、隣の客が文句を言えば短く返し、店主が炭の値上がりを嘆けば一言二言受ける。愛想があるわけではない。ただ、場へ混じるのを厭わぬ顔をしていた。


 李家では見なかった横顔である。


3.


 そこへ、ひげを蓄えた男が卓へ加わった。四十前後に見える。衣はさほど上等でないが、くたびれ方が汚くない。


 私はひと目で、中規模の商家あたりで番頭をしている男かと思った。こういう屋台で油の匂いに気後れせず、客とも店主とも半歩ずつ距離を取れる男は、市場に珍しくない。


 男は腰を下ろし、他の客の話へ二つ三つ相槌を打った。自分から場を取るのでなく、聞き役へ回る手つきである。


 やがて、成安の串を見て、男は片眉を上げた。


「珍しいな。

  漢地の若いのが、それを選ぶか」


 成安は串を置き、短く答えた。


「毒がなく、旨ければ、

  禁忌を問うより合理的です」


 男はそこで笑った。だが笑いは長く続かず、すぐに次の客の愚痴へ耳を向けた。


 誰それが炭を買い占めただの、役所の書付は遅いくせに取り立てだけは早いだの、そんな街場の話である。男は多くを言わぬ。ただ、ときどき「そうか」「それは面倒だ」と短く返すだけで、場の流れを切らない。


 それでいて、成安が何か言うたび、話が妙にそこで切れぬのである。


 若様は「炭が上がれば串の値も上がるが、客の腹は同じようには増えぬ」と言った。


 すると店主が苦笑いし、隣の客が「役人みたいなことを言う」と笑った。成安は「役人です」と真顔で返し、今度は男が少しだけ肩を揺らした。


 気楽な席であった。


 だが私は、若様がこの手の場をただの気散じで使っていないことくらいは分かった。肉を食い、酒をすすりながら、人の言い方と、財布の軽さと、愚痴の向く先を見ている。宿舎の賄いでは世情が見えぬ、と言ったのは本気だったのである。


 ひとしきり食ってから、男は革袋から銅貨を出した。店主の手は羊の脂でぬめっていたが、男は別に嫌がるでもなく、その手へ銅貨を押し込んだ。


「落とすなよ」


 それだけ言う。


 油の手に触れるのを厭わぬところを見ると、やはり街場の番頭なのだろうと、私は思った。身分の高い者なら、ああいう手つきはしない。


 男はそのまま軽く会釈して去った。誰も引き留めず、誰も名を問わなかった。


4.


 男が去ったあとも、成安はなお二、三本、串を食った。


「気に入られましたな」


 私がそう言うと、若様は怪訝そうにこちらを見た。


「誰に」


「さきほどの男です」


「そうか」


 成安はそれだけで済ませ、盃の底を見た。


 別に追う気もないらしい。誰がどこの番頭で、どういう口を利いたか、そんなことより、炭の値と、客の愚痴の向きと、羊肉の焼け具合の方がよほど大事そうな顔である。


 私はその横顔を見ながら、妙な心持ちになっていた。


 若様は、禁欲家というわけではない。酒も飲むし、うまいものはうまいと言う。


 だが、遊びに溺れる顔ではない。娼館へ流れる手合いとも違う。屋台へ腰を下ろしても、ここで誰がどれほど懐を痛め、どんな文句をどの値へ結びつけるか、そういうことばかり先に見ている。


 帳場の外でも、結局は同じなのだ。


 人の腹の減り方、火の弱り方、銭の消え方。若様の目は、いつでもそういうところへ先に行く。


 宿舎へ戻る道すがら、夜気はもうかなり冷えていた。路地の奥では、まだ炭火の匂いが残っている。私はふと、さきほどのひげ男の手つきを思い出した。


 脂に汚れた店主の手を、別に嫌がりもせず掴んでいた。ああいう男は、市場でもざらにいる。場慣れしていて、余計な見栄を張らず、懐の銭を落とす先にも迷いがない。


 それよりも私の胸に残ったのは、若様の方だった。


 李家でも、燕京の政庁でも、この人は紙の傷み方ばかり見ていた。だが今夜は、串の焼け具合や、客の財布や、屋台の愚痴まで、やはり同じように見ていたのである。


 うまい飯を食いに来たのではない。


 人の暮らしの綻びが、どこで音を立てるか見に来たのだ。


 そして、そういう男は、たいてい自分の腹の減り方だけを後へ回す。


 私は歩きながら、ああ、この若旦那は帳場の外でも損耗を食って生きているのだ、と思った。

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